こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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なんまんだぶという、行に就いて信を立てる、「就行立信」に関する法然聖人の御法語である。

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『聖全』四 p191 『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)(*)

「ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。」(『聖全』四 p580 『和語灯録』の「往生大要鈔」)(*)

「心の善悪をもかへり見ず、つみの軽重を沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこすべき也」『聖全』四 p614 「浄土宗略鈔」)(*)

「ただ心のよき・わろきをも返り見ず、罪のかろき・おもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、声につきて決定往生のおもひをなすべし。その決定の心によりて、すなはち往生の業はさだまる也」(『聖全』四 p754 ご消息)(*)

「声について、決定往生のおもいをなすべし」とは、南無阿弥陀仏と称えたら必ず声が耳に届いてくる。その声が、なにゆえ往生決定の行となるかといえば、なんまんだぶと称え聞くことが、本願の行を行じているからである。
阿弥陀如来が念仏一行を選び取って、この念仏する者は浄土に往生させるという、本願に相応した行だからである。
行に就いて信を立てる(就行立信)とは、念仏を称えた者を往生させるという念仏往生の本願(第十八願)を信ずることである。阿弥陀如来が決定しているから、衆生の決定往生なのである。本願を信じ念仏するのである。

法然聖人は「浄土宗略鈔」では「声について」を「仏のちかひによりて」と、仰っている。「声について」と「仏のちかひによりて」は、同じ事だというのである。自分の口から称えられる、なんまんだぶはを聞くということは、そのまま如来の誓い(本願)を聞いていることだと仰るのである。

深川和上は、「なんまんだぶのワケはなぁ、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ、ということじゃ」と、お示し下さった。
「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよびごえ」と原口針水和上も讃詠されておられるように、なんまんだぶは称えて聞くものである。

法然聖人は、『選択本願念仏集』で、なんまんだぶという行は、「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。」(*)と仰せである。主著の、『選択本願念仏集』は、まさにその名のごとく、本願に依って選択された念仏を顕さんが為の書である。念仏は、本願によって往生行と選定されから、衆生の側から回向する必要はなく、称えるままが自然に往生の業因となるのである。
この、 「自然に往生の業となる」とは、実は阿弥陀如来の本願力回向であるとされたのが御開山であった。天親菩薩の『浄土論』と、その解説書である曇鸞大師の『浄土論註』の本願力回向によって、不回向とは本願力回向を顕すことであったとされたのである。如来の本願力によって回向されるから衆生の側からは不回向なのである。

御開山は『浄土文類聚鈔』で、「聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。まことにこれ選択摂取の本願、無上超世の弘誓、一乗真妙の正法、万善円修の勝行なり。」(*)と、不回向を、選択摂取の本願とか無上超世の弘誓などとされていることからも分る。
また、「行巻」の六字釈自釈で、「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。」(*)と仰るのも、このような法然聖人の意をうけられたからであろう。

越前の道元禅師は『弁道話』の中で、「口声をひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし。」(*)と、云われたそうだが、たしかに自力の行として口称のなんまんだぶを捉えるならそのように見る事もできるであろう。現代人もまた、本願力回向の、称えて聞くという名号を知らないから禅師と同じように念仏を蛙の鳴き声のように理解しているのであろう。
越前の黒田沐山居に以下のような詩がある。

ききつつぞ 足をの(伸)ぶれば
たらちね(母)が もも(腿)のあたりか
ぬくぬくし ころ(児)が あなうら(蹠)
……ちぢに鳴く
田のかはず(蛙)めは おも(母)よ なに……
……彼こそは はうずびく(法蔵比丘)よ
おぼろよ(夜)に
むらの人どちやす(寝)むまも
おもひ くだ(砕)かす ぼさつ(菩薩)どち なれ……
黒田沐山居 『かはづ抄ー南無母の歌』

母ちゃんと寝床に入いり、寝物語を聞きながら、だんだん足をのばしていくと、足の裏が母ちゃんの 腿のあたりにふれてとても温かい。
蛙の鳴き声が聞こえる。
「母ちゃん、田んぼでぐわぁぐわぁ鳴いているあの蛙は何?」
「あれは法蔵比丘だよ。おぼろ夜に、村の人々が寝ている間も、みんなのために心を砕いて思いをかけていてくださる菩薩さまだよ」

雪解けの遅い北越で、春冷えのする夜の母と子の会話である。「春の田の蛙の昼夜に鳴く」声にもなり、聞こえて下さる「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」との呼び声であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…… こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。これが仏願を聞くということである。

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