絶滅危惧種

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBより転載

浄土真宗は信心正因のご法義だという。
しかして、その信心とは何かということを、坊さんが説かないから門徒は右往左往する。
まして他力の信心という、他力の「他力」の概念の意味が判らない布教使が、信心、信心というので、門徒は迷いに迷って、私の想ひを変革する奇跡の出来事が「信心獲得」によって得られる事象と勘違いをするのであった。

九条武子さんは、その著『無憂華』の「背くもの」で、

 信仰を特異の存在であるかのやうに思ってゐる人たちは、信仰の門にさえ佇めば、容易になやみの絆は断ち切れて、みづからの欲するまゝに、慰安の光がかゞやくかのごとく思ふ。
しかしながら、信仰は一の奇跡ではない。宗教はまた気やすめのための、力なき慰めでもない。信仰は荷せられた悩みを逃避するのではなく、悩みの肯定のうちに、救ひの光にみちびかれるのである。
多くの人たちは、宗教の本質について、かなしき錯覚のもとに、法をもとめようとしてゐる。そして一様に、自らの想像する驚異の世界を発見することが出来ずして、却ってをしへの常凡なるに失望してゐる。 (*)

と、記述されている──信仰という表現は、九条武子さんがおられた時代背景の大正デモクラシーの影響を受けたキリスト教表現であろう──が、「悩みの肯定のうちに」という表現は、御開山の示して下さったご法義を正確に言い表していると思ふ。
「教えの常凡なるに失望している」という常凡(つねなみ)という言葉の捉え方がややこしいのだが、ようするに〔なんまんだぶ〕を称えて、西方仏国を目指せということである。大正デモクラシーの個人の意識の覚醒を指示する中にあったからこそ、御開山の示された、林遊のように莫迦みたいに、なんまんだぶを称えて浄土を目指すご法義を「常凡」とされたのであろう。
もっとも平成の世では、かっては何処にでもいた、なんまんだぶを称えて往生浄土を期す門徒は、まるでメダカのようにレッドリストの絶滅危惧種に位置づけられているのであった。

ともあれ、いわゆる社会派を自称する真宗の坊さんは、本物のご法義流通の為にも、この絶滅危惧種の保存に目を向け保護を計るべきであろう(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

聞此法歓喜 信心無疑者

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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wikiarcの「聞此法歓喜 信心無疑者……」の項に以下を追記した。

 

菩提心を説く『華厳経』「入法界品」(晋訳)にある文。『教行証文類』(信巻 P.237)で引文されておられる。

通常は、

聞此法歡喜(もんしほうかんぎ) 信心無疑者(しんじんむぎしゃ)

この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、

速成無上道(そくじょうむじょうどう) 與諸如來等(よしょにょらいとう)

すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。

と読むのだが、御開山は、

聞此法歡喜 信心無疑者

この法を聞きて信心を歓喜して、疑なき者は、

速成無上道 與諸如來等

すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。

と訓まれ、如来から回向された信心を歓喜する「信心歓喜」の意に転じられた。これは本願成就文に、

諸有衆生(しょうしゅじょう)聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(しんじんかんぎ)乃至一念(ないしいちねん)至心廻向(ししんえこう)

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。 (大経 P.41)

とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。
「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の発こす菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願)であり、これが私に於いては回向された願作仏心であり、還相の度衆生心であるとされた。浄土真宗の横超菩提心とは、私が発起するのではなく阿弥陀如来の菩提心に包摂されていることをいうのである。この包摂されている意味において「もろもろの如来と等し」とされたのである。本願を受容した念仏の信心の行者は、諸仏と等しいとされるのであり、これが現生正定聚説の根拠の一でもあった。
この意を「諸経和讃」の以下の和讃の前半で、

(94)

信心よろこぶそのひとを

 如来とひとしとときたまふ

 大信心は仏性なり

 仏性すなはち如来なり (*)

と、「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ」と和讃されたのであった。 なお、句の後半は『涅槃経』の、

大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 (信巻 P.237)で引文

からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。
前掲の和讃や引文などを窺うと、釈尊の最初の説法とされる『華厳経』と最後の説法であるとされる『涅槃経』を挙げることによって、釈尊の説かれた全仏教を、誓願一仏乗(行巻p195)に総摂するという意図もあったのであろう。「御消息」第一通で「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息P.737)として「大乗のなかの至極なり」とされた所以である。

「聞此法歓喜信心無疑者……」

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