信心仏教

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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久しぶりに新聞を眺めていらた面白い記事を見つけた。

いわゆる平安仏教は「おがみ仏教」であり、鎌倉期の仏教は「信心仏教」だというのである。
つまり自分の外なる仏像を拝んだり祈ったりする仏教ではではなく、自己の内なる仏心/仏性に着目する「信」としての信心仏教という事を、禅門の人が書いているのである。

林遊は所謂「信心」という語が大嫌いなのであるが、仏教を自己の内面化していくという意味では何となく納得した文章だった。

浄土真宗では覚如上人以来の伝統として「信心正因 称名報恩」という枠組みで仏教を捉えるが、林遊はどうもこれが気に入らない。行のない仏教(宗教でもよい)がどこにあるのだと思うのである。
行という表現でなければ規範でもいが、規範の無い宗教などというものは存在しないのである。

規範という意味ではもう既に浄土真宗という宗教、特にご法義を「お取次ぎ」する真宗坊主の世界はアノミーの世界であると思ふ。阿弥陀様という存在は、クリスマスにプレゼントをくれる人の良いおじさんになってしまっているのが現状であろう。ご法義の世俗化ここに極まれりである。

念仏成仏 これ真宗。本願を信じ念仏すれば仏になる。なんまんだぶつのない真宗が何処にあるのかと、浄土真宗の僧侶に聞きたい気分ではある。
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