真仮を知らざるによりて

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」

『教行証文類』「真仏土巻」にある言葉である。以下に引用する。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。「真仮対弁
(現代語:方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。釈尊の経説、龍樹菩薩や天親菩薩の説示、浄土の祖師方の解釈を、仰いで敬い信じ、つつしんで承るべきである。よく知るがよい。)

これは、教→行→信→証→真仏土と、真実の教法を述べられた最後に、次に示す「化巻」の方便との「真仮対弁」の文である。真と仮を対弁して仮を誡められているのである。誰が読んでも、浄土の真実の教えに依るのでありで、これから説く「化巻」の方便の行や信に迷うのではないのですよ、という意味になる。当然、「真仏土巻」で説かれているのであるから、真→仮の次第であることは猿でも判る。真実の行信の分別を知らないから「化巻」の方便の行信に迷い、広大な恩徳を正しく受け取ることができないと、懇ろにお示し下さっているのである。

ところが、この「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、方便を知らなければ、真実へ至れないという意味の文である説く人がいる。この文は、仮→真のベクトルであるというのである。これほど屈折したお聖教を読解する人は、未だかって存在しなかったのだが、お聖教を、勝手に断章して切り張りして曲解するから、本物の浄土真宗が判らないのであろう。(*)

このような本物(真実)と偽物(方便)については、むかしから、以下のようなご法話でされていた。

江戸時代の両替商では、丁稚として入ってきた子供に、店の主人がその丁稚に本物の金貨を一枚渡す。丁稚はそれを懐にいれて、暇なときはいつも懐の金貨を手で触る。数年間は丁稚には金貨以外のお金を触らせずに、とにかく手で金貨を触らせる。そうこうするうちに、指先が本物の金貨に慣れ親しんで金貨の感触を丁稚は身体で覚えるようになる。このような訓練で、混じり物がある偽の金貨を触れば、すぐに違いが判るようになる。こうなってから初めて丁稚にほかのいろいろなお金を触らせるようにする。はじめに雑多なお金に触らせてしまうと、本物と偽者の微妙な区別が付かなくなるから、このような教育をした。

という内容の法話である。

偽物は本物と比べてみて、初めて偽物が偽物であると判る。偽物と偽物をたとえ千年の間比べてみても、偽物が偽物だということは判らない。本物と比べてはじめて偽物が偽物だと判るのである。
真実の山からは「仮 」の山の頂上は見えるが、仮の山からは真実の山は見えないのである。虎の絵を描きたいなら虎の絵を手本にすべきであり、決して似て非なる猫の絵を手本に描いてはいけないというではないか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

おっぱいの話

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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言葉には流行りすたりがあって、生きて来た時代が違うと意味の通じないものになってしまう。
おっぱいという幼児語の語源探索はさておき、’70年代に流行った歌謡に、
「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」 (月亭可朝:嘆きのボイン
と、いうのがあった。今では擬態語から派生した、このボインという言葉は死語であろうと思ふ。

さて、ボインの方のおっぱいではなく、母乳の方のおっぱいの話である。

最近はどうであるか知らないのだが、昔は赤ちゃんに母親が母乳を飲ませる風景は一般的であり、ほほえましく、かつ崇高な行為であった。赤ちゃんは、時・所を考えずに、お腹が空いたことを訴え、その要求を、泣き声で母親に知らせたものである。初めてお母さんになった女性は、そんな赤ちゃんの泣き声に応じて、恥じらいながらも胸元を開き、赤ちゃんのために授乳したものである。ほほえましくも崇高な姿である。

この母親の全面的な赤ちゃんへの無償の行為を題材にし、全分他力のお喩えとして浄土教では母の慈愛としての法話が語られて来た。もちろん譬喩であるから一分(物事の一部分を表わすこと)であり、阿弥陀如来の救済と比較にならない喩えではある。

おっぱい(母乳)は、母親によって造られるものでありながら、母親には何の用事もないものである。おっぱい(母乳)は、初っめから赤ちゃんのために造られるものであり、母親には必要のないものである。まるで、要求もないのに一方的に衆生の為に建立して下さった阿弥陀如来の本願のようである。浄土教では、このような無私なる母の慈悲を題材として阿弥陀如来の全分他力の救済を喩えて法話してきた。参考までに『往生要集』の「礼拝門」には極大慈悲母という表現がある。御開山も「行文類」で引用なさっておられるのだが、衆生をを包摂する阿弥陀如来の慈悲に母性にを感じられたのであろう。

