一心不乱の事

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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醍醐本という法然聖人の語録がある。
漢文(日本漢文)なのでよく判らないのだが、適当に意訳してみた。

原文:
一、阿弥陀経一心不乱事
一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者機念相投必成其事。
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
故云一心不乱。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。

意訳:
『阿弥陀経』の一心不乱ということ。

一心とは何に心を一つにするかといえば、
ひとむきに念仏を申せば阿弥陀仏の心と私の心が一つになるのである。

天台の『十疑論』に、
世間で人が慕うように、
人が慕うことを受け入れる者は、
お互いの思いがあい通じ合って必ず成就するようなものである。

慕う人とは阿弥陀仏である。恋せられる者は私たちである。
すでにひとむきに阿弥陀仏はそのような心を発されたのであるから、
はやく仏のお心と一つになるべきである。
そのようなわけで、一心不乱というのである。

これはまた、自力で行うわずかな善根功徳の諸行に、心をうつさないということである。

これは、以下の『阿弥陀経』にある「一心不乱」という経文について法然聖人が述べられたものである。

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舎利弗若有善男子善女人聞説阿弥陀仏
執持名号若一日若二日若三日若四日若
五日若六日若七日一心不乱其人臨命終
時阿弥陀仏与諸聖衆現在其前是人終時
心不顛倒即得往生阿弥陀仏極楽国土舎
利弗我見是利故説此言若有衆生聞是説
者応当発願生彼国土

舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。
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一心とは、阿弥陀如来の我を思う心と、阿弥陀仏如来を念ずる我の心が一つに成ることであるといわれる。
そして、不乱とは少善根としての善根功徳の諸行に心を移して乱さないことであるとされている。
もちろん浄土門の善とは、執持名号としてのなんまんだぶを称えることであり、これが善本(善の根本)であり徳本(徳の根本)であることは当然のことである。

それにしても、阿弥陀如来が林遊を恋慕して下さるという表現は、清僧とされていた法然聖人にしては面白い表現ではある。
「われ称え、われ聞くなれど なんまんだぶつ 連れていくぞの 弥陀の呼び声」という句があったが、阿弥陀さまに恋せらるるなら、浄土へ往かにゃぁなるまいなあ、ありがたいこっちゃ。

この阿弥陀経の一段だが、じいさんの阿弥陀経のおっとめの助音をしながらばあさんが、
「なあオメ、ここ有難いな。我見是利故説此言(がけんぜりこせつしごん)、われこの利を見るがゆえに、この言を説く、と言うてなさるんやなあ。仏さまは嘘つきなさらんからなあ」
と言っていたものだった。

当時はなんのこっちゃと想っていたが、林遊が阿弥陀経を拝読するとき、この「我見是利故説此言」の八文字をゆっくり丁寧にとなえるようになったのは、ばあさんのおかげだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…