雑毒の善

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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TS会では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと教えているそうである。
善とは何か、という定義をしないで善を奨めるから会員は指示された「人集め・金集め」が善だと思い込んでしまう。

さて、浄土真宗でいう善とはなにか。

TS会が善の出拠とする『観無量寿経』では、

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
[註釈版聖典p.108]

と、ある。

これは古来から略観経とよばれ「具三心者 必生彼国」(三心を具するものは、かならずかの国に生ず。)の「必」に浄土願生者が深い関心を持って来たところである。

さて、善導大師は『観経疏』至誠心釈下で次のように仰っている。

「『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。 」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

これによれば真実とは、外に賢善精進の相(すがた)を現わし、内心に虚仮の思い(煩悩)を懐いてはならないとされる。
心の内の思いと外にあらわしている状態とが一致していてこそ、真実の善が行えるというのである。

まず、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒煩悩を無くせ。そしてその煩悩をなくした状態を行動にあらわせとされる。
だから内に煩悩を持っていて、些細な事で腹を立てたり、欲をおこしたり、そして自分本位のものの考え方をしたり、そういう根性を内に持っていて、そして外にだけ賢者のように振る舞ってもそれはダメだ、内も外もぴったり一致した、まことの心を持てというのが至誠心であるといわれる。

その至誠心によらずに行われた「善」は、全て造毒の善(毒の雑わった善を造る)であり、雑毒の善では浄土へ往生することは不可であるといわれている。

「なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

何故ならば、因位の法蔵菩薩が修行した善行は、一念一刹那の身口意の修行も全て真実心でなされたからであり、これに相応する真実の善行でなければならないからとされるのである。
これが真実の善であり、それ以外の善は「造毒の善」、つまり毒(悪)を造る善とされる。

TS会では、この善導大師の「至誠心」釈を、会員に奨める善の根拠としている事は以下のHPで明かである。

高森親鸞会のHP
魚拓

TS会は「善をすると善ができない自分が知らされる」とか「実地に善をやって見なければ知らされない」などと教えるが、真実の善とは何か分かっているのであろうか。やってみなくても判りそうなものだ。

阿弥陀如来の因位であった法蔵菩薩と同じような善行以外は、「三業を起すといへども名づけて雑毒の善」であり「虚仮の行」であると善導大師は仰るのだが、TS会ではこの法蔵菩薩と同じ善を会員に奨めているのである。

衆生が一念一刹那も真実の善が出来ないからこそ大悲の本願(十八願:念仏往生の願)が建立されたのであるが、TS会の会員は会の奨める造毒の善を修して、阿弥陀如来に成ろうとしているのであろうか。

TS会の「善をしなければ信仰は進みません」や「諸善は獲信とよい関係にある」という善の奨めの主張が非難されるのは、善に執着してしまう人々を作り出してしまうという事にある。

それは「信罪福心」に執着する心を増長させ、会員を真実のご法義から遠ざける行為だからである。
信罪福心の罪福とは因に返せば、善と悪である。
因→果
悪→罪
善→福
自らが行った善と悪に執着して、善悪の因果を超えた阿弥陀如来の仏智を疑う心が、己の罪福を信じる信罪福心である。
TS会では幼稚な因果の道理を説き、会員には善因善果 悪因悪果と自己の修した造毒の善因を信じ込ませ、因果を超えた仏智を信じる道を妨げているのである。

『無量寿経』智慧段では、釈尊がこの信罪福心を戒められている。

仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
[註釈版聖典p.76]

現代語:
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

親鸞聖人は、晩年この信罪福心に高い関心を持たれた。
85歳以降とされる『誡疑讃』では、この信罪福心を戒められ末尾には、

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
[註釈版聖典p.610]
とされ、自己の修した善を信じ、善因善果 悪因悪果 自因自果の因果に縛られ、因果を超えた仏智を疑う事を厳しく戒められている。

TS会会長はかって以下のように説いていたそうである。

「顕正」
常に虎の説法124P

「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って、十八願の願意である、信心正因称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。ーー
手本はいかに信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。ーー
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて、信心を得る方法に称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなけらばならないである。

真仮廃立128P
「廃立とは、廃は捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、捨てものであり、廻向せられるものは名号六字である」

しかるに、正本堂を建てる金集めと自身の名利栄達のためであろうか、幼稚な因果の道理を説き、会員を善の求道地獄に陥れている。
彼もかっては熱狂的に法を求めた事があり、まともな説教をしていた時期もあるのであろう。たとえそれが狂信的であろうとも、十八願の法の真実を求めた時期もあったのであろう。
しかし歳月は、彼を宗教を食い物にする一介の宗教ビジネス屋に仕立て上げてしまった。

あはれといいふもなかなかおろかなり、ではある。

参照:親鸞聖人の至誠心釈

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