なんまんだぶの響き

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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梯實圓和上の晩年の講義の最後に、「我々は、もっとお念仏するようにせんといかんですなぁ」と、仰ったことがある。浄土真宗は、なんまんだぶを称えるご法義である。

このご法義に入りたての人は、信心とか安心とか信心決定とか喧しい。しかして、あんた何を信じるんじゃと問うと要領を得ない答えしか返ってこない。
こういう輩に、『無量寿経』の第十八願文(*)をいうてみぃ、というと答えられないので困ったものである。時々坊さんにもいる(笑
本願の至心・信楽は阿弥陀様が成就してあるから欲生我国と我が国に生まれんと欲(おも)いて、乃至十念と、なんまんだぶせよが、念仏往生の第十八願である。念仏往生と信じるのが浄土真宗の信であった。
ところで本願寺派の「宗門総合振興計画」なるPDFを開いてみたらTopに下記の梯實圓和上の言葉があったので、文字化しておく。安心とか信心に迷っている人には、己の口を使って称え耳に聞こえる、なんまんだぶという言葉の響きに心を致して欲しいものである。

『ほんまに大丈夫ですか?』

 私みたいに80も半ば過ぎるとな、何が起きるやわかりゃしませんからな。今日あって明日のことはわかれへんねんから、危ないもんや、ほんまの話。お互い自分の「後生の一大事」を、シカッと決めとかなあきませんで。ほんまに大丈夫ですか?

 阿弥陀さまのお救いがいちばんハッキリするのは、「なんまんだぶ」という声です。この声が聞こえてくるはずだ。聞こえなんだら称えなはれ。称えたら聞こえてくるでしょう。なんぼ耳が遠うても、自分のいうた声は聞こえるわ。
阿弥陀さまがね、「必ずたすけるぞ、私にまかせなさいや」とおっしゃってくださってるんです。このお言葉に対して、そうやったなぁと気がついたら、「ありがとうございます」というたらええ。それがお念仏なんです。
そうでしょ。信心ちゅうのは、ワシがしっかりすることとちゃいまっせ。病気でもしてみなはれ、シッカリなんかできますか。シッカリせよというのは、仏さまが私におっしゃってるんと違うだろ。仏さまのほうが「心配するな、私がシッカリしてるから、俺にまかせとけ」とおっしゃってるんですよ。だから「ありがとうございます」といいなはれ。
いえなんだらそれでもええわ、それでええ。まかせといたらええんだ。それが「まかせる」ということですわ。
阿弥陀さまは「たすけてやるぞ」とおっしゃる。それが「なんまんだぶつ」という言葉ですよ。「俺が引き受けたから心配するな」というのが、阿弥陀仏という言葉の意味なんです。ご開山はそうおっしゃる。
「なんまんだぶつ」はね、「たすけてください」とすがりついてるんじゃないんですよ。安心しておまかせをする。これが浄土真宗の信心といわれるもんなんですね。「なんまんだぶつ」という声が聞こえたら、「俺がお前を引き受けたぞ」と、阿弥陀さまが一声一声、安心を与えてくださってるんやなぁといただくんです。


御開山は『西方指南鈔』で、法然聖人のご法語を示して下さったのだが、その中の「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」で、

たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。(*)

と、いう文を記しておられる。
「南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」とされ、それが決定の深心であるとされる。『観経』の三心は深心(深信)に収まり、それは『無量寿経』の本願文の至心・信楽・欲生の三信即一の「信」であるというのは御開山の御領解であるから、「ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなづけて候なり」の無疑の信楽であった。
「信心正因」という言葉に幻惑される輩は、信の一念と行の一念は不離であるということを理解できない。だから愚直に、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて聞いている門徒を愚弄するのであろう。自分が拵えたシッカリした信心などは、例えば風邪を引いて39度の熱が出れば雲散霧消である。
なんまんだぶと称えたら、なんまんだぶと聞こえる。このなんまんだぶの声の響きが、我にまかせよ安心しろという言葉であった。老いて痴呆になったとしても、なんまんだぶという言葉の響きに安心できる世界があるのであり、これが浄土真宗の救いなのであった。頭のいい人はこれが判らなくて自分を騙し人まで騙すので困ったものではある。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

見玉尼

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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吉崎御坊の山を登りおえると、左手に25歳で往生をとげた蓮如さんの次女である見玉尼の墓がある。
蓮如さんの若い頃の本願寺は、貧乏の極みであった。そのため次々と生まれる子を他の寺へ喝食などとして出していたそうである。
大谷本願寺が延暦寺衆徒に破却され、転々としたあとで越前吉崎で安堵の地を得たので、見玉尼も父の許へ帰ることができたのであろう。
蓮如さんは、この見玉の往生についてのお文を作れられておられるので、帖外お文からUPしてみた。

見玉尼の往生

死の帰する処、生の依って立つ処。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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蓮如さんは、後生の一大事、後生の一大事とうるさい。
そこで阿弥陀仏に帰依することになるのであるが、大谷派の金子大栄師に帰依を説明するいい文章があるので、WikiArcの「帰依」の項に追記しておいた。

死の帰する処、生の依って立つ処。(金子大栄)

死の帰するところを浄土におく

我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大栄著『往生と成仏』法蔵館から)

死ぬることの解決ができてこそ、この生をより深く味わうことができるのであろう。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
WikiArc「帰依」

えっ!仏教語だったの?

