その籠を水につけよ

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 深川倫雄和上は、お説教はみな忘れてしまえ! と、よくおっしゃっていた。そもそも、お説教を覚えている奴にはろくな奴がおらんともおっしゃっておられた。
そして、忘れてしもうても忘れなさらん親さまを大切にするこっちゃ、と〔なんまんだぶ〕を称える讃嘆行をお示しであった。

 梯實圓和上は、もう少し優しいから、お説教は忘れてもいいんですよ、そしてね、忘れてしもうたら、なんですなぁ、また聞けばいいんですよ、とおっしゃっておられた。

蓮如さんの『御一代記聞書』(現代語)には、

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。→(現代語) →(原文)

と、ご法話を聞いている時には、その通りだと思ふのですが、時間が経つとその思ひもみな抜けてしまうのですが、どうしたら良いのでしょうかという逸話(エピソード)がある。
この『御一代記聞書』の意(こころ)を、梯實圓和上は以下のように述べられておられた。

 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。今年も楽しく法縁に遇わせていただきましょう。

阿弥陀如来は「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念)」(*) と、乃至十念という〔なんまんだぶ〕を称えよとされた。
たとえ、痴呆になり聞いて覚えたお説教の理屈を、みな忘れても、我が口になんまんだぶと称える癖になるほどに称えられる〔なんまんだぶ〕の声を聞くとき、「声につきて決定往生のおもひをなすへし」という生死を超える「往生極楽のみち」に安心して死んでいける道があるのであった。

最近の真宗の布教使さんの説く自覚の「心の宗教」では、西方仏国の極楽やそこへの往生や〔なんまんだぶ〕と口に称える行業を説かない。御開山の説かれた往生浄土の真実の宗を説かない/説けない坊さんには困ったものだ。御開山の示して下さった浄土真宗は、往生や本願や念仏や浄土を示すご法義であった。
それが、一文不知の愚者に落居して、なんまんだぶを称えて生死を超える道を林遊に示して下さったのが法然聖人や御開山や蓮如さんであった。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

アルファでオメガ

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FBでの投稿をメモ。

素直に阿弥陀仏の、

至心信楽 欲生我国 乃至十念。
至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。

と、仰ることを聞けばアルファでオメガです。
で、学びというのは、知識を増やすのではなく、自分の思い込みを否定するために、ご法義を聴聞(学ぶ)するのでした。

その意味では、自分の思い込み(知識=妄想)を否定する為の愚者になるための学文が浄土真宗の学びですね。
御開山は、『西方指南抄』で、法然聖人が、

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。

と、仰ったと記述して下さいましたが、世俗の論理と違って愚者に落居して、アホみたいになんまんだぶを称えられるようになるのが浄土真宗の学文だと思ひますです。
御開山は、晩年には盛んに、

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(御消息p.779)

と、「義なきを義とす」ということを仰いますが、自らの思いこみ(知識)を否定した先に、愚者になれてよかったなあという世界があるのかもです。知らんけど。

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人が生きるということは、ゴーギャンが、

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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

という命題と密接な関係があるように思ふ。
もちろんゴーギャンの精神世界は豪も知らないのだが、この命題に幻惑して自殺しようとした彼の意図はわかるかもである。
要するに彼は、何を描くべきかという芸術的な美的耽溺と自らの才能に絶望したのであろう。西洋神学の中で幼少期を育った者に特有の思想の結論であろう。
明恵上人の夢記に見られるような青少年期の経験が「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」という理想世界を求めさせたのであった。彼の理想論は、法然聖人の『選択本願念仏集』への『摧邪輪』の批判で解る。

ともあれ、浄土仏教では「我々はどこから来たのか」や「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」についての答えの用意がある。

ゴーギャンが、なんまんだぶを称えて浄土へ往生するというご法義に出合えたならば、彼の作風も違ったものになったかもである。
それにしても「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という近代フランス風命題は、ゴーギャンを賛美する画商の営利的流布であり、キリスト教的思想背景のない林遊には、正直意味不明であった。

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https://goo.gl/17PkHW

おれの期待 高見 順

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わたくしは、何かを配達しているのだろうか。

おれの期待 高見 順

徹夜の仕事を終えて
外へおれが散歩に出ると
ほのぐらい街を
少年がひとり走っていた
ひとりで新聞配達をしているのだ

おれが少年だった頃から
新聞は少年が配達していた
昔のあの少年は今
なにを配達しているだろう
ほのぐらいこの世間で

なにかおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人々の心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか

お早う けなげな少年よ
君は確実に配達できるのだ
少年の君はそれを知らないで配達している
知らないから配達できるのか
配達できるときに配達しておくがいい
楽じゃない配達をしている君に
そんなことを言うのは残酷か

おれがそれを自分に言っては
おれはもうなにも配達できないみたいだ
おれもおれなりに配達をつづけたい
おれを待っていてくれる人々に
幸いその配達先は僅かだから
そうだ おれはおれの心を配達しよう

なんまんだぶのご法義は、私に配達された「法」を「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり」(総序 P.132) ご法義である。
そのような意味で、このご法義の越前の門徒は「聞いてよろこぶご法義」と私に配達されたなんまんだぶを慶んでいたのであった。

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高見順「ガラス」

明頭来也 明頭打

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仏教のさとりとは、あらゆる相対を無化するのだが、普化和尚の以下の句は好きな句である。

明頭来也 明頭打 賢い頭が来たならば、賢い頭を打ってやれ
みょうとうらいや みょうとうた
暗頭来也 暗頭打 愚かな頭が来たならば、愚かな頭を打ってやれ
あんとうらいや あんとうた
四方八面来也 旋風打 四方八方来たならば、旋風のように打ってやれ
しほうはちめんらいや せんぷうた
虚空来也 連架打 虚空が来たならば、棒をもって打ってやれ
こくうらいや れんかだ

しかし、このような色即是空 空即是色的な無差別な生き方は世俗においては誤解されやすい生きにくい生き方であった。どうでもいいけど。

→放下著

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法然門下での三願の受容

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法然門下では、浄土往生の願は第十八願だけであり、第十九願はその往生に際して来迎の利益を誓う願であるとしていた。その意を知るために浄土宗二祖聖光房弁長上人の『西宗要』から、第十七願、第十八願、第十九願、第二十願の記述について抜粋し読み下ししてみた。

御開山は、第十八願、第十九願、第二十願の三願を「生因三願」とされる。それには明恵上人が『摧邪輪』上で「第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答するとともに、三願を浄土三経に配当し「願海真仮論」として法然聖人の浄土思想を精密に考証しその真意を洞察されたのであった。ともあれ、同い年の明恵の、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし、これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず〈この解釈に菩提心ある委細の義は、また第五門決のごとし.彼に至つて具に知るべし〉、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言ふは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや。→「摧邪輪

という「何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答する為にも『大経』の「生因三願」を考察しなければならなかったのであろう。その意を仮をあらわす化身土文類の「真門決釈」で表しておられるのだが、後に三願転入派という異端を生ぜしめるとは御開山は夢にも思わなかったであろう。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」であった。

なんまんだぶのご法義は出来上がった体系の上で論ずるのではなく、私という代替不可能な、我の上に、なんまんだぶと称え聞える、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

という仏に成るご法義であった。

→「浄土宗要集」

なんまんだぶ なんまんだだぶ なんまんだぶ

浄土真宗における信の歴史

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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七祖の補注をUPしてみた。
七祖のそれぞれの解釈が窺えて面白い。一般に浄土真宗では「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)」とあるので、七祖は御開山と同一の事を述べたとされるのだが、それでは七祖に失礼であろうと思ふ。
祖師方は、それぞれがおかれた時代時代に応じて浄土教を顕開して下さったのであった。

で、突然『西方指南抄」の「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」の引用が出て来たので、リンクと現代語を付してみた。
『和語灯録』や『西方指南抄』は、お説教のネタの宝庫だと思ふので、もっと真宗の坊さんは読むべきかもである。知らんけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「七祖-補註7」

たとひ大千世界に

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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『浄土和讃』の、

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (讃阿弥陀仏偈和讃)

という句を真剣に聞法をすべき根拠という理解があるそうだが何を聞くのか明らかではない。
この和讃は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の漢讃を御開山が和讃したものである。(*) この和讃は二首を一対として領解すべきである。

もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。(讃阿弥陀仏偈)

(30)
阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり (*)

たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃阿弥陀仏偈)

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (*)