さて、浄土真宗の教えに近いといわれる浄土宗西山派でも全分他力を説く。
隣の部屋で赤ちゃんが泣いている。母親がよしよし、お腹すいたね、と言って赤ちゃんの泣き声を聞いて立ち上がり、部屋の襖を開けて授乳するのが西山派の言う全分他力説である。赤ちゃんの助命という泣くという声に応じて、立ち上がって下さるのが阿弥陀様である、と表現するのが西山派の教えである。これはもちろん全分他力であって赤ちゃんの造作は無用であるといえる。(浄土宗鎮西派は半自力半他力説であるから、このような喩えは使わない)

ところが、御開山の全分他力説の浄土真宗との違いは、赤ちゃんが泣く必要があるという点である。泣くことすらも知らない赤ちゃんはどうなるのか。
その泣く力も無い赤ちゃんに視点を合わせた大悲のまなざしが、御開山のお示しになる本願力回向の浄土真宗である。南無と泣く手を差し出すことも出来ない衆生を抱いて抱えて摂取するというのが、御開山の仰る浄土真宗であった。
大河のど真ん中で、溺れている者にロープを投げて、このロープに掴まれ掴まれ、南無の手を出して掴まれというのが、西山派の教説である。我が浄土真宗は、ロープを掴まえる力もない溺れた者を、大河の中に飛び込んで抱いて抱えて摂取するという阿弥陀さまのご法義である。

若い頃は、「悪人正機」などという教えは、世間の道理に合わないと思っていたものだが、南無と差し出す手もない林遊の為に、元来は南無とタノム機の側の行為である南無を、阿弥陀如来の本願招喚の勅命(呼び声)であると、南無の機までも成就して下さったご法義が、なんまんだぶというご法義である。

正像末和讃」に、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
と、あるが、まさに世間にあって、苦悩の有情の為に成就されたのが、阿弥陀如来の救済の本願であった。
この、苦悩の有情を首(はじめ、第一、中心の意)とするのが、慈悲の至極であると、御開山の仰せであった。
これを、聞いた上からは、限りなき御恩報謝の道が用意されているのだが、林遊の場合は煩悩の林の中で遊び、往生浄土までの御恩報謝の暇つぶしで遊んでいたりするのである。

御恩報謝の論理については、暇があったら書いてみようと思うのだが、覚如上人の言われる「信心正因・称名報恩説」が、今ひとつしっくり来ないのでパス(笑

おきそ同行の話

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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ネットでは言葉だけの世界だから、コミュニケーションにおける言葉による誤解や錯覚も多い。
林遊の場合は、攻撃的な性格からか、つい、あほとか莫迦という罵倒語を多用するので、より誤解されやすい。言っている当人が一番愚かである事を知っているから、つい相手も同じであろうとキーボードを叩いてしまう。
『涅槃経』には、畢竟軟語畢竟呵責軟語呵責 とあるが、本当の意味での言葉を使われるのは、菩薩・諸仏だけなのであろう。

さて、阿弥陀さまの法の前で、誰が愚かかという話である。

稲城和上から聞いた法話。

山口におきそという三十路(みそじ)を過ぎてなお嫁(とつ)がない浄土真宗の門徒がいた。

おきそ同行は心の変調からか少し頭が足りないと世間で言われている。

そんな、おきそ同行は、毎朝自宅の前を役場へ向かう人力車の村長に声をかけるのが日課だった。両腕を頭の後ろで組んで、

「村長さんは気の毒やなあ」

毎日の事であるから、村長さんも慣れていたのだが、ある日の事少し虫の居所が悪かったのだろう、

「コラッ、おきそ、世間ではお前の事を馬鹿の天保銭のおきそと言っているのを知っているのか、この八文め」

と、人力車を止めておきそ同行を詰問した。

おきそ曰く、

「村長さんは一円銀貨じゃから先が見えん、おきそは穴開き銭(天保銭)の八文じゃから先の後生が見える」

と、言ったそうな。

蓮如上人の御文章には、

「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」(八万の法蔵章

と仰せだが、生死を超えた浄土の世界を後世と定めたおきそ同行の言葉に、村長さんもビックリしただろうな。

以下、この法話の時代背景。




明治4年12月19日発令の新貨条令では天保銭10枚を以て八銭となり1枚が八厘(八文)となる。当百が八文通用で、一人前に百文で通用しないので、囃子言葉で馬鹿の八文天保銭と呼んだ。
林遊の子供の頃には、何回同じ事をさせても出来ない林遊に「お前は八文かぁ」と言われた記憶がある。
言葉は歴史的な背景の中で語るものであり、権利とか人権という翻訳語の上でご法義を語るのは、歴史を時間というカンニングペーパーの上で語るような虚しさがあるな。

