「親鸞聖人の他力観」

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ほとんどWikiArcがブログ状態になっているので、当ブログへの書き込みは久しぶりである。

ともあれWikiArcでの「他力」(利他力)や、「他利利他の深義」の記述の元になっている梯實圓和上の論文「親鸞聖人の他力観」をUPしてみた。

「親鸞聖人の他力観」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

どこにそんなことを仰ってるんだ?

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ウチの在所では、通夜の晩には蓮如さんの疫癘のお文(御文章p.1180)を拝読する。
このお文は、御開山の御消息に、

なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふら んことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。(p.771)

とあるように、人が死ぬのは当たり前のことであるから驚くなという文(ふみ)である。死ぬのは当たり前であるからこそ、死を超える確かなものにあいなさいという意味である。

蓮如さんは、このお文(御文章)の中で、

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(御文章p.1180)

と、「阿弥陀如来の仰せられけるやう」とある。しかし阿弥陀如来が直接我々に語る語は「三部経中」には無い。釈尊の教説を通じ、諸師方の言葉を通じて阿弥陀如来のお心を知るだけである。

ともあれ本願寺派の「信因称報説」を突き詰めると、愚直になんまんだぶを称えている者に、阿弥陀如来は「どこにそんなことを仰ってるんだ」と、大行であるなんまんだぶを否定するような坊さんを生み出すのであった。ある意味で、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行巻 P.141)

という、御開山の「行信」の破壊であろう。
坊さんの、知性と教養が邪魔をして、法然聖人の示して下さった、穢土と浄土という相対の二元論を飛び越えて、己の「自覚」としての、

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(p.209)

自性唯心の輩(はらから)であろう。かえるべき浄土を持たない現実主義者の坊さんである。

御開山は、比叡山時代には「堂僧」として『般舟三昧経』にもとずく四種三昧のうちの一である常行三昧を修しておられたといわれる。善導大師は『般舟讃』や『観念法門』で『般舟三昧経』に言及しておられた。
そして『観念法門』で『般舟三昧経』を引いて、

仏のたまはく、〈四衆この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問へ。《いかなる法を持ちてかこの国に生ずることを得る》と。
阿弥陀仏報へてのたまはく、 《来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなく、すなはち来生することを得ん》〉と。仏のたまはく、〈専念するがゆゑに往生を得。 (観念法門 P.611)

 と、「来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし(欲来生者当念我名)」と、阿弥陀仏自らが称名(当念我名)と、言われているのであった。

知性と教養に溢れる社会派の坊さんには、愚直に なんまんだぶを称えている門徒に対し「どこにそんなことを仰ってるんだ」と、驚かし、

一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。(歎異抄)

と、「いひおどろかして」門徒を惑わすことが、新しき「名目」を出(い)だしての、違いを強調して自己保身をはかる名聞利養の生業のなれの果てかもと思ふ。

そんなこんなで、なんまんだぶを称える門徒に対して「どこにそんなことを仰ってるんだ」という論難に対して、越前の愚直な門徒が、『般舟三昧経』一巻本に、阿弥陀仏自身が、

阿弥陀仏報へてのたまはく、 来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん (般舟三昧経)

という称名を指示する経文を引用しておく。
念仏という「念」を、称名であるとされた法然聖人の意から、日本では念仏とは称名であるという歴史があるのだが、痴愚の毒におかされた 坊さんは、この経緯が判らんので困ったものだ。どうでもいいけど。

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二河白道の譬喩

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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稲木選恵和上は『如来を聞く」という書の中で「他力の信の特色」ということを示された。
いわゆる、

信順性 「そのまま」ということ
逆対応性 「如来先手の法」ということ
無所得性 「ものがらが無い」ということ
➡ 「他力の信の特色」

ということであるが、高森親鸞会の会員や脱会者と某ブログで遣り取りした感想は、彼/彼女らは是か非かという二元論に陥って御開山の重層的な教義を理解し得ないのであろうと思量するに至った。
➡ 投稿したリンク先のコメント

ある意味では、教学を学べば信心を獲られるという立場なのであろうが、おかしな立論には少しく辟易するのであり、

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。(歎異抄 第十二条)

と、信なき上に学文して信を得ようとをする弊害であろう。そのようなファナティック(熱狂的なさま。熱狂的、狂信的)な有り様が、伝統的な浄土真宗教団の僧侶が、親鸞会の会員や脱会者との接触を忌避する一因でもあった(笑

高森親鸞会に騙されて疲弊して脱会した者の中には、伝統教団が本物の教えを説いて来なかったから騙されたのだ、と批判する者もいるのだが、本末転倒であろう。
『蓮如上人御一代記聞書』には、

往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることな り。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。