なんまんだぶの名号を聞信し、歓喜し讃嘆したてまつれば、その功徳はわが身に具わり、たった一声(下至一念)の〔なんまんだぶ〕であっても涅槃をさとる無上の大利益をこうむるとという意が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」という和讃の意であった。なお、この句の元となった『讃阿弥陀仏偈』の「阿弥陀を聞けば、また退かず(聞阿弥陀不復退)」の文も、現生不退(聞名不退)の証左となったのであろう。
御開山の示される御信心とは、本願(第十八願)に示された選択本願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を念仏成仏の業因と聞信し受容することを信心正因というのであった。
この「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くべきは仏願の生起本末を全うした〔なんまんだぶ〕を称え聞くことであったのである。御開山が「真実の信心はかならず名号を具す(*)とされた所以である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

利他力

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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某ブログへの投稿が「本文に含まれるURLの数が超過しています」 と撥ねられたので、自前のブログにしてみた。

浄土真宗は他力(利他力)のご法義ですから、阿弥陀仏の信心というのがあります。→(*)

阿弥陀仏が、他(衆生)を摂受することに、一点の疑いも無くハッキリしている阿弥陀仏の信心です。阿弥陀仏の信がハッキリしているので、浄土真宗ではわたくしの側でのハッキリした信を論ずることはしません。
阿弥陀仏がハッキリしているのにわたくしのハッキリをプラスするなら半他力ですね。

高森親鸞会の影響を受けている方は、高森親鸞会の教義の認知バイアスがかかっているので理解しがたいのでしょうけど、御開山のご著書を読むときには「約仏」で読まれると判るかもです。→(*)

なお、浄土真宗には「聞即信の一念」という表現はありません。
「聞即信」とは、聞いていることが即ち信心であることを意味する言葉です。阿弥陀仏の、これで必ず済度されるという信を聞信していることを聞即信というのでした。→(*)

一念とは、御開山によれば「行の一念」と「信の一念」があるのですが、お尋ねの一念は文脈からして信の一念と仮定するならば、信の一念には「時剋」の一念と「信相」の一念があります。こういう言葉の使い方の意味を辞書などを使って学んでみましょう。→(*)

自覚という語を使われてますが、本来自覚という語は仏教語であり「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」とあるように自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する言葉でした。→(*)

ともあれ、浄土真宗の全分他力のご法義では、わたくしが変わるではなく、曠劫以来変わらないわたくしに、なんまんだぶという言葉になって阿弥陀仏の可聞可称のご法義なのでした。→(*)

ほとんど理解できないと思ひますが、高森親鸞会で学んだハッキリする自覚の信と全く違う世界が、なんまんだぶと称えるご法義が、御開山の示して下さった信心の世界でした。要するにわたくしの信を離したときに、少しく窺えるのが、御開山が説かれた「信の世界」なのでしょうや。

「三品の懺悔」云云は、専である〔なんまんだぶ〕以外の雑行に固執する、高森親鸞会の専雑得失の雑行の十三失を誡める言葉でした。→(*)

『往生礼讃』の、

懺悔に三品あり。
上・中・下なり。「上品の懺悔」とは、身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づるものを上品の懺悔と名づく。 「中品の懺悔」とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。 「下品の懺悔」とは、遍身徹りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく。→(*)

の文から御開山は、

真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまへり

と、和讃されたのだが、真実の懺悔は「称仏六字 即嘆仏即懺悔」の〔なんまんだぶ〕を称えることでした。

また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。→(*)

浄土真宗の信は〔なんまんだぶ〕と称える所から立つのですが、あほみたいな高森親鸞会の信を捨てたところから、真の求道があるのかもでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

みづからの善根において信を生ずることあたはず。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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御開山は『無量寿経』の罪福を説く胎化段を、異訳の『無量寿如来会』の文を引文されて、

みづからの善根において信を生ずることあたはず。 (*)

と、されておられました。
高森親鸞会では縦の線とか横の線とか、浄土真宗をプロセスとして捉えていますが、ご開山のお勧めは第十八願に誓ってある、

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。(現代語

の、阿弥陀仏の正覚と衆生の往生を不二とされたのでした。
真偽未詳といふか、ほとんど仮託した句ですが、林遊のように口の悪い一休宗純が、

極楽に さのみ用事はなけれども
弥陀を助けに 往かにゃなるまい

と詠ったといふ意も「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」の文からでした。
「業は願によりて転ず」という語が『往生要集』にありますが、「絶対の幸福を求める」という幸福は、一人の幸福はみんなの為に、みんなの幸福は私の為にという意かもです。 (*)

ともあれ高森親鸞会の宿善論の「信心獲得」の呪縛から逃れられてのはよかったですね。

なんまんだぶ なまんだぶ なんまんだぶ