左文字 おせば右文字 助くるの

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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左文字 おせば右文字 助くるの
外に助かる こころやはある (利井鮮妙和上)

阿弥陀仏の「助ける」の左文字を、衆生の心に捺せば「助かる」という右文字が現れるという意味。
印鑑の左文字を紙に捺せば、そのまま右文字が現れる。
左文字のままが右文字で、右文字の他に左文字はなく、別のものではない。
助けるという阿弥陀仏(法)と、衆生が助かるという南無(機)の、機法一体という、いわゆる浄土真宗の安心の話である。
機法一体と機法合体は違う。
機が、法に包摂されていることを機法一体というのであり、いわゆる別々のものが合体するという意味ではない。
回向を首としての本願であるから(*)、Religion(再び結びつける:合体)の訳語としての宗教という語の意味と違うのである。

さて、同じ印鑑でも、これと全く違うのに判子(はんこ)信心というのがある。
誰かに、自らの信心を証明してもらい、これで間違いがないと判子を捺して貰おうという信心である。
自らが拵えた信心を善知識などに間違いがないと証明して欲しいのである。
どうせ判子を捺してもらうなら、阿弥陀さまに捺してもらえばいいのであるが(笑
このような信心に迷う人は、これで必ず救われてくれるという阿弥陀さまの御信心を聞かずに、自らの心に信心を拵え探そうとする。
そして、その信心が間違っていないかどうかの保証を求めるのである。これを判子信心という。

ご信心もなくて、中途半端に浄土真宗の「教学」と称するものを学ぼうとする輩もこの一類であろう。そもそも『教行証文類』を、理解しようというのが間違いである。この書は、御開山の信心の智慧によって書かれた書物であるから、信なくして読んでも意味不明である。
七百数十年以上も、色んな人たちが精魂込めて拝読し続けて、なお『教行証文類』の全体像が掴めず、判らん判らんと言われているほどの書物である。しかし、解からない中でもほんの一部分でも、有り難いなというところもあるから面白い書物であるのも事実ではあるが……。

なにはともあれ、『教行証文類』を読んで信心を得ようとする輩は、所詮、重箱の隅をほじくりかえしているだけであろう。
特に三願転入などという、このご法義をプロセスでしか考えられない輩にとっては、「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」(*)であろう。

物種吉兵衛さんは、
「聞けばわかる、知れば知れる。聞こえたはこっち。知れたはこっち。こっちに用はない。聞こえたこちらはおさらばと捨てる方や。用というのは我ゃ我ゃと向こうから名乗って下さる」
と、言われたそうであるが、聞いた私には用事がないのである。私の努力をゼロにした時、私の信心を離したときに、如来回向のご信心の月は皎々と煩悩の葦の生え繁る心に照って下さるのである。

御開山は、本願名号正定業 至心信楽願為因(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。 )と、なんまんだぶという行を顕して下さった。

法然聖人は、「諸人伝説の詞」に、

又人目をかざらずして往生の業を相続すれば自然に三心は具足する也。たとへば葦のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげゝれども、三心の月はやどる也。

と、言われておられる。往生の業とは、なんまんだぶである。

浄土真宗は、救済の法であるなんまんだぶを称える宗教である。そのなんまんだぶの法から信を別開して下さったのが御開山である。
ゆえに法のない信はないのである。南無阿弥陀仏とは、行であり教であり法である。何に救われるかといえば名号に救われるのである。
その名号が、なんまんだぶ、なんまんだぶと凡夫の口先に称えられているのを信というのである。
なんまんだぶという言葉は、そのまま来いよ間違わさんぞ待っておるぞという、阿弥陀仏の名号(なのり)である。

信心とか安心を論ずる前に、救済の法である、なんまんだぶを称えてみたらと思うのは老婆心かもな、どうでもいいや(笑い

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

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