「あばたもえくぼ」論

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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御開山の「真仏・真仏土巻」の引文を『涅槃経』の上でチェックしてたのだが、あの人はとんでもない世界を見てなはったんやなと思ふ。
その意味で、田村芳朗氏の言われる「あばたもえくぼ」論はなるほどと頷かせる。
法然聖人の提示された、穢土・浄土の「相対的二元論」から、本願力回向の信心によって「相対の上の絶対」という思想を形成なさったのであろう。それが法然聖人の真意であるとされたのである。

越前の門徒は、本願力回向の浄土真宗の《ご信心》について「大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心、数知れず」ということを云っていたものだ。家の婆さんもよくこの語を示してくれていた。
自分が得た《信心》なるものを否定する意と同時に、常に我が口を通して聞こえて下さる、なんまんだぶという阿弥陀さまの呼び声に愛憎を超えた寂滅の浄土を感じていたのであろう。

穢土と浄土という界(さかい)は厳然としてあるのだが、浄土という世界から届く、覚りの消息が、なんまんだぶという声である。この覚りの世界を受け容れることが浄土真宗の《ご信心》である。
その意味で、浄土真宗における信とは阿弥陀如来の覚りを内に含んだ覚りであるような信であるから、「信楽受持 難中之難無過此難(信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん)」である。

もちろん、自己を一人の愚か者であるとして阿弥陀如来の、なんまんだぶを称える教法の前に立った人には素直に受け容れられる行法である。
しかし世俗の学問とか知識というものに覆われて、如来の本願を聞くピュアなアンテナの感性が錆付いている者には、声となって耳に聞こえて救済するという、なんまんだぶのご法義は理解不能であろう。「大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心、数知れず」である。
禅門では、「大死一番」ということをいうが、「前念命終」p.509と、一発死んでみると「後念即生」ということが解るかもしれない。その意味では信は覚りを内に含んでいるのかも知れないと、思っていたりもする。
「あばたもえくぼ」、実は自分の周囲に、阿弥陀如来の覚りの世界が、ぎらぎらと輝いているのだが、信心に固執しているから見えないのであろう。
「向かわんと擬すれば即ち乖く」という禅晤があるが、信心が欲しい、信心が欲しいと凝り固まればますます御信心から遠ざかるものである。
浄土真宗の《ご信心》は、信心を離したときに、「重誓名声聞十方」と聞こえて」くるのである。

酔っ払っているから、何いうているかワカランけど、「あばたもえくぼ論」から、浄土真宗の《ご信心》とは禅門のいう悟りに近いという視点から考察してみた。

→「あばたもえくぼ」論

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末法灯明記

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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先日のブログのリンク先で、法然聖人に影響を与えたであろう『末法灯明記』の話しがあったので、伝最澄撰といわれる『末法灯明記』をUPした。
伝という表現は、最澄撰述と伝えられているという意味であり、最近の書誌学などの成果で、真偽が定まっていない場合に「伝」という。

もちろん、法然聖人や御開山は、最澄の撰述として『末法灯明記』をご覧になっている。
御開山は、化巻で『末法灯明記』をほぼ全文引いておられるが、乃至されたり略された部分があるので全文を復元してみた。この『末法灯明記』は、念仏を弾圧した『延暦寺奏状』で、今は未だ末法ではないという諭を、延暦寺の開山である最澄の『末法灯明記』を依用して正・像・末の旨際を明かそうとされたのであろう。あなた達の延暦寺を開創した伝教大師も言われているではないか、と仰りたかったのである。(106)

無戒名字の比丘なれど
末法濁世の世となりて
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ

ともあれ、戒は無くても、本当のなんまんだぶのご法義をお取次ぎしてくれる坊さんなら、われら門徒も応援するであろう。

『末法灯明記』

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