第十八願と登山ルート

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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登山は、した事がないのだが、新しい登山ルートを発見するということは大変であるらしい。
特に、前人跡未踏の山であるなら、クレパスやガレ場など危険な場所を避けて登山ルートを探す事になる。
ルートの選択を間違えれば遭難ということになり、生命の危険と隣りあわせである。
新規の登山ルートを探すということは、自らの足と経験と能力を十二分に発揮して探すということである。
また、試行錯誤された先人の経験を聞くことも、前人未到の新しいルート発見には必要である。
このようにして、あらゆるルートを試行錯誤しながら探し、やがて、ルートを発見し登頂に成功するのである。

後の人は、先人が発見してくれたルートを頼りとして、ルートの地図に随って登山すれば最短の時間で登頂出来るのである。

さて、浄土真宗の所依の経典である『無量寿経』の四十八願には、衆生に誓われた願が三願ある。
至心信楽の第十八願と至心発願の第十九願、至心回向の第二十願の三願である。
この三願のうちで、第十八の願が衆生を浄土へ迎え取るという阿弥陀如来の本意の願であるということは、乃至十念の称名という、なんまんだぶが誓われてあるからであるというのが浄土門仏教の通規である。ゆえにこの願を念仏往生の願というのである。

龍樹菩薩は、『十住毘婆沙論』易行品で、阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。(*)と称名を示されて「易行道」を明かして下さった。
「正信念仏偈」の憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(意訳以下同じ:阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。それゆえ、つねに名号を称えて、仏のご恩を報謝すべきである」)である。

天親菩薩は、『浄土論』を著して、世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来(*)と、本願力回向の一心という信心を示して下さった。「正信念仏偈」の広由本願力回向 為度群生彰一心(本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、それを受けいれる一心「信心」が往生の因であると彰された。)である。

曇鸞大師は、天親菩薩のお心を『浄土論註』という書物を著し、阿弥陀如来の本願について詳しく解説して下さった。
報土(浄土)への因も果も、阿弥陀如来の誓願によって成就していると他力ということを示して下さった。(*)「正信念仏偈」に「往還回向由他力 正定之因唯信心」( 往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。 )と説かれたのがその意である。

道綽禅師は、このように先人が示された体系を、龍樹菩薩の易行道と、天親菩薩の阿弥陀仏より回向された信心を、曇鸞大師が示される他力という概念によって浄土門と名づけ、自因自果を説く聖道門という出家仏教とを分判されたのであった。(*)
「正信念仏偈」には、道綽決聖道難証 唯明浄土可通入(道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、 ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決着された。)と、ある。

善導大師は、師である道綽禅師の意を受け継ぎ、より精密に阿弥陀如来の救済を顕すことに腐心された。
観仏経典であるとされていた『観無量寿経』流通分にある、汝好持是語 持是語者 即是持 無量寿仏名(そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名「みな」を心にとどめよということである)に着目されたのである。そして『観無量寿経』とは、なんまんだぶをを称える者を、阿弥陀仏が救済する経典であると示されたのである。(*)当然、なんまんだぶを称える凡夫は、阿弥陀仏が建立した報土に往生するという凡夫入報説になる。
「正信念仏偈」では、矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁(善に誇る善人も、悪にひがむ悪人も、ともに哀れむべきものと思し召す阿弥陀仏は、大悲の光明を縁として育て、往生の因となる名号を与えて救いたまうと顕された。 )と、この御手柄を御開山が讃嘆されるゆえんである。

さて、因明(仏教論理学)の大家であった源信僧都である。『往生要集』の冒頭に、「予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。」(*)と、あるように、仏陀の覚りに至るような仏教の深遠な教理は自らの手にあまるが、念仏一門によって生と死を超える道があると身をもって示したのが源信僧都である。日本に浄土教を持ち込み、日本人の精神文化の基底に阿弥陀仏の浄土を持ち込んでくださったのが源信僧都である。日本の古典を紐解けば、必ず浄土思想に行き着くのだが、近代人は浄土という観念を忘れてしまったゆえに、生と死に煩悶しているのだろうというのは林遊の感慨である。また、地獄という概念が日本人に認知されたのは、『往生要集』であろう。

その地獄を、阿弥陀仏の救済の言葉によって無化したのが、次の「正信念仏偈」の文である。この文は『往生要集』「念仏証拠」の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(*) と、「雑略観」の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」(*)の文によられたものである。

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつ ねにわれを照らしたまふといへり。)が、それである。

さて、法然聖人である。聖人という呼称は御開山がそのように使われていたからである。
「聖」という言葉は、無分別知と言われる覚りの世界から、分別によってしか自らを措定しえない者に覚りの世界を示す言葉である。『歎異抄』に、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
と、ある述懐は、この無分別知の世界から法然聖人を通して届けられたなんまんだぶを感佩するお心を述べておられるのである。
なんまんだぶを称える者を救うというのが、『教行証文類』の「大信釈」にある念仏往生の願(第十八願)である。その阿弥陀仏の教説を、受け入れるか受け入れないかの決断を、法然上人は信疑決判と仰せであった。(*)

それを、「正信念仏偈」に、還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、本願を疑って受けいれないからであり、すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、 善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。)といわれるのである。

さて、宿善とか三願転入とか論じている輩は、行信という、如来から回向された、なんまんだぶという行と回向される信という意味が理解できない輩であろう。
南旡阿弥陀仏という仏が成就された名号は、光明名号摂化十方という救いの源泉であり、それを受け入れてなんまんだぶを称えることが信心であり、往生の正因である。

しかるに、この第十八願である念仏往生の願に背いて、自らが新しい登攀ルートを探そうとしている団体がある。
親鸞聖人が、自らの経験を元に、第十九願や第二十願の別ルートを行くのではないですよと、懇切にお示しくださった道を会員に実行させようという団体である。
いわゆる、三願転入というタームで、本物の第十八願へのルートを遮蔽している団体である。
御開山聖人が、自らの経験で、この道は行くのではないのですよと、化身土巻で懇ろにお示し下さった意味が判らずに、自らも御開山聖人と同じような道程を辿り、覚りへの道(ルート)を切り拓こうというのであろうか。
第十九願や二十願に拘泥し、第十八願の念仏往生の願を見失い、有りもしない行なき信心という物柄を求めている会員こそ不憫である。

御開山聖人が生涯をかけてお示しくださった道は、第十八願の全分他力の道である。何を今更、三願転入などという遠回りをする/させるのであろうか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

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