と、あるように「往生は一人のしのぎなり」であって、各人各人が阿弥陀仏に直参することによって浄土真宗のご信心は得られるのであった。
宗教的耐性(自らの思想による選びのないこと)がない年齢に洗脳(brainwashing)され高森教祖の、妄語、綺語、悪口、両舌に騙されたのであろう。親鸞会会員や脱会者の口業は林遊の悪口を越えて、妄語・綺語の領域に達していると思ふ。

ともあれ、親鸞会の求道地獄に陥って本願力回向の願力の道という二河の譬喩を理解できないところから妄想するのが会員と一部の脱会者であった(笑
それにしても、高森親鸞会の脱会者は脱会者のコミュニティを築こうとするのであろうが、これはこれで、「他力の信の特色」という方向性とは異であろう。

ともあれ、WikiArcの「二河の譬喩」に追記してみた。
➡ 二河の譬喩

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人惑を受けず

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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高森親鸞会を脱会した方の、善知識帰命説を否定するブログに触発されて、wikiarcに臨在禅師由来の「人惑を受けず」の語を追記してみた。

ほとんど、何が言いたいのか意味不明だろうが、林遊の脳内では整合性がとれているので了である(笑

名聞と利養しか頭にない、真宗布教使にも言えるのだが、芸能としての節談や、カルト崩れの求道主義者には意味不明だな、どうでもいいけど。

ところで、徳永一道勧学寮頭は、

「一緒性」の提言は「大乗仏教の精神そのもの」と賛同され、そして「親鸞聖人は浄土真宗を『大乗の中の至極なり』と示されていますね。

と、公言されていますが、大乗仏教では、個のさとりである「八聖道」から関係性を重視した「六波羅蜜」へ移行したのですが、その第一の徳目である布施行の実践として、貧乏な林遊に100万ほど布施して下さい。布施とは言葉ではなく実践ですから請求書出してもいいですか(笑

そんなこんなで、出来もしない大乗精神を言う輩の「人惑を受けず」だな(笑

→「人惑を受けず」

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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

何故なら、仏教の上では、嘘とはマイナスの概念を示す語であり、方便とはプラスを示す仏教語であるからである。
仏教語と世俗語は、そもそも存立基盤が違うのであり、辞書でも同じ語に「仏語」という項目があり仏教での意味を別に示してある。
仏教では身心(東洋的)や心身(西欧風)ではなく、身・口・意として、口業(語業)という言葉を重視するのであった。その意味では言葉を超えた世界を言葉で表現するのが仏教の論理であり、言葉を大事にするのである。その意味で「信」(人と言からなる会意)を重視する浄土真宗では「嘘も方便」というような表現法を使うことはない。
ともあれ、仏陀のさとりを示す世界を言語化しようとしてきたのが、仏教の歴史であり、浄土真宗では、なんまんだぶと称えるか称えないかが「信疑決判」であった。

それにしても、阿弥陀仏の善巧方便を「騙し」と表現した高森親鸞会の高森顕徹氏は、いよいよ「病膏肓に入る」だな(笑

画像はブログ:→親鸞会を脱会した人(したい人)へ から

善巧方便と権仮方便

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教行信証講義

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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真宗大谷派 西覚寺さんがネットで提供されている、山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」を自分の勉強用にUP中。元々s-jisiで書かれた文章なのでutfの漢字に当て嵌めるのが苦戦中(笑
ともあれ、明治の西欧文明を取り入れる文明開化を経て、大正デモクラシーの時代の雰囲気からか漢文を《言教〈おしえ〉》などのように和語で読んでいるのは、時代の雰囲気を感じさせて面白い。大正三年に記述されたものであるから100年程前の文章である。
時代の制約の為か、御開山の境位と非常に近い幸西成覚房の教学を誤解している点もあるのだが、本文はおしなべて正確に御開山の意図を捉えていると思ふ。(ツッコミは暇が有ったら脚注に記すかも知れない)
飽きっぽいので、最後までUPできるかどうか判らないのだが諸兄のツッコミを期待ではある。
学問とは、学んで後に疑いあり、疑いて後に問いありというごとく問いのない学びはないのであった。

→山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」

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その籠を水につけよ

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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 深川倫雄和上は、お説教はみな忘れてしまえ! と、よくおっしゃっていた。そもそも、お説教を覚えている奴にはろくな奴がおらんともおっしゃっておられた。
そして、忘れてしもうても忘れなさらん親さまを大切にするこっちゃ、と〔なんまんだぶ〕を称える讃嘆行をお示しであった。

 梯實圓和上は、もう少し優しいから、お説教は忘れてもいいんですよ、そしてね、忘れてしもうたら、なんですなぁ、また聞けばいいんですよ、とおっしゃっておられた。

蓮如さんの『御一代記聞書』(現代語)には、

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。→(現代語) →(原文)

