学問(疑いの奨め)

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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昔は学文といったそうだが、これは文(漢字)の概念や多義性、漢文の用例を学ぶ事から学文といわれたのであろう。

学問を辞書で引くと、
(1)一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。
(2)勉強をすること。知識を得るために学ぶこと。また、それによって得た知識。
と、ある。

(2)の、勉強をすること、と言う意味では小・中・高・大学と勉強するのだが、ほとんどが知識を受け入れる行為であって、問いを発させる為のものではない。
一方的に知識を受け入れる、という受動状態に慣れきってしまって、問うという行為が錆付いてしまう。
学べば学ぶほど疑いが出てくるのが、本当の学びなのだが、現代社会では学ぶ事が増えすぎて疑問を起こしている暇もないようだ。
学問という言葉は「学びて後に疑うあり、疑いありて後に問いあり」、と聞いたことがあるが、正鵠を射たものだ。

よく禅宗などでは「大疑団」(人生に対する根本的疑問)を発して来い、などといわれるが 宗教を理解するにはこの疑いというものは大切なものだ。

時々、社会的理性のある人が、おかしな宗教にのめりこんで熱狂的になる例をみるに、ある意味でこのような人は疑うという事を知らずに育ってきたのだなという感を深くする。
知識を詰め込まれる受動行為に慣れきってしまい、その延長線上で属する教団の教義を疑うという作業無しで受け入れてしまっているのだろう。

宗教に嵌ったり、インチキ商法に嵌められたり、簡単に異性に騙されたりする人達は、疑う事を知らない、自己による問いという訓練をしてこなかったのであろう。

知識の上に知識を積み重ね、疑う事を知らない人ほどおかしな事に巻き込まれるというのはまさに学問のアイロニーである。

浄土真宗は「信」の宗教だといわれるが、
「私が疑っても疑っても、疑いきれない、真実なるものとの出遇い。それが信心です」
と、いわれるごとく、「疑い」があるからこそ真実との出遇いもまたあるのだ。

[20091203]

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