宿善?

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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親苦、子楽、孫乞食という俚諺があるのだが、三代目というのは微妙な立場なんだろうな。
そんなこんなで、御開山の言われていない新しい名目を導入すると後世の人が誤解/錯覚して、浄土門の中に宿善なる善の勧めを持ち込む求道主義者が出たりする。いわゆる目的論者である。御開山の示して下さった、本願力廻向のご法義に入る道は無いのであるが、あると妄想している立場であろう。

で、暇なのでUPしてある三代目の覚如上人の伝記である『慕帰絵詞』(*)に少しく注釈を付加してみた。覚師は遇法の因縁を説明する用語として宿善という語を使われておられるのであろう。
以下、『慕帰絵詞』の説明をメモ用にUPしておく。

浄土真宗で「宿善」という言葉の意味でよく参照される『慕帰絵詞』第五巻 第一段の宿善の事についての文章。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえ作成された伝記である。しかして覚師を讃仰するあまりに筆が滑ることもあったことに留意して読むべきであろう。なお宿善の語義は、前世・過去世につくった善根功徳のことであり、本文中で覚師が『無量寿経』の往覲偈を引いて、曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜(むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。)とあるように過去世における善根を指す言葉である。あくまでも遇い難き生死出ずべき道に遇い得たことを感佩する語であることに注意すべきである。なお、御開山には宿善という語は無いが法に遇いえた慶びを語る宿縁という語はある。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったからであろう。後年、蓮如上人は宿善という言葉を使われるが、この場合も「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」(現代語訳:宿善がすばらしいというのはよくない。宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである)(御一代聞書No.233)と、いわれるように宿善とは、法に遇い得た現在から過去を振り返る言葉である。

 御開山の教化に会った関東の古参の門弟との軋轢に呻吟した覚如上人であった。「体失往生と不体失往生」とか「信行両座」の諍論は、御開山の思想から想起すればまゆつばであるが、御開山が強調された本願力回向のを強調されようという意からは首肯できる。
しかして、その副作用として法然聖人が開顕して下さった、 選択本願念仏という、なんまんだぶを称えるという行を軽視する輩を生み出した遠因にもなる人であったとも思量する。
そもそも浄土教とは、龍樹菩薩が『十住毘婆沙論』で示されたごとく、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

なんまんだぶを称えて、 阿耨多羅三藐三菩提を得るご法義である。安心とか信心ということは、称えられている、なんまんだぶの上で論ずることである。御開山が開顕して下さった浄土真宗は、なんまんだぶを称えた者を救うというご法義であって、なんまんだぶを称えない者を救うというご法義ではないのである。唯円坊が、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と、ただ念仏してといわれる所以である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