大人の宗教

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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高森会という、似非真宗団体の会員のブログをウォッチしてるのだが、宗教的深みがないというか、まるで中高生の宗教ゴッコのようである。
学生時代に偽装勧誘で入会し、社会経験ゼロで教祖のねじまげた似て非なる教義を刷り込まれてしまったためだろう。
時々、社会経験の浅い浄土真宗の坊さんにもこのような輩がいるのだが、煩悩という心の闇を見つめる力が不足しているのではないかと思ふ。浄土真宗のご法義は、浅ましい生活をしているなあという、自らの煩悩の中に、阿弥陀如来から回向された他力(利他力)を仰いでいくご法義である。

以下、梯和上の『親鸞聖人の教え問答集』から、引用。

Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみしして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称えるものは、必ず往生させましょう。もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし五逆罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます)

馬鹿は死ななきゃ治らない、とかいうが、死ななければならないほどの、自分でもてあますどうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きていかざるを得ないのが林遊のような存在である。生きている限りは、煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということである。

これを慚愧し、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのが浄土真宗のご法義である。若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自己の覚りと林遊の往生を不二と誓われたのが本願である。愛憎の煩悩に苦しむ者にとって、煩悩の寂滅した世界があり、その世界を目指して生きよというのが本願の言葉である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

三恒河沙の諸仏の

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
正像末和讃

このご和讃は、『安楽集』「発心の久近」から材を採られたものである。

『安楽集』では、『涅槃経』の意を引いて、今、お念仏を称えこの教えを聞くようになったのは、ただ事ではない。実は三恒河沙のガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏にお会いしたから、この『無量寿経』の第十八願を聞き、お念仏する者になったという意味である。

しかし、御開山は、この『安楽集』の意味を転じていらっしゃる。
ガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏の前で菩提心を発して善行に励んで来たのに、何故いまも煩悩具足の凡夫でいるのかという問いである。
それは、諸仏の前で菩提心を発したが、それは自力の菩提心であったからというのが前掲の和讃の意味である。もちろん仏道において菩提心は大切であって、御開山も「大菩提心おこせども」と大の字を使っておられる。それは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、世自在王仏の前で発した大菩提心であって、末世の凡夫が発すようなものではないからである。

菩提心については「度断学成 (どだんがくじょう)」でも触れたが、全ての菩薩が発すという四弘誓願が基本である。この四弘誓願については『往生要集』の作願門に説明がある。(*)

御開山は、『無量寿経』に説かれる生因三願を分別(ぶんべつ)され、仮を捨て真に帰せよとの意から真仮を分判して下さった。それが「願海真仮論」である。

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

つまり、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、それぞれ『無量寿経』の三願に配当し、第十九願や第二十願の道を行くのではないですよ、と懇ろにお勧めくださってある。また、下図のように二双四重の教判によって、浄土真宗では、横超、弘願、頓教のご法義であって、今晩聞いて今晩助かる頓教の第十八願を示して下さってある。これが本願力回向の浄土真宗というご法義である。御開山は、自力の要門や真門に迷うのではないですよと懇切丁寧にお示しである。




さて、『無量寿経』の第十九願に、は、「十方衆生発菩提心修諸功徳」(十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修せ)とある。御開山のお心を窺えば、これは『観無量寿経』に説かれた仮の教説であり、邪定聚への道であって捨てるべきものである。

しかるに、第十九願の菩提心を発して往生を欣求せよと教える輩がいる。汝らは菩提心とはどういうものか知っているのかと問いたいのだが、彼の輩は「善のすすめ」といって行じて修するということを説き人々を騙している。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり

