おもふ

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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おもふ、という日本語がある。

人は誰でも「おもふ」という言葉を使うのだが、この言葉は多義的概念であって、判っているようで解らない言葉だったりする。
日本語は同音異義語が多いので、おもふという言葉の意味の把握がやっかいである。漢字語では、意、惟、謂、憶、懐、顧、思、想、念という区別があるのだが、日本語ではこれらを含めて「思ふ」という言葉に集約するのであろう。

さて、自我意識に目覚める林遊の中学生の頃か「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉に、外部世界の現象は、わたくしの描く妄想であり、我の感じる「おもふ」という直感だけがわたくしであると思っていたものである。
今にしておもえば、いわゆる主客二分以前の言葉によって分節することの出来ない世界を表出する言葉が「思ふ」という言葉だと思っていたのである。しかして、この「思ふ」という自己の内面世界を人に理解してもらえるように伝えるには言語による表現によるべきであると思い、片っ端から本を読み辞書を読み語彙を増やすことに専念していたのが中学生の頃ではあった。結果は、お前のいうことは意味が解らんであった(笑

爾来、言葉によって自己の内面世界の「思い」である内部言語を、外部言語に翻訳する作業を止めた。《恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす》という言葉があるが、言葉によって意味を固定するより、思いを言葉につむぎだす以前の「おもふ」という世界があるのであろう。御開山は、聞思莫遅慮(聞思して遅慮することなかれ)と仰せだが、この思という言葉に万感の思いを込めておられるのかもと「思ふ」。
それは、それとして、以下の丸山 圭三郎 氏の著書、『文化のフェティシズム』による「思ふ」という言葉の考察は面白かった。

成人してから西欧語をいくつか学ぶ機会をもったが、日本語の「思う」にあたる言葉に出会ったためしが一度もないような気がする。小倉百人一首には、百種中二十余首のなかに「思ふ」という動詞が現れている。

思いつくままにそのうちの数首をあげれば、いずれも「ものを思ふ心」を詩っていて、この「もの」が「物」でも「モノ」でもないことはいうまでもあるまい。

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
ものや思ふと人の問ふまで

逢ひ見ての後の心にくらぶれば
むかしは物を おもはざりけり

長からむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝はものをこそ思へ

嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな

人もをし 人も恨あぢきなく
世を思ふ故にもの思ふ身は

「思う」は{分別智}としての倫理的思索でも合理的思考でもない。
それは「ねがい」であり「憂い」であり「恋い慕うこといつくしむこと」であり<来し方・行末>をめぐる追憶と予見・想像でもあって、さらには理性/感性といった二分法以前の身体的パフォーマンスとしての{顔の表情}でもある。
「おもへり」なる大和ことばは面貌を意味し、「おももち、おもかげ」とともに「思ふ」と同根と聞く。(万葉「物悲しらに思えりし吾子の吾子の刀自を…」)

ボードレールは……黄昏の海と空の無限を前にした自我が、限りなく拡散し消失するのと同時に限りなく収斂し充足する経験を詩って、これこそ「音楽的思考、絵画的思考だ」と言っている。しかしそれは、「音楽的」とか「絵画的」とか「詭弁や三段論法や演繹なしに」いう修飾語の助けを借りざるを得ない。「思考する」という動詞であった。「思う」はこれらを一語で表すばかりか、「さしも知らじな燃ゆる思ひ」という火のイメージをも生み出すのである。『文化のフェティシズム』p.252

日本海の海原に沈んでいく、真紅な夕日の前に一人の人間として立つとき、自己が崩壊し夕日に溶け込むような思いがある。西行は伊勢の神宮に参拝して、

なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

と、詠ったそうだが、彼が日本海に沈む夕日を前にしたならば、
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えることしか出来なかったであろう。言葉を超えた世界から言葉になって届く、ことばであった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これが浄土教の救いである。

 

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