と、ご法話を聞いている時には、その通りだと思ふのですが、時間が経つとその思ひもみな抜けてしまうのですが、どうしたら良いのでしょうかという逸話(エピソード)がある。
この『御一代記聞書』の意(こころ)を、梯實圓和上は以下のように述べられておられた。

 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。今年も楽しく法縁に遇わせていただきましょう。

阿弥陀如来は「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念)」(*) と、乃至十念という〔なんまんだぶ〕を称えよとされた。
たとえ、痴呆になり聞いて覚えたお説教の理屈を、みな忘れても、我が口になんまんだぶと称える癖になるほどに称えられる〔なんまんだぶ〕の声を聞くとき、「声につきて決定往生のおもひをなすへし」という生死を超える「往生極楽のみち」に安心して死んでいける道があるのであった。

最近の真宗の布教使さんの説く自覚の「心の宗教」では、西方仏国の極楽やそこへの往生や〔なんまんだぶ〕と口に称える行業を説かない。御開山の説かれた往生浄土の真実の宗を説かない/説けない坊さんには困ったものだ。御開山の示して下さった浄土真宗は、往生や本願や念仏や浄土を示すご法義であった。
それが、一文不知の愚者に落居して、なんまんだぶを称えて生死を超える道を林遊に示して下さったのが法然聖人や御開山や蓮如さんであった。ありがたいこっちゃな。

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アルファでオメガ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBでの投稿をメモ。

素直に阿弥陀仏の、

至心信楽 欲生我国 乃至十念。
至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。

と、仰ることを聞けばアルファでオメガです。
で、学びというのは、知識を増やすのではなく、自分の思い込みを否定するために、ご法義を聴聞(学ぶ)するのでした。

その意味では、自分の思い込み(知識=妄想)を否定する為の愚者になるための学文が浄土真宗の学びですね。
御開山は、『西方指南抄』で、法然聖人が、

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。

と、仰ったと記述して下さいましたが、世俗の論理と違って愚者に落居して、アホみたいになんまんだぶを称えられるようになるのが浄土真宗の学文だと思ひますです。
御開山は、晩年には盛んに、

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(御消息p.779)

と、「義なきを義とす」ということを仰いますが、自らの思いこみ(知識)を否定した先に、愚者になれてよかったなあという世界があるのかもです。知らんけど。

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人が生きるということは、ゴーギャンが、

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

という命題と密接な関係があるように思ふ。
もちろんゴーギャンの精神世界は豪も知らないのだが、この命題に幻惑して自殺しようとした彼の意図はわかるかもである。
要するに彼は、何を描くべきかという芸術的な美的耽溺と自らの才能に絶望したのであろう。西洋神学の中で幼少期を育った者に特有の思想の結論であろう。
明恵上人の夢記に見られるような青少年期の経験が「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」という理想世界を求めさせたのであった。彼の理想論は、法然聖人の『選択本願念仏集』への『摧邪輪』の批判で解る。

ともあれ、浄土仏教では「我々はどこから来たのか」や「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」についての答えの用意がある。

ゴーギャンが、なんまんだぶを称えて浄土へ往生するというご法義に出合えたならば、彼の作風も違ったものになったかもである。
それにしても「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という近代フランス風命題は、ゴーギャンを賛美する画商の営利的流布であり、キリスト教的思想背景のない林遊には、正直意味不明であった。

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https://goo.gl/17PkHW

おれの期待 高見 順

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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わたくしは、何かを配達しているのだろうか。

おれの期待 高見 順

徹夜の仕事を終えて
外へおれが散歩に出ると
ほのぐらい街を
少年がひとり走っていた
ひとりで新聞配達をしているのだ

おれが少年だった頃から
新聞は少年が配達していた
昔のあの少年は今
なにを配達しているだろう
ほのぐらいこの世間で

なにかおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人々の心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか

お早う けなげな少年よ
君は確実に配達できるのだ
少年の君はそれを知らないで配達している
知らないから配達できるのか
配達できるときに配達しておくがいい
楽じゃない配達をしている君に
そんなことを言うのは残酷か

おれがそれを自分に言っては
おれはもうなにも配達できないみたいだ
おれもおれなりに配達をつづけたい
おれを待っていてくれる人々に
幸いその配達先は僅かだから
そうだ おれはおれの心を配達しよう

なんまんだぶのご法義は、私に配達された「法」を「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり」(総序 P.132) ご法義である。
そのような意味で、このご法義の越前の門徒は「聞いてよろこぶご法義」と私に配達されたなんまんだぶを慶んでいたのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

高見順「ガラス」