と、御開山が自力の菩提心や回向する善を否定しているのも関わらず、第十九願の菩提心を勧め「修諸功徳」という名での善を勧励し、自らの名聞利養を図るのである。
菩提心は我々が発すのではなく、阿弥陀如来の菩提心に感動し、それに包まれて生と死を越えて行くのが浄土真宗のご法義である。

昔の布教使は、このような修善に迷う人には「あんたぁ、果遂の願があるからもう一回りしてくるこっちゃ」などと言っていたが、彼の善を奨める団体では、なんまんだぶを称えないから一回りではなく、御開山の仰るように「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」「真門決釈」ではある。
仮のご法義を示す「化身土巻」で説かれる三願転入の文は、私はこのような経過をたどりましたが、皆さんは決してこのような道に迷うのではないですよと、簡非して下さっている文である。某団体の教祖は、私もゼロから出発してこのような御殿を建てたのだから、あなた達もその道を歩みなさいと言っているそうだが、御開山のお心と比較対照にならない言葉ではある。

そもそも蓮師の言われる、後生ほどの一大事を自らが判断して学ぶこともなく、ただ一人の妄説を吐く一個の人格に委ねることが間違いなのだが、最初の刷り込みによって本物と偽者の区別がつかなくなったのであろう。悲しむことではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

度断学成 (どだんがくじょう)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
あらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

法門無量誓願学(ほうもんむじんせいががく)
法門は無尽だが、すべて学び尽くそうという誓願

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

大乗仏教の全ての菩薩が発すという総願の四弘誓願である。

♪しゅ~じょぉむへんせいがんだ~ん♪等とお寺などで唱和する機会もあるので知っている人も多いと思ふ。

衆生無辺誓願度、とあらゆる生きとし生ける者(衆生)を済度(救う)するという一番目の願がメインで、後の三願はそれを実行しようという菩薩の決意の願である。

ある和上が、この四弘誓願について、本当にこの願を発そうとしたら人間は死んでいる暇は無い。ありとあらゆる迷いの世界(此岸)の衆生を、さとりの世界(彼岸)に渡すことを発願するというような言葉は人間の世界から生まれて来るような言葉ではない、と仰った事がある。

ちょっとビックリした。言葉と言葉が指し示す意味内容を何も判らずに唱和していた事に恥ずかしさを覚えた事であった。
同時に、そのような誓願の中に願われ、重ねて『本当に疑いなく私の国に生まれるのだと欲(おも)え、そして私の名を称えながら生きていけ』という、なんまんだぶつの御本願がたのもしかった。

私が願(菩提心)を発すのではない。菩薩の発した願に包まれ、願の意味を聴かせて下さる仏教がある事の再発見ではあったな、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……
[20080804] SNS

善知識にあふことも

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし

この和讃は、『無量寿経』の流通分の文意を釈された「大経讃」である。
この和讃のこころは、「要門」・「真門」などの仮門を捨てて第十八願の他力の念仏往生の願に帰せよとの意である。

そのことは『化身土巻』の「勧信経文証」の文でわかる。

如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞 きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなし き、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし。「勧信経文証」
現代語:
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に出会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くこともむつかしい。菩薩のすぐれた教えや六波 羅蜜の行について聞くことも難しく、善知識に出会って教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。 そうであるから、わたしはこのように仏となり、さとりへの道を示し、阿弥陀仏の教えを説くのである。そなたたちは、ただこれを信じて、教えのままに修行 するがよい」

この流通分の文を和讃されたのが以下の和讃である。

(68)
如来の興世にあひがたく
諸仏の経道ききがたし
菩薩の勝法きくことも
無量劫にもまれらなり
(69)
善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし

(70)
一代諸教の信よりも
弘願の信楽なほかたし
難中之難とときたまひ
無過此難とのべたまふ
「大経讃」

ここに法に値(あ)うことの難を説かれてあるのは、第十八願を疑惑して信順しないことを戒められているのである。浄土真宗のご法義は、今晩聞いて今晩助かるご法義である。しかるに三願転入論などに迷い、善悪を超えた阿弥陀如来の救済を疑うから難なのである。法が難なのではなく、が難にしているのである。
まさに御開山が「正信念仏偈」で、

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
(万人を平等に救う法として如来より与えられる本願の念仏は、自力をたのむ邪見で倣慢な悪人が、どれほど信じようとしても、難中の難であって、絶対に不可能なことである。)

