出体釈の話

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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親鸞聖人の主著は『教行証文類』といいます。
何故ならご本人が総序で『顕浄土真実教行証文類』と呼んでおられるからです。
文類とは教・論・釈の重要な部分をあつめ整理したものという意味です。

つまり、浄土真宗の、教えと行いとその証(あか)しの重要な内容を顕わした書物ということです。

あれっ、T・S会が喧しく言う信心は何処へ行ったのでしょう。

ありました、「教巻」に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」
現代語:
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたち衆生が浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界へ還って衆生を救うという還相が回向されるのである。往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。

とあって、浄土へ生まれて往く往相と浄土から還ってきて衆生を済度する還相の二種の回向と、教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし)が記されています。(ちなみにこれを昔から二回向四法と呼んでいます。)

なお、
教とは、阿弥陀如来の本願を説く『無量寿経』、
行とは、なんまんだぶを称えること、
信とは、回向された御信心、
証とは、無上涅槃の浄土(成仏)、のことです。

では、これの出拠を見てみましょう。

教は、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
行には、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」
証には、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」

と、それぞれ出体釈をなされて体がありますが信にはありません。

タイトルに『教行証文類』と三つの法があり、その内容を「真実の教行信証あり」と、四つの法でお示しですが信には出体釈がありません。

これを昔から行より信を開いた四法といわれ、信別開(しんべっかい)と呼称しています。

信心とは『大無量寿経』の本願文によれば、至心・信楽・欲生の三心です。

その、至心釈に
「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
と、至心は名号が体であるとされています。
信楽釈には、
「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」
と、信楽の体は至心であるとされ、欲生釈には
「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。」
とありますから、三心の体は至徳の尊号(南無阿弥陀仏の名号)だということになります。

これを昔から、行を離れた信もなく信を離れた行もないというので行信不離と言い習わしています。

T・S会では信心獲得とか信心決定を喧しく言い、名号を軽視していると聞いたことがあります。
なんまんだぶつは御恩報謝であるからしなくてもいいとも教えているそうです。
そして、高森教祖が、なんまんだぶつを称えているのを聞いたことがないという会員の声も聞きました。

すると、T・S会では体のない信を獲得することを奨めている事になるのでしょう。
まるで空中に楼閣を築くようなもので砂上の楼閣の信心であり、作っては壊れ作っては壊れる信心を奨めているのがT・S会でいう信心と言わざるを得ません。

ひょっとして高森教祖は『教行信証』という名目から、独立した信という体(物柄)があると錯覚したのでしょうか。

昔から行と信の関係を体・相で表現します。
体(たい)は南無阿弥陀仏、相(そう)を信といい、水と波の喩えで表現されます。
水が体であり波が相であると言います。

南無阿弥陀仏という救済の名号法が体であり、信心はその相だと言います。
水の無い波が存在しないように、水を離れて単独の波というものは有り得ません。
18願の真実信とは水の上の波であって、波には体という物柄はありません。波は単独では存在しないのです。

この波を単独で拵えようとするならば、それは浄土真宗の信ではありません。

このご法義で、「はっきりしません」とか「安心できません」などと、判ったとか分からないとかいう人は、水を離れて波をこしらえようとしているから永遠に安心が出来ないのです。
T・S会では行と信を別個のものとして捉え、自己に信という水を離れた波が単独で、ある、と教えているから、永遠に御信心を恵まれることはないのでしょう。

浄土真宗では、「体」である南無阿弥陀仏が、信心という「相」をとって、林遊を場所として、なんまんだぶ、なんまんだぶと現れ「用(はたらい)」ている状態を御信心というのでした。

なんか、酔って書いているので突っ込みどころ満載だな(笑

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