プロレスと信心

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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浄土真宗というご法義はホントに難しい宗教だと思ふ。
深川和上なら、それはお前の頭を使うからだ、と仰るだろうな(笑
 
大辞泉:ネット辞書によれば
しんじん
「名](スル)神仏を信仰する心。また、加護や救済を信じて、神仏に祈ること。
「―が足りない」「―を起こす」「―深い」
 
と、あるように、通常は人間の方が信仰する対象を信ずることを信心という。
自己が主体となって神仏に対応している関係を、浄土真宗以外の宗教では信心という。
 
ところが、浄土真宗ではこの対応が逆である。如来が主体であって衆生が客体だという。
逆対応であって如来という主体が、衆生という客体を包摂している状態を信と呼び、その包摂されている状態を信心と呼ぶ。
 
閑話休題(さて)
1950~60年代はTVの黎明期であり、その中で高い視聴率を誇っていた番組にプロレスがあった。
金曜日の夜8時からのプロレス放送は、白人相手の戦争に負けた腹いせか、黄色人レスラーが白人レスラーを叩きのめすシーンに男どもが喝采をあげていた。
 
ウチのじいさんも、この時間だけはTVの前に陣取って物も言わずにTVに食い入って見ていたものだ。
面白かったのは隣のじいさん。
 
TVの前に張り付いて、
いけ~、そこだ、コラッ後ろから来てるやろ、はよ後ろ見いや、ほらくそったれヤラレてもた。
いけ~いけっ、いけ~いけっ、はよいけ、肘うちじゃ生ぬるい、はよ、空手チョップ出せ~、空手チョップいけ~。
 
拳を振り上げ、声を嗄(か)らしてのプロレス観戦である。
 
二人のじいさんともに、頭の中にあるのはTVのプロレスだけ。
TVを見ている私も、私に見られているTVもそこには無い。じいさん達の頭の中は、ただただプロレスがあるだけだったんだろうな。
 
覚如上人の『報恩講私記』に「至心信楽 忘己速 帰無行不成之願海」(至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰す」とある。
これは、TVのプロレスを見ていた爺さん達のように、自己をうち忘れて阿弥陀如来の本願を聞信し、その聞信している法が心に充満している事を表現した言葉だろう。
 
自己を忘れるほどの対象に出会えないのが現代の林遊のような存在である。
しかし、なんまんだぶ、なんまんだぶと、キーボードを叩き、文字や声にした時、迷いの皮の中にいる林遊の外部から届けられ眼に見え聞こえて下さる存在はありがたいこっちゃ。
 
林遊を包んでくれている世界があり、その世界が今現在に届けられているというのが浄土真宗の信心なんだろうな。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ やったね

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