と、いわれる所以である。

そして、その回向された本願の信心というものが、一切の成仏の因であるということを、上記の「勧信経文証」の文に続いて、『涅槃経』の「もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ」という以下の経文によって証明されているのである。

なお、ここでいう善知識とは、一連の涅槃経の引文に「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。」と、あるように、真如法性を悟っている菩薩・諸仏であってけっして某会の教祖のことではない(笑 「涅槃経の引文」

究極的な善知識とは第十七願で、なんまんだぶをお勧め下さる諸仏のことである。

『無量寿経』を未来に流布し伝持する結びの「流通分」で、

「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。 」「一念大利」
(「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」)

と、諸仏のひとりである釈尊が、なんまんだぶの一念(一声)を、弥勒菩薩に、付属されたのがその意である。

御開山は『教文類』で、

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。「教文類」

と、真実の利を示された。この「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれた、真実の利が、流通分の乃至一念のなんまんだぶである。
浄土真宗のご法義は、本願(第十八願)が宗であり名号を体とするご法義である。

前掲の和讃の次下に、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
(72)
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ
「大経讃」

と、「念仏成仏これ真宗」と、なんまんだぶを称えることが真宗であるといわれ、権実真仮の分斉が分らずに、権仮の方便である、聖道門や第十九願・第二十願の者を戒めておられるのがこの一連の和讃である。
『十住毘婆沙論』で、龍樹菩薩が「阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。」(*)とされる、なんまんだぶを称えることが往生の業因であり、それを受け容れた心が回向されたご信心である。これを大乗の至極のご法義というのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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『教行証文類』の化身土巻は難しい。
なぜなら、簡非(非なるものを簡ぶ)であるからである。『教行証文類』は、真・仮・偽という三つで全ての宗教を包括しようという立場で書かれている書である。
真とは、教・行・信・証、そして真仏土巻であり、仮と偽は化身土巻で表わされている。仮の中に浄土門中の要門と真門を説かれ、聖道門もこの仮に納める。偽とは煩悩を助長するような外道の教説を指す。
しかるに、親鸞聖人が化巻に、この道は行くのではないですとお示し下さった三願転入の文をもって要門のご法義を勧める輩がいる。
真門決釈の三願転入の文前で、
「悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」(*)
(現代語:悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。)
と、仰せになっているのに、なお三願転入などということを論ずるのは、実は本願を疑っているということなのだが、それに気が付いていないのであろう。

さて、化巻で第十九願の意を述べられたあと、第十九願ではなく第十八願の「念仏往生の願」を結勧されるのがタイトルにある言葉で表現される釈である。
以下、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』で、その意を窺ってみよう。

六、結勧の文
[本文]

しかれば、それ楞厳の和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(*)

[講讃]

(一) 別発一願の開顕

上来第十九願の意を述べ、最後に「往生要集』によって報化二土を弁立し、専修と雑修の得失を明らかにされたから、『往生要集』大文第八念仏証拠(「七祖篇」一0九八頁)によって第十八願に帰して念仏すべきことを結勧されるのである。けだし従真垂仮された権仮方便の本意は、あくまでも従仮入真させるということに終帰していくからである。「念仏証拠門」には、懐感禅師の『群疑論』を拠り所にしながら、念仏が往生の業因であることを経論の十文をあげて証明されているが、そのなかの第三文と第四文である。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(*)

といわれているのを取意して挙げられたものである。第三文は、第十八願取意の文であり、第四文は『観経』下々品を取意された文である。第三文は『群疑論』五(大正蔵』四七・六0頁)の文をほぼそのまま引用されたものであるが、第四文は、「『観径』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ」といわれていた。それを源信僧都は「『観経』に極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」といい換えられたのである。 「極重の悪人」というのであるから、単に下品の三生のことではなく下品下生を指していた。そして「無他方便」という言葉で、本願の念仏以外にさとりを開く手がかりのない者ということを表しているから、善導大師のいわゆる機の深信を表す言葉になっていた。

