仏性の開覚

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
0

仏性の開覚については「真仏土巻」で、

【37】しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(同・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。(*)

と、あります。
仏性には仏の本性という意味と、仏に成る可能性などの意味があるので文脈に添って読む必要があります。『涅槃経』(師子吼品)(*) では「一切衆生 悉有仏性」と、あらゆる衆生には仏性があると説きます。そして「如来常住 無有変易」を説き如来は常住であると説きます。ただ凡夫に於いてはこの仏性は煩悩に覆われていてわからないと説きます。

御開山は「真仏土巻」で『涅槃経』(師子吼品)(*) の、仏性の眼見(眼で見るようにはっきりと仏性を認識理解する事)と、聞見(聞いて仏性を領解すること)の一段を引文されます。そして凡夫がはっきりと仏性を眼見するのは浄土に於いてであるとされます。つまり仏の法性を体得する仏性の開覚(さとり)は浄土に於いてであるということです。高位の十地の菩薩(涅槃経では十地を十住といふ)でさえも少分しか仏性を眼見できないのであり、ましてや「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。」だからです。

これに対して聞見とは仏性を眼見するのではなく、この娑婆世界に於いて、汝は浄土に往生して仏に成るべき者なのだよ、という本願のいわれを聞くことです。本願の言葉を聞いて信知するという知り方が聞見です。
この聞見は、眼見のようにまるで眼で見るようにはっきりと仏性を認識し体得することではなく、必ず仏に成らしめるという本願の教説を聞いていくことです。この聞見が浄土真宗に於ける聴聞です。仏教では意思による心身の活動を、身・口・意の三業といいます。口業とは言声であるから語業ともいいます。浄土真宗は、如来の真実なる言葉を聞くということを重視する聞の宗教なので、身業・意業の外に特に語業というものを大切にします。それはまた色もなく形もなく心も言葉も及ぶことのできない、凡夫には認識しえない真実の世界を言葉によって表現するからです。このような言葉を超えた世界からの言葉を、先人は、み言葉にたまわるという表現をしていたものです。

この聞見という本願の言葉を聞くことを、浄土真宗では「聴聞に極まる」と言い慣わしてきました。聴聞することは手段ではなく「若不生者」という、如来の目的を聞くということですから極という字を使って極まるというのでした。真実である如来の目的を聞くから如実の聞といわれるのでした。
もちろん聞く方は林遊のような凡愚ですから、聞いてもすぐに忘れます。しかし、忘れたらまた聞けばよいのです。そして、聞いた法話を思い出し味わったり、聖典を拝読したり、選択本願の名号を称えることも聞見です。

さて、御開山は「信巻」信楽釈p236で『涅槃経』(師子吼品)(*) を引いて、仏性とは「大慈大悲」「大喜大捨」「大信心」「一子地」であるとされています。
ここでの「大慈大悲」「大喜大捨」「一子地」は浄土へ往生して仏となって得る果ですから「果仏性」といいます。
そして「大信心」は如来から仏になる因として衆生に与えられる信心ですから「因仏性」といいます。これを真宗では信心仏性といいます。つまり「至徳の尊号」を体とした(至心・信楽・欲生)という三信即一の真実の一心を与えて、汝は仏になるべき者なのだよ、と如来は喚び続けておられるのでした。この「一心の華文を開」けば、至心は名号を体とした如来の智慧であり、信楽は至心を体とした如来より回向された御信心であり、欲生は信楽を体としたわが国に生まれしめんという如来の慈悲です。「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命」(*) とされる所以です。

御開山が「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(*) とされたように、三信即一の真実の一心は、具体的には、なんまんだぶという声と言葉になって称えられ衆生の上に顕現しているのです。
だから、「これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す」(*) とされるのでした。
ところが信心の語を自らが信じる心であると受けとってしまう者もいます。このような輩は名号の功徳性に着目して、その名号を称え仏に回向することを信心であると錯覚します。名号を称えるという行は真実の行なのですが、称え心が自力のはからいなのでした。これを御開山は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」といわれたのでした。まさしく第二十願の行者の様相でした。もっとも如来回向の御信心を知らず、名号も称えずして行に迷い自らが拵えた信に惑う輩より、行が真であるだけましでしょうけど。

ともあれ真実信心の念仏者は、なんまんだぶを称えて聞いていることが、すなわち自らの因仏性であり、回向された御信心である仏性を聞見していることなのでした。これはまた、法然聖人が、「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえばこゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(大胡の太郎實秀へつかわす御返事)(*) といわれた、汝は浄土へ往生して仏になるべき者なのだよ、という如来の喚び声でもありました。

(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

« Prev: :Next »

Leave a Reply