金と金で作られた獅子

林遊@なんまんだぶつ Post in WikiArc編集, つれづれ
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真如法性などといふことを論ずると、深川倫雄和上から、おまえはイランことを言うなと怒られそうだが、昔の布教使は金(真如)と、それが獅子といふ具象化に形を変えて衆生に分かり易く届けられる、なんまんだぶの話をしていた。
金と金で作られた獅子の話は、賢首大師法蔵と則天武后の逸話で有名である。
以下、稲城選恵和上のご法話から引用。

そこでね、『教行信証』を見ますとね、教・行・信・証の四法には、全部真如がついとるんです。「教の巻」にはありませんが、「行の巻」にも、「信の巻」にも「証の巻」にも全部、真如法性と出て来るんです。教は、『愚禿鈔』に、「一実真如の道」とあります。ですからね、教・行・信・証のものがらを言うたら、みんな真如ということになります。これは、丁度こういう事じゃろな。
金の塊をね、子供にやるんです。あんまり喜ばんね。そこで、金の塊を獅子のおもちゃにするんです。おもちゃじゃったら、二つや三つの子供にも通じましょう。ところが、獅子のおもちゃに加工しても金ですからね。ですから、子供は獅子のおもちゃを受け取るままが、金を受け取っておることになりますね。ですからね、御念仏は、真如法性の金のままが、私の世界にちゃんと今はたらいとるという事なんです。そうするとこれは、法がはたらくんですから、信も私がする信じゃないんですよ。私のものは、一切これはね、この手あかがつけられん事になっとる。それが浄土真宗ということですね。それが『教行信証』の内容になっとるんです。(稲城選恵 深川倫雄『如来をきく』探求社p.112)

御開山は『一念多念証文』で、

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。(p.694)

と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。(→称)
少しく浄土真宗のご法義を聴くと、信心、信心と煩いので、まるで浄土真宗はキリスト教のように信を説く宗教だと誤解する輩が多い。
法然聖人は、

又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(和語灯録p.633)

と、仰せであった。これが御開山の仰る「行信不離」であった。
→「行信不離

信心に惑いてなんまんだぶを知らない人には、前掲の『如来をきく』に説かれていた稲城選恵和上のご法話が参考になるかもである

→「他力の信の特色
→「垂名示形

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