こうした源信僧都の言葉を受けて、親鸞聖人はさらに徴妙に表現を変えていかれる。まず「四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく」といわれていたのを、「第十八の頭は別願のなかの別願なりと顕開したまへり」と註釈的な引用をされている。第十八願は別願のなかの別願なりといわれた、初めの別願とは四弘誓願のような菩薩の通願に対するから、四十八願を指していた。しかし第十八頭が、その別願の中の別願であるということによって、四十七願は諸仏と同じ水準の別願であって、そこには第十九願、第二十願、第二十八願等の方便願も含まれていることを表し、そうした諸仏通相の別願を超えて、 一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく平等に救うという、諸仏がなしえなかった救済を実現された誓願が第十八願であることを強調する言葉と受け取っていかれたのであった。
この第十八願があるから四十八願も超世無上の誓願といわれるのである。そしてまたこの無上の誓願によって選定された念仏であるから、極善最上の本願他力の行であって、その極善最上の法を『観経』では、極悪最下の機に与えて真実報土へと迎え取られていくことを顕示されていく。

(二) 顕機の経意

それを表しているのがつぎの「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」という文であった。この文をよく見ると「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」といわれていた『往生要集』の文に、「定散の諸機は」という文言を挿入されていることがわかる。
これは親鸞聖人が『観経』全体を「顕機の経」 (機の真実を顕わす経)と読み取られていたからである。善導大師に依れば『観経』は韋提希夫人の要請に応じてまず定善を説き与えられたが、さらに定善に堪えられない機のために釈尊は慈悲をもって散善を自開された(唯請定善、自開散善)(*)といわれていた。その仏意を徹底していくと定善にも散善にも堪えられない無他方便の機(定散不堪の機)のためには、定善でも散善でもない本願の行(非定非散の他力念仏)を与えて救わねばならないことを表していた。それが下々品の苦逼失念の機に与えられた口称念仏であった。そしてそれこそ『観経』の極意であると親鸞聖人は読み取っていかれたのである。
その意を表すために、 『往生要集』には書かれていなかった「定散の諸機は」という言葉を挿入し、定散の諸機は、極重の悪人であるという自身の真相を信知して第十八願の行である非定非散の称名を信受せよと勧励された文であると見ていかれたのであった。
親鸞聖人は『唯信紗文意』(七一六頁)に、下々品の念仏を釈して、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。(*)

といい、ここに「こころに弥陀を念じたてまつらずは」といわれたのは、臨終の行者が、苦しさのあまり、心もそぞろになって、心底から如来を有り難く尊く思う力もなく、明晰な意思力もはたらかないままで念仏していることを表している。未来の生処を決定する業力は、はっきりとした意思(思)を伴った身業、口業でなければならないのであるから、この下々品の念仏は善行としての価値のない行であるといわねばならない。その様な行によって往生したということは、行者の思いによって行になったのでも、ロのはたらきによって行になったのでもなくて、南無阿弥陀仏そのものが、往生の行であるような本願の行であったからである。それを定善でもなく散善でもない、本顕他力の行というのである。『観経』は、自力に執着している定散の諸機に、定善と散善という厳しい自力の行法を説き与えることによって、還って自身は定散諸行に堪えられない、無他方便の機であることを信知させて自力のはからいを捨てさせ、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励して他力の救いに心を開かせる経だったのである。それを「顕機の経」といい、その仏意を知らせるために第十九願釈の最後に、『往生要集』の文を引釈し、第十九願開説の『観経』の仏意を結勧されたのである。

それがまた「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし」という結びの言葉の意味であった。すなわち仏の方便調育の教化によって、わが身の程を知らされ、驕慢の心を捨て、懈怠の心を離れて本願力に帰すべきことを勧められているのである。ところでこの言葉は、後に「三時の開遮」を明かされるとき、「しかれば、穢悪濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ」(四一七頁)といわれた文章と対応していた。時と機と法とが相応することによってのみ、まことの赦いが成するからである。

なお親鸞聖人が『往生要集』の別発一願の釈や極重悪人無他方便の釈、それに報化二土の弁立などを、源信僧都の釈功として取り上げられたのには、源信僧都の師の慈恵大師良源の『九品往生義』(『浄土宗全書』一五・一八頁)の第十八願観や称名観、往生観との違いを評価されたからであろう。称名観や往生観はさておいて、良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。
それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。なお第二十願は、既に決定業を持っていて順次生では決して往生できない者を、順後生に往生させるという三生果遂を誓った願であると見ていた。したがって往生業を誓った三願の中で、最も勝れているのは、第十九願であって、第十八願がそれに次ぎ、第二十願が最低の往生法が誓われていると理解されていたのである。こうした第十九願中心の本願観を転換して、第十八願中心の四十八願観を樹立した日本最初の祖師が源信僧都であると認め、僧都を浄土真宗伝持の七高僧の一人として選定されたのが親鸞聖人であった。

