親鸞における「言葉」

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
0

ブログネタがないので投稿したFBより加筆転載。

ふと思い立って「名体不ニ」でHDにグリップをかけたら以下の大峯顕師の文章がHit。

たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不ニと言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不ニということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。
*出拠は不明であり〔〕間は林遊において附した。

真宗ではご信心を強調するので、名号は、いわゆる法体名号として棚上げしてしまい、口に称え耳に聞こえる言葉としての念仏を論ずることは少ない。そのような意味では上記の大峯師の考察は面白い。

名号に関して浄土真宗では、蓮如上人の『御一代記聞書』の六九条に、

一 他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。(*)

と、あるように他宗とは違う特殊な本尊論がある。これは現在残っている御開山の名号に仏の座である蓮台を描いていることからも本尊としていたことはあきらかである(*)。 もちろん、木像も絵像も名号も、阿弥陀如来の大悲による救済の象徴表現であって、どれかに固執すれば偶像崇拝の過に陥ることになるであろう。
おなじく『御一代記聞書』の五条には、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。(*)

と、ある。この「本尊は掛けやぶれ」とあるのは、固定した礼拝施設ではなく、蓮如上人の揮毫し下付された名号を、門徒の家々を持ち回って行われる「講」の場で壁に掛けて仏法讃嘆したから「本尊は掛けやぶれ」といわれたのであろう。
蓮如上人ご在世の頃は、現在のように真宗の寺も少なく──蓮如上人ご往生後50年を過ぎた天文二十四(1555)の時点で真宗寺院は二百五十ヶ寺であったという(千葉乗隆師の「浄土真宗と北陸門徒」四 北陸門徒の組織より)(*)──、まして門徒各戸毎のお仏壇すら無かった時代である。
しかして、蓮如上人の「タスケタマエトタノム」の教えが、燎原の野火のように拡がるにつけ、本願のいわれを聴くために、さまざまに場所をかえて集まった。その場の壁に、蓮如上人から下付された「南無阿弥陀仏」という名号を掛けて、本尊として崇め聴聞したから「本尊は掛けやぶれ」といわれたのであろう。 聴聞する場を変えるたびに、ご本尊を移動し掛けかえたのである。

蓮如上人の示して下さった、タスケタマエトタノムとは、南無阿弥陀仏というインドでうまれシナを経由し日本へ伝わった語(ことば)の日本語化である。
御開山は、いわゆる「自然法爾章」で、

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(*)

と、南無阿弥陀仏と たのま(憑)せたまふを文選読みによって、南無阿弥陀仏と憑むを同義語とされておられる。この意を蓮如上人は「タスケタマエトタノム」と表現されたのである。日本語によって阿弥陀如来との言葉の回路を開いてくださったのである。当時越前で流行(るぎょう)していた時衆(宗)の、無信単称の南無阿弥陀仏に対して、ご信心の念仏(なんまんだぶ)の謂われを示して下さったのである。

これを受け継いだ昔の越前門徒は、「なんまんだぶ なんまんだぶ ようこそ ウラんたなもんをなぁ、なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいのぉ」といっていた。 「ウラんたなもんをなぁ」という機と、「なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいのぉ」という法の、機法二種一具の深信である。『無量寿経』の乃至十念という、なんまんだぶのお謂われが自分のものになっていたのであろう。

さて、大峯顕師は『親鸞における言葉』という小論で『一多証文』の、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(*)

の、「この一如宝海よりかたちをあらはして」を手がかりに、記号としての言葉ではなく、言葉としての仏ということを哲学的手法で考察されている。いわゆる浄土真宗に於ける「名号」という言葉の根底を考察する大峯顕師の最初期の考察であろう。井筒俊彦氏の『意識の形而上学』の仮名という示唆、鈴木大拙師の『浄土系思想論』の名号論を経て、大峯顕師の純粋言語という視点で、なんまんだぶという称名を考察するのは面白かった。

ともあれ、哲学とか愛智学についてはサッパリ不案内なのであるが、面白い論文だったのでリンクしておく。プロである真宗の坊さんは、御開山が八十八歳の時に著された、『弥陀如来名号徳』を精読されたし、こんなことを書くから真摯に仏道を求めようとする求道主義者に嫌われるんだろうな、まあどうでもいいけでど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
親鸞における「言葉」へのリンク

« Prev: :Next »

Leave a Reply