フェティシズム

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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仏教の縁起とか空などという概念は判りにくいが、以下の文章は判りやすかった。
縁起とか空とは、モノを実体化する思想に対するアンチテーゼである。
このような実体化/実体視を、フェティシズム(物神化つまり実体化)という形で考察しているのは面白い。

引用元:瓜生津隆真師著『龍樹ー空の論理と菩薩の道』p.100~
>>引用開始

ナーガールジュナが縁起をどのように説いたか、それを一口でいうと、縁起とは、①空であり、②相依性である、ということであろう。空とは、ものはすべてそれ自体として存在するのではないこと、すなわち実体(あるいは本体)はないという否定を示している。相依性とは、ものはすべて相依相関の関係にあること、すなわち相互依存の関係性を示している。したがって、縁起が空であるというのは、自己をはじめこの世界はすべて原因や条件によって生じ、また滅するのであって、それ自体として生ずるのでなく、また滅するのでないことを示している。

また、相依相関、相互依存の関係性とは、ものはすべて相互関係や因果関係などの関係性の上に成り立っているのであって、原因や条件などが即自的に(それ自体として)成立し、存在しているのでないことを示しているのである。

このようにものやものごとは、互いに因となり縁となって成立しているのであって、深いつながりのなかに存在し、成り立っている。
しかし日常的思考や思惟の立場では、自他を区別し、対立的にとらえ、とらわれている。その結果、自己や他者をそれぞれそれ自体として実体化し、固定的に見ている。ちなみにこのような考え方は、現代の問題としてフェティシズム(物神化)の上に見ることができよう。物神化とは、この実体化ということが根底にある。

たとえば価値という関係の体系がある。そこへ貨幣という中心が登場すると、その「中心化によってそれぞれの商品があたかも個としての実体であるかのごとき錯覚が生れ、関係性が隠蔽されて個々の商品が実休的・自存的価値を内在させるように見えてくる」三九ページ(丸山圭三郎著『文化のフェティシズム』勁草書房、一九八四年)という。まさしく、これがものを実体化するメカニズムであるといってよい。

なおまた、上記の著書には、言語哲学者ソシュールの手稿を引いて、これは西欧近代思想ヘ一大衝撃を与えるものであるという指摘があり、「縁起が空性である」というナーガールジュナの中心思想を理解する上に大いに参考になる。

事物そのものに先立って事物と事物のあいだの関係が存在し、その関係がこれら事物を決定する役割を果す。……いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。 (断章番号三二九五)

丸山氏は「これを読んだ私には、従来の観念論、実在論がともに疑ってみようともしなかった<ロゴスの現前>が、ソシュールによって根底から覆されたと思えた。文化現象の一切は表象によって二次的に生み出された共同幻想の世界で、その表象すらももともとは存在しなかった関係の網の目に過ぎない、という考え方は、ヘレニズム、ヘブライズムの正道である西欧近代思想をその根底から揺さぶる」(『文化のフェテシズム』一〇ページ)と述べられる。

この丸山氏の指摘を待つまでもなく、これはナーガールジュナがすでに考えていたことであって、ただその思想の意義が後に伝わらなかっただけである。私は改めて、ナーガールジュナ研究の重要性を強く感じたのである。

もう一つ、中国浄土教の始祖曇鸞の『浄土論註』に説かれる「無生の生」ということに一言しておこう。
この「無生の生」とは浄土への往生のことをいっているのであるが、その思想構造は「不生の縁起」と同じであるといえる。なぜなら、「不生の縁起」とは「不生起の生起」ということだからである。往生とは、実体として想定された自己(我)が浄土に生まれることではない。そのことを「無生」ということが示しているが、曇鸞は穢土の仮名人、あるいは浄土の仮名人といって、実体としての自己を否定している。もと四論宗(ナーガールジュナ系統の思想を研究する中国仏教の学派)の学者であった曇鸞は、ナーガールジュナの思想を基盤として、浄土教の思想を実に見事に構築したのである。

>>引用終了

と、いうわけで、興味を持ったので、丸山圭三郎著『文化のフェティシズム』を読んでいるのだが、智慧熱が出そうである。
この系統の本を久しく読んでいないという事もあるのだが、レトリックというか、引用される書籍や思想用語を多用しているので、その意味を調べながらであるから、ほとんど読めていない。
おまけに著者はランス語学者であるせいかフランス語やラテン語の語彙(片仮名語)を使うので訳がわからん(笑

しかし、当たり前だと思っているモノ/コトが、実は関係性が生んだ幻想に過ぎないのだということを説く点では面白いので、出来たら完読したいと思うけど、たぶん無理だな(笑

林遊の場合は、浄土や阿弥陀如来を、ほぼ実体視している。その他にもフェチの対象はあるのだが、縁起→無自性→空ということを通って、その上でのフェチだと言うと、たぶん龍樹菩薩(ナーガールジュナ)に殴られるので言わない。

なんまんだぶという言葉は、意味にがんじがらめに縛られている存在に、口蓋下から発せられる空気振動でもある。意味の奴隷として呪縛されている自己の妄想した存在からの解放する言葉が、なんまんだぶという口に称えられる言葉なんだろうな。
もちろん、「弥陀如来は因位のとき、もはら我名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずは、なにおか期せむ。」(三部経大意)の、仏の選択したもうた行業ではあるのもちろんである。

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