以上、断章取義と言われないために、文言の出拠は、聖典の頁及び掲載文章の文末の(*)で示した。
ある団体の会員との間で、文言の出拠を尋ねたら自分で探せと言われたことがあったが、少なくともお聖教の出拠は示すべきであろう。相手に再検証の機会も与えずに自説を述べるのは、フェアな立場ではない。

要するに、浄土真宗のご法義は、(念仏した者を救う)という「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」ご法義であって、念仏をしない者を救うというご法義ではないのである。ゆえに第十八願の大信釈に「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。」(*)と、親鸞聖人は仰るのである。
行(なんまんだぶ)無き信は観念の遊戯と言われるが、行が教であり救いの法であるということが理解できないから観念の遊戯になるのであろうか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

本物の六字名号

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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六字名号

親鸞聖人自署

 

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

『蓮如上人御一代記聞書』
本物は本物であるから、あれこれ策を弄する必要はないのだがが、偽者は偽者を本物のように見せる必要があるから、コピー&ペーストなど、あれこれ策を弄する必要があるのであろう。「参照
浄土真宗では、「名号の機にあるのを信心」というのであり、木像よりは絵像、絵像よりは名号、名号よりは口に称えられる、なんまんだぶである。
木像や絵像や名号に救われるのではなく、凡夫の口先に称えられる、なんまんだぶによって救われるのが浄土真宗のご法義である。
本尊論云々は、信のうえでのご報謝の遊び事である。灯をともし香を焚き華を飾って遊ぶ、ご恩報謝の楽しみ事である。

十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
『弥陀経讃』

阿弥陀如来とは、十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはして摂取して捨てないから、阿弥陀如来というのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……称名相続

木像よりは絵像、絵像よりは名号

極重悪人、ただ弥陀を称せよ

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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とあるブログ間で『教行証文類』「化巻」の「極重悪人唯称弥陀」であれこれやり取りをしている。

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

ここんとこは引用の引用で、 言葉の意味が3回くらいひっくり返ってるのだが、その経緯を以下にメモをしておく。
そもそも、この文の出拠は懐感禅師の『群疑論』であり、御開山は『群疑論』を直接引用せずに源信僧都の『往生要集』に引文された処を参照されておられる。

これは、法然聖人の『選択本願念仏集』の「偏依善導釈」で、

問ひていはく、もし三昧発得によらば、懐感禅師はまたこれ三昧発得の人なり。なんぞこれを用ゐざる答へていはく、善導はこれ師なり。懐感はこれ弟子なり。ゆゑに師によりて弟子によらず。いはんや師資の釈、その相違はなはだ多し。ゆゑにこれを用ゐず。

と、法然聖人が示されたように、唯識の立場によって浄土門仏教を把握しようとした懐感禅師の『群疑論』に疑問をもって直接の引文を忌避したのであろう。
で、以下は暇つぶし。


『群疑論』:無量壽經又言。上中下輩行有淺深。皆唯一向專念阿彌陀佛。
無量寿経にまた言く、上中下輩の行に淺深あれども。みなただ一向に阿弥陀仏を念ぜよ。

 

『往生要集』:二 双観経 三輩之業 雖有浅深 然通皆云 一向専念無量寿仏
二には、『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。

『教行証文類』:
引用なし


『群疑論』:又 四十八弘誓願。於念佛門 別發一願言。乃至十念 若不生者 不取正覺。
また四十八の弘誓願、念佛門において別に一の願を発してのたまはく、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ

 

『往生要集』:
三 四十八願中 於念仏門 別発一願云 乃至十念 若不生者 不取正覚
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。

『教行証文類』:
念仏証拠門中 第十八願者 顕開 別願中之別願
念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。


『群疑論』:観経下品上生・下品中生・下品下生三処経文 咸陳唯念阿弥陀仏往生浄土
観径の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

 

『往生要集』:
四 観経極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

 

『教行証文類』:
観経定散諸機者 勧励極重悪人 唯称弥陀也
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。