浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

何故なら、仏教の上では、嘘とはマイナスの概念を示す語であり、方便とはプラスを示す仏教語であるからである。
仏教語と世俗語は、そもそも存立基盤が違うのであり、辞書でも同じ語に「仏語」という項目があり仏教での意味を別に示してある。
仏教では身心(東洋的)や心身(西欧風)ではなく、身・口・意として、口業(語業)という言葉を重視するのであった。その意味では言葉を超えた世界を言葉で表現するのが仏教の論理であり、言葉を大事にするのである。その意味で「信」(人と言からなる会意)を重視する浄土真宗では「嘘も方便」というような表現法を使うことはない。
ともあれ、仏陀のさとりを示す世界を言語化しようとしてきたのが、仏教の歴史であり、浄土真宗では、なんまんだぶと称えるか称えないかが「信疑決判」であった。

それにしても、阿弥陀仏の善巧方便を「騙し」と表現した高森親鸞会の高森顕徹氏は、いよいよ「病膏肓に入る」だな(笑

画像はブログ:→親鸞会を脱会した人(したい人)へ から

善巧方便と権仮方便

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

文殊の法はつねにしかなり。

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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御開山の引文はややこしい。

ただ本願寺派の註釈版聖典は、引文とその意図を脚注に記しているので、後学の学ぶ者にとってはありがたいことである。
とりあえず愚昧ながら「文殊の法はつねにしかなり」の文意を解釈してみた。

→文殊の法はつねにしかなり

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

聖徳太子の文を…

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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fbより転送

林遊は、御開山の説いて下さる、なんまんだぶの法に関心があり、人間親鸞としての御開山の行状にはあまり関心がない。
(71)

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

というのが御開山のお示しの簡単なご法義であるのに、死の帰する浄土を説かずに「こころ」や「いのち」の論理を振り回す坊さんに対抗する為に少しく教義を学ぶこともある(笑

で、あるところで突然に、

「我が三尊は塵沙の界を化す 日域は大乗の相応の地なり」

という文を出した高田派の坊さんがいたので、脊髄反射で『恵信尼消息』の「聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」の「聖徳太子の文を結びて」のwikiarcの脚注に追記してみた。
ある意味では現代の我々と違う精神世界を描いているのだが、浮遊する空しい言葉ではなく、「如是我聞」という、言葉が言葉としての活力を持っていたのだろうと想像してみる。なんまんだぶという言葉による仏教の済度とは、ありがたいこっちゃ。

→「聖徳太子の文を…」

なんなんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