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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玄関とか挨拶のように何気なく使っている日本語だけど、実は仏教語だったり仏教由来の言葉だったりする。
一応辞書には「仏教語」という項目が立てられているのだが、本来の仏教語の意味が見失われて使われるので仏教書を読む場合には困ったことになることが多い。
たとえば「縁起」という仏教語は、縁(よ)りて起こるという意味で仏教にとっては重要な概念を示す語なのだが、縁起が悪いとか、縁起を担ぐなどのように使われる用例によって言葉の本来の意味が判らなくなっている。
仏教は難しいということをよく耳にするのだが、仏教語の示す言葉の定義が混乱しているから難しいと感じるのだと思ふ。いわゆる普段使っている言葉の脳内辞書を仏教語の定義にアップデートする作業が必要なのである。
西欧文化圏では、共有語のラテン語に返すことによって言葉の本来の意味を考察するのだが、日本語は漢語と大和語のハイブリッドな単語を膠のテニヲハでくっつけた膠着言語だから、より元の言葉の意味を考察することは難しい。
ともあれ、日常語になっている仏教語を知ることで、日本語は仏教の影響を受けているということを示唆するページをリンクしてみた。なおリンクページの合掌のシンボルは、私が合掌するのではなく阿弥陀如来がわたくしに浄土へ生まれてくれと合掌して下さる姿をシンボルとしたのである。真宗教団連合のシンボルマークのパクリなのだが、本家ではシンボルの意味すら判らなくなっているのは悲しいことではある。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

仏教語だったの

 

死ぬという動詞の活用

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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梯實圓和上は、

何の爲に生まれてきたのか知らない。死が何であるか了解する事が出来ない。その死を必然の事として受けていかなければならないのが人間なのです。当然、悲劇的な存在なのです。死が何であるかという事は絶対に理解出来ない事なのですから。経験として持つ事が出来ないのですから。
私がよく申しますように、他の事ならば動詞は過去形と現在形と未来形と言う事は出来るけれども、「死ぬ」という動詞は、主語を「私」にした時には絶対に現在形と過去形はとりません。「私が死んだ」そんな事ありません。言っている本人は生きているのですから。「私は今死んでいます」そんな事も言えません。判断の主体が生きているのですから。判断の主体が無かったら判断は成立しない。従って死は未来形としてしか捕らえようが無いのです。自分の経験内容としては入らない言葉なのです。従って私の死に就いて我々は述語する事は出来ない。それを述語出来るというのは、述語出来ない死を述語するのですから、いい加減な事です。そういう事です。
そういう私には生が何であるか、死が何であるか全く了解不可能なのです。そういう領域がある訳です。弘法大師が『秘蔵宝鑰』の序分の所に「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」(*)と言っています。あの天才をもってしても生の何たるか、死の何たるかを説き明かす術(すべ)は無かった訳です。皆が解ったような顔しているから私も解ったような顔しているけれども本当は何にも解っていない訳です。
「お前は誰だ」と言われても知らない。「何をする為に生きているのだ」と言われても知らない。「死んで何処に行くのだ」と言われても、それも知らない。そういう自分の生きる事の意味と方向を規定していくのが本願の言葉なのです。いや、本願の言葉に依って自らの生存の意味と方向を聞き定め、見定めていこうとされたのが親鸞聖人なのです。

と、よくいわれていた。
あるとき、梯實圓和上を車の後席にお乗せしていた時に、そもそも宗教ちゃあ何でしょうねとお聞きしたら、即座に、存在理解の枠組みでしょうね、という言葉が返ってきた。ちょっと震えた。林遊の問いを越えた、実に的確な答えだったからである。やっぱり和上さんやなあと思ったものである。
宗教とは、生きる意味と死ぬ意味を、それぞれの教義の枠組みで説き、その存在の意味付けをするのである。詳しくは知らないが、ユダヤ教であれキリスト教であれイスラム教であれ、宗教ならば、存在である生と死の意味付けを提示する意では同じであろう。
ともあれ、浄土真宗は御開山聖人が示して下さった言葉に依って、自らの生と死の意味を聞きひらいていくご法義である。浄土真宗の先達は、「聴聞に極まる」という言葉を残して下さった。自らの眼で見て「眼見」して認知するのではなく、聞いて知る「聞見」ということを、「聴聞に極まる」という言葉で示して下さったのであった。生きることに意味があるように死ぬることにも意味があると、
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念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

の、往生即成仏の、なんまんだぶ(念仏成仏)の真宗の浄土のご法義であった。死ぬのは嫌だけど、死の意味を、なんまんだぶと称えてなんまんだぶと聞こえる中に味わえるのはありがたいことであった。

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