大豆(まめ)ぬすみ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗の古参の門徒は、あさましいとか恥ずかしいという独白をしたりする。
独白であるから自己内対話であって外へもらすような言葉ではないのであろう。浄土真宗のご法話では譬喩や例話などを語るのであるが、これを自分の話と聴けるようになることを古来から「耳を育てる」といっていたものである。
人にばれなけれがよいのではなく、人を超えたものを感じる時、あさましいとか恥ずかしいという思いがわくのであろう。このようなお育てが世俗の倫理観を超えた浄土真宗の倫理観であろうと思ふ。

四十五
大豆(まめ)ぬすみ

一 中むかし書にも見えたるたしかなるいさぎよき噺しなるが 百姓佐平
といういふもの家まづしくして 夫は他国へかせぎに出(いで)て久しく家にかへらず 妻は三才に成小児と家に居けるが いさゝかの賃銭にてやとはれあるきけれどもいよいよまづしく 親子両人たへがたき貧苦より貧のぬすみ心出て 人の畑の大豆をむしりてぬすみかえらんと 人の寝しづまりて丑みつごろに三才になる小児をつれて畠ある所へゆきて 母(かか)はそちをもたべさすため大豆をぬすみに来たりしゆゑ 其方(そち)は道に立て居て人はこぬかと見て居よといひつゝ 畑の中に入大豆のさやをむしりてたもとの中へおしこみおしこみ小声になりて だれも来はせぬかといへば 小児のこたへには たれも人はひとりも来りはせぬ 御月様が見てござるばかりじやといふ 母親畠にありながら小児がいひし一言むねにこたへ 其むしりてたもとにあるさやまめをそのまゝ両袖に入れながら三才の小児が手をひき 家にもかへらず大豆の畑主の家にゆきて 夜ともいはずたゝきおこして そのあるじに はじめおはりを打ちあかしてあやまり入たれ 人は見て居ずとも天の月日の見て居たまへるはおそれざりし心中こそおそろしけれと ざんぎさんげのなみだにむせびひれふしければ 畑ぬしも自身の心中にひき合せて ぬすみし大豆はその小児にくれたりとぞ 小児何ものぞ天にくちなし人を以ていわしむる 母なに人ぞ小児の一言にて悪心をあらためたるは善女人なりけれ

通俗『仏教百科全書』第三巻 第四十五より。

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