名号(みょうごう)

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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名という漢字は、夕+口の会意で出来ている。
夕方の暗闇で、人に自分の名を名のることにより、名(な)の意をあらわすことから出来た字だそうである。号は、口と音符号(ごう=名をあらわす)形声文字であり、呼ぶとか呼びかけるという意があり呼び名を意味する。

浄土真宗の先輩の門徒方は、南無阿弥陀仏という名号を、いのちの親さまである阿弥陀如来の「お名乗り」であると示して下さっていたものである。
なんまんだぶの名号とは仏の「名のり」であり、阿弥陀仏のさとりの世界(=浄土)からの仏を示す名のりであり、それはそのまま真実界からの「欲生我国(わが国に生ぜんとおもえ)」の喚び声である。煩憂悩乱の生き方をしている者に対して、我が、いのちの親なのだよという浄土からの名のりであろう。
浄土真宗のベテランの門徒が、阿弥陀如来を「親さま」と呼称するのもその意である。
その親さまの名前は、なんまんだぶなのであった。梯和上は「いのちの親」という表現をされたが、なんまんだぶを称える行為は、いのちの親との親しき交流でもあった。それが、往生浄土の真実の宗(=教法)なのであるが、頭の悪い「智愚の毒」に侵された大谷派の社会参画派の真宗坊主は、「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまると」『浄土宗大意』という教説が判らんので困ったものだ。
ともあれ、浄土真宗に於いて、何故か、なんまんだぶという名号について考察した論文はあまりないので、『浄土系思想論』鈴木大拙著の「名号論」をUPしてみた。

大拙師は禅門の方であるから、少しく禅門風の主客未分の経験的一元論で見ている視点もあるのだが、なんまんだぶという称名の位置づけを展開してくれるのはありがたいことではある。
このご法義の先輩である物種吉兵衛(1803~1880)さんは、

聞けばわかる。知れば知れる。聞こえたはこっち。知れたはこっち。
こっちに用はない。聞こえたこちらはおさらばと捨てる方や。用というのはワリャワアリャ(我や我や)と向こうから名乗って下される。

といったそうであるが、まさに、なんまんだぶとは親さま(阿弥陀如来)の、名乗りであろう。
御開山が南無阿弥陀仏の六字釈で、「是以 帰命者本願招喚之勅命也(ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」とされた所以である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
リンク:浄土系思想論─名号論