覚如上人の宿善論の導入の意図

林遊@なんまんだぶつ Post in WikiArc編集, つれづれ
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御開山が依用された七祖聖教には『往生要集』の若干の例を除いて[宿善]という語は無い。もちろん御開山のご著書の中にも宿善という名目(教義上の術語)は無い。

しかし覚如上人は『慕帰絵詞』で、浄土真宗に宿善といふ名目を導入され、後代の蓮如さんは盛んに宿善といふ語を使われて門徒を教化していかれた。
→唯善との宿善論争(『慕帰絵詞』)

この浄土真宗に宿善といふ名目を導入された覚如上人の意図を、梯實圓和上は『聖典セミナー 口伝鈔』で次のように述べておられた。

 ところで覚如上人が、このように光明のはたらきとして宿善を語り、その宿善のはたらきによって往生の業因である名号を疑いなく領受する聞法の器として育てられ、信心を得しめられると、他力に依る獲信の因縁を強調されたのには、それなりの理由がありました。それは、浄土異流の中でも特に鎮西浄土宗を姶めとする自力を肯定する人々からの厳しい論難でした。 たとえば鎮西派の派祖、聖光房弁長(弁阿)上人の『浄土宗名目問答』巻中には、全く自力をまじえずに阿弥陀仏の本願他力のみによって往生成仏が成就すると主張する「全分他力説」を批判して、

このこと極めたる僻事(ひがごと)なり。そのゆえは、他力とは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしかるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。 (『浄土宗全書』一○・四一○頁・原漢文)[1]

といわれています。もつともこれは直接真宗に対する論難というよりも、真宗も含めて、西山派や一念義系の諸派の「自力を捨てて他力に帰する」という主張全体に対するものでした。もし自力の善根が全くないにもかかわらず、ただ他力のみによって往生するというのならば、阿弥陀仏が正覚を成就して本願他力を完成された十劫正覚の一念に、十方の衆生はみな往生してしまって、穢土に留まっているものなど一人もいないはずではないか。しかし現実には迷っているものが無数に存在するのだから、全分他力説は明らかに事実に背いた誤った見解であるというのです。そもそも第十八願には、往生を願う願生の信心を起こして念仏するものを往生させると誓われていて、何もしないものを救うとはいわれていません。信心を起こし念仏するという往生の因は自分で確立しなければ、どれほど強力な本願力の助縁があっても縁だけでは結果は出てきません。信じることと念仏をすることとは私が為さねばならない往生のための必須条件、すなわち因であって、一人一人が貢任を持って確立すべき自力の行いです。もっとも煩悩具足の凡夫である私にできる自力は微弱なものです。しかし本願念仏の功徳はどの行よりも勝れていますし、それに強力な増上縁としての本願力が加わるから、報土に往生することができるのです。それを他力の救いというといわれていました。

このような、弁長上人の教えを承けて、鎮西教学を大成された弟子の然阿良忠上人は、『決疑鈔』巻一(『浄土宗全書』七・二〇九頁)[2]に、次のようにいわれます。自力の因と、他力の縁とが和合して修行が成就し、往生、あるいは成仏の果を得るという「因縁果の道理」は、聖道門であれ浄土門であれ共通している仏法の法理である。ただ聖道門は、自力の要素が強く、他力の要素が弱いから自力の法門といい、浄土門は、自力の要素が弱く、他力の要素が強いから他力の法門と呼ぶことはあるが、自力ばかり、他力ばかりの教えは存在しないといわれています。

こうした「自力と他力が相俟って救いが成立する」と考える鎮西派を始めとする多くの浄土門の学僧たちから、他力の信心、念仏を説く真宗の教えは仏法の道理に背く誤った教えであると厳しく批判されていました。もし往生の因である信心も念仏も如来から与えられたもので、因も縁も総べて他力であるというのならば、結局は弁阿上人が批判されたように、すでに皆救われているはずで、事実と相違することになる。それに信心は如来から与えられたものであるというのならば、一切の衆生に同時に与えられるはずであるから、みな同時に獲ていなければならないであろう。人によって信心を獲る時に前後の差があるというのは矛盾である。もしまた如来は同時に平等に回向されるが、受け取る衆生の宿善に厚薄の違いがあるから、獲信の時に遅速の差が出るというのならば、その宿善が熟するのは自力によるのか、それとも他力によるのか。もし宿善までも如来の他力によって熟せしめられるというならば、道理からいっても全分他力と同じ失に陥り、事実と異なるという過ちを犯すことになる。しかし、もし自力によって宿善が成就するというのならば、自力によって宿善を積み重ねることによって他力の信が起こるという矛盾が生ずる。要するに往生の因である信心も念仏も自力で起こすものであって、他力の信心、他力の念仏というようなものは存在しないということになるという疑難が絶えず突きつけられていました。

それに対し、覚如上人は親鸞聖人が仰せられたように、第十八願の信心も念仏も如来の本願力によって回向された他力の法であると強調し、特に獲信の時に遅速のある道理を、阿弥陀仏の光明摂化を本体とした宿善論を導入することによって論証したのがこの第二章です。

すなわち自己を憑む心が強くて、阿弥陀仏の本願他力の救いを受け容れず、迷妄の自心に惑わされて我執の巣窟に閉じこもっている凡夫は、空しく生死を流転し続けるばかりで、いつまでもたっても生死を解脱することはできません。こうした私どもを自力の巣窟から喚び覚まして、如来の大悲智慧の世界に引き入れるために阿弥陀仏は、機根に応じて権化方便の摂化を垂れて、徐々に教えを受け容れることのできる聞法者を育てられていることを宿善といわれたのです。→トーク:口伝鈔

浄土真宗の僧俗は、七祖や御開山、そして次第相承の善知識が伝えようとされたご法義の基底と、それに対して祖師方がご自分がおられた時代に応じて法を説かれたといふことを考察しない。故に会通(一見、矛盾しているようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること。)するのだが、会通しすぎるとある意味では祖師方の独自の教学の発揮を無視することになるので要注意である。
もとろん、浄土真宗のご法義は御開山の領解の上に成り立っているので、据わりは御開山親鸞聖人の『教行証文類』である。
→註釈版聖典七祖篇を読む

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