信心の語義

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土真宗では「信心正因」といい、浄土へ往生するには信心が正しい因であるとする。
しかし、その信心というものが世間一般で使われている意味と大きく異なっていることから、さまざまな誤解を生むのである。

蓮師の『お文』には、「信心獲得」とか「信心決定」などという語が多いのだが、これをもって衆生の側に信心という物柄を得るように錯覚することが多い。
古来から浄土真宗では、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれ、信を自らの側に見ないという特徴がある。「若不生者」(もし浄土に生まれさせなければ、正覚を取らず)という、如来の信を仰いでいくのが浄土真宗の信であるからである。

さて、それでは、信心という語の意味を『一念多念文意講讃』梯實圓著から窺ってみよう。以下の引用は、『一念多念文意』の本願成就文についての解説からの引用である。なお、それぞれの引文については出拠を示すために『浄土真宗聖典』WIKIARCへリンクを作成しておいた。

信心の語義

「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれるように、親鸞聖人は、信心とは本願を疑う心がないことであると定義された。いわゆる無疑心である。法然聖人が『選択集』「三心章」(『註釈版聖典七祖篇』一二四八頁)に信疑決判を行い、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」といわれた釈を承けて、悟りと迷いとを信と疑によって分けるという信疑対を強調し、信の反対概念を疑とされていたからである。
「信文類」の字訓釈(『註釈版聖典』二三0頁)や法義釈(『同』二三四頁)にもそのことが見られる。
そこには「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」といい、無疑を信楽すなわち信心の名義とされていた。この疑蓋間雑の「蓋」とは、一般的には煩悩の異名で、真理をおおいかくすという意味を表していた。
しかしここでは本願を疑う心は、ちょうどコップに蓋をしたままで水を注いでいるような状態であるというので蓋という言葉を用いられたと考えられる。いくら本願の法水を注がれても自力の「はからい」という蓋をしていたのでは法が心に届かない。「疑いという蓋を法と機の間に雑えない状態を信心という」と知らせようとされたのであろう。

このように本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることは、如来の仰せに随順していることであるから、信は信順と熟字して随順の意味とされる。「信文類」(『同』二二六頁)に引用された善導大師の「二河白道の譬喩」のなかに「いま二尊の意に信順して」といわれているものがそれである。釈尊の発遣と、弥陀の招喚にはからいなく随順して、南無阿弥陀仏という願力の道を我が道と領解したことを信心というのである。

ところで親鸞聖人は、『尊号真像銘文』(『同』六五一頁)に「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」といわれているように、如釆の勅命に随順することを帰命の語義としても用いられていた。
こうして信心と帰命とは、元来別の言葉であったのを、親鸞聖人はどちらも如来のおおせにしたがうという共通の意味をもたせることによって同義語として使われていくのである。

また親鸞聖人は、信心のことを「たのむ」という和語であらわされることがある。『唯信鈔文意』(『同』六九九頁)の初めに「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれたものがそれである。信心とはわが身をたのむ自力のはからいをすてて、本願他力をたのみたてまつることであるといわれる。
この「たのむ」という言葉は、「行文類」(『原典版聖典』二一一頁)の六字釈にも帰命の帰の字の訓としても用いられていた。
すなわち「帰説(きえつ)也」の左訓に「よりたのむなり」とあり、「帰説(きせい)也」の左訓に「よりかかるなり」といわれたものがそれであって、「本願招喚の勅命」にわが身をまかせている状態をあらわしていた。
「たのむ」には現代では「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる。懇願する」などの意味があるが、親鸞聖人の「たのむ」の用法のなかには「懇願する」という意味は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは「たのむ」を漢字で書かれる場合には必ず「憑」を用い、他の漢字に当てはめることがなかったことによって明らかである。「憑」は、「よりたのむ・よりかかる・まかせる」という意味をもち、決して懇願するというような意味はなかったからである。
のちに蓮如上人が信心を専ら「弥陀をたのむ」といい表されたのはこの用法を踏襲されたものである。

また親鸞聖人は信心を「真」の意味とされている。「信文類」(『註釈版聖典』二三0頁)の字訓釈に「信とはすなはちこれ真なり、実なり」といわれたものがそれである。もともと「信」は「真」という意味であり、「真」には「実」という意味があるところから、信を真実といわれたのである。親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の真実なる智慧と同質の信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。
いいかえれば聖人が信心とは「本願他力をたのむ」ことであるといわれたときには、本願こそ究極の真実であるから、はからいなく「たのむ」という信相が成立するのだということを顕したかったのであろう。

通常の仏教では「修因感果」といって、因を修することによって果を感得することが生死の迷いを離れる道であり悟りへの道であるとされる。
しかし法然聖人は、悟りと迷いは信と疑によって決定されるのだと仰るのである。これが有名な「信疑決判」であり、これによって浄土仏教は信心の仏教であると断定されている。これを承けられた親鸞聖人は、その功を「正信念仏偈」の源空讃に讃嘆されておられる。「正信念仏偈」は正信(信)と念仏(行)を偈頌されたものであり信と行は不離である。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり)
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。 )

この法然聖人の信疑決判を、曇鸞大師の『浄土論註』に説かれる本願力回向の教説により、信は阿弥陀如来より回向される行信であり、信は仏性であり智慧であり、願作仏心(他力の菩提心)であるから、往生の正因は、信心であるとされたのが「信心正因」という言葉の意味であった。
本願が真実であるからこそ、その真実をはからいなく聞信し、受けいれた念仏の行者に信心が正因ということが成立するのである。

書きかけ.

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