行信一念について

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御開山は御消息で、

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

と、信をはなれたる行もなく、行の一念をはなれたる信の一念もないとされている。いわゆる行信不離ということである。御開山は「行巻」で行の一念を釈され、「信巻」で信の一念を釈しておられる。この二つはだいぶ離れているが、この二つは行信不離だから対にして読むべきだと聞いたものである。「行巻」で、「行にすなはち一念あり、また信に一念あり」とあるから、行一念と信一念の釈はセットで読むべきなのであろう。そこで、行一念釈と信一念釈を抜き出してみた。真宗の学問とやらには全く縁がないのだが、UPしてある文章へのリンク用に、とりあえず項目を上げて見た。

→「行信一念について」

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三法立題

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→WikiArcに以下の三法立題を追記

『顕浄土真実教行証文類』は御開山の主著であり、浄土真宗開宗の根本聖典である。
『顕浄土真実教行証文類』とは、浄土の真実の(きょう)(ぎょう)(しょう)を顕わす文類という意味である。巷間では『教行信証』と略称されることが多い。『教行信証』という呼び名は、本書の内容が教・行・信・証となっているので間違いではない。しかし、御開山が『顕浄土真実教行証文類』とされておられるのだから『教行証文類』あるいは『教行証』と略称するのが正しいであろう。
浄土真宗は、信心正因というように信を重視するご法義であるから、一見すると信を含んだ教行信証の四法立題が親しいと思われる。しかし、御開山ご自身が『顕浄土真実教行証文類』と「教行証文類」とされておられるので三法立題の書であるとしなければならない。御開山は20数年にわたって『教行証文類』を増補改訂されておられるのだが、『顕浄土真実教行証文類』という題号は一貫しておられ、自著を『教行信証』とよばれたことはない。また当時の関東の直弟子も『教行証』と呼称したようであり、時代が下った蓮如上人の頃にも高田派の真慧上人は、その著『顯正流義鈔』中で『教行証』と記述されている。
この教・行・証とは、教・行・果ともいい、「教」とは仏の説いた教え、「行」とは教に従ってなす行、「証」とは行によって得られるさとりの証果を意味し、元来は聖道門仏教の教義体系をあらわす語であった。
その教・行・証を、法然聖人の開示された、往生浄土門の「教」、順彼仏願故の称名である「行」、往生浄土の証果である「証」の三法として顕わされたのが『教行証文類』であった。法然聖人の『選択本願念仏集』を聖道門の教行証の三法立題で展開されたのが『顕浄土真実教行証文類』なのである。そして、この浄土門の教行証の三法立題によって聖道門の三法に対判されたのである。
仏陀入滅の後には時代が下がるにつれて、仏の教えが教えのとおり実行されなくなるという当時の末法歴史観に基づき、時代を正法・像法・末法の三時に分けて浄土門と聖道門の教法の綱格を考察されたのである。
聖道門の教・行・証は、正法の時代には教・行・証の三法がきちんと揃っている。しかし正・像・末の三時にわたって次第に衰えていく。正法の時代を下って像法の時代には、まず証果を獲る者がいなくなり証が欠ける。教と行はあるが証が無くなる。さらに末法の時代に至っては戒律を護り如実に修行する者がいなくなるので行すらも無くなり、行証の無い教だけが虚しく残る(有教無人)と決示された。行の基礎である戒律の衰えがその原因であろう。
そのような三時にわたって衰退する聖道門仏教と違い、法然聖人の開顕された往生浄土の教・行・証は、正・像・末の三時を通じて失われない法門である。浄土へ往生することを期する浄土宗は、もともとこの世でさとりを開く修行(此土入聖)に堪えられない、戒律を護ることのできない衆生に与えられた、浄土でさとりを開く教法(彼土得証)であるから正・像・末の三時を通じて証を得ることのできる仏教であった。 法然聖人が「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚癡にかへりて極楽にむまると」と言われたのがその意である。
御開山が、『教行証文類』の後序で、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。

と、聖道門の行証は久しく廃れ、現今においては往生浄土の真宗だけが証を得ることが出来る仏教であると示された所以である。
また、三法によって立題されたのは、聖道門仏教では教行証の三法によって教理を論じ、特に修行(仏のさとりを求める実践)に各種の特徴がある。そのような各種の行に対して選択本願の行である念仏をもって対抗する意から、三法立題とされたのであろう。 当時の聖道門仏教からの、法然聖人が立教開宗された浄土宗に対する主たる論難は、口に〔なんまんだぶ〕と称える念仏の行法に対しての強烈な非難であった。
承元の念仏弾圧を引き起こした、『興福寺奏状』や、明恵上人高弁の『摧邪輪』、嘉禄の念仏弾圧の遠因となった『延暦寺奏状』などに共通するのは、口称の〔なんまんだぶ〕は劣悪な虚仮の行であって、このような愚劣な行によって浄土へ往生できるというのは法然の妄説である、との罵倒に近い論難であった。例えば『興福寺奏状』の第七には「念仏を誤る失」として、専修念仏を、

ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。()ひつべし、不専の専なり、非修の修なりと。虚仮雑毒の行を(たの)み、決定往生の思ひを作さば、(なん)ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。

と、法然聖人の提唱された、雑行を捨てての口称の専修念仏は、不専の専(専といえない不実の専)、非修の修(修に非ざる虚仮の修)であり、〔なんまんだぶ〕の称名は、煩悩まじりの虚仮雑毒の行であり、決定往生の行ではなく、善導の宗旨や弥陀の本意にも背いていると非難していた。

このような論難に対して、法然聖人の示して下さった選択本願の念仏とは、第十七願に、十方世界の無量の諸仏が咨嗟し称名したまう行であり、阿弥陀如来より賜った破闇満願の「大行」である、と聖道門の雑多な諸行万行に対抗されたのが「行文類」を著された意図である。
第十八願の乃至十念は、十方衆生に誓われた願であり、その乃至十念の〔なんまんだぶ〕は、第十七願の十方世界の無量の諸仏の称名(称我名)と徳を同じくする行であるから大行なのであった。第十七願成就文に「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて……」とあるように、十方の諸仏の讃歎をとおして名号の功徳を衆生に聞かせ称えさせるのが第十七願だったのである。第十八願の乃至十念が称名であることを第十七願の「諸仏称名の願」によって証明されたのであった。
教行証の三法立題は、聖道門の行に対して本願に選択された念仏の称名行が諸仏の称名と等しい「大行」であることを顕わすためであったのである。

そして、念仏の行を受け容れている浄土門の者に対しては、大行が如実の行であることを示す為に、行から信を別に開いて(信別開)、「信文類」を顕わされたのである。行に信を摂して(行中摂信)いるから如実の大行といわれるのであり、信のない行は無いのであり、行のない信もないのである。古来から「行信不離」といわれる所以である。 「信文類」を別開することは、信のある行と信の無い行の違いを示すとともに、浄土真宗の信は、願作仏心であり、仏道の正因である横の大菩提心であることを示すためでもあった。「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」p.247 とされる所以である。
御開山は、行と信の関係を、曇鸞大師の『論註』のニ不知三不信釈を引いて示しておられる。

「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。また三種の不相応あり。一には信心(あつ)からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。

と、行を修していても、如実の信が無いから破闇満願の力用がないのであるとされた。如来が実相身であり為物身であることを知らないからニ不知といい、信心が、淳心・一心・相続心の展転する三信でないことを三不信というのである。 これをニ不知三不信と言い慣わしている。道綽禅師は『安楽集』で三不信を淳心・一心・相続心の三信として示されたので「正信念仏偈」では道綽禅師の釈功として「三不三信誨慇懃(三不三信の(おしえ)慇懃(おんごん)にして)」とされたのである。 和讃ではこの三不信を五句あげて、五句目に、

決定の信をえざるゆゑ
 信心不淳とのべたまふ
 如実修行相応は
 信心ひとつにさだめたり

と、「如実修行相応は信心ひとつにさだめたり」と如実の行を修することを信心であると和讃されたのである。この「如実修行相応」の語は信楽釈の結論として「〈如実修行相応〉と名づく。このゆゑに論主(天親)、建(はじ)めに〈我一心〉とのたまへり」p.240と引文されておられる。 浄土真宗の信心とは、〔なんまんだぶ〕の行を如実に修行して往生の行を信ずることであり、それは信文類の中核である三心一心の結論の釈において、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その(ことば)異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋(まじ)はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。

と、「真実の信心はかならず名号を具す」のであり「如彼名義 欲如実修行 相応故(かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するが故に)」と如来の名義に相応した如実の行を修することを「我一心」と言われたのであった。これに依って信は行に収まり行は信の裏付けがあり、行と信は不離であることが解かるのであった。 梯實圓和上は「行のない信は観念の遊戯であり、信のない行は不安の叫びである」とされておられ行信不離を示していて下さったものである。

なお、七高僧の論釈をすべて引文されているのは「行文類」だけであり、真宗の重要な概念である「破闇満願釈」や「他力釈」、「一乗海釈」、我々が口になずんだ「正信念仏偈」が記されているのも「行文類」である。行とは教法であり行法であるからである。「行文類」末尾の「正信念仏偈」は「行文類」と次の「信文類」を結ぶものといわれている。「正信念仏偈」は、正信に念仏する偈と読むようだが、「行文類」にあるので、念仏を正信する偈と読むほうが「教行証文類」の構成上親しいようである。

機法一体

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WikiArcの機法一体の項目に以下を追加した。なお当ブログの記載よりWikiArcの記述が最新なので為念。

 
機法一体の機とは衆生の信心、法とは衆生を救う阿弥陀仏の法のはたらき(力用)のこと。

この機法一体は、善導大師が六字釈(*)において、南無阿弥陀仏の六字を願と行にわけ、その意味について論じた願行具足論からの展開である。善導大師の六字釈では、南無という衆生の願(帰命の信心)と因位の阿弥陀仏の行(仏の救済の行法)が、南無阿弥陀仏の六字の上に浄土往生の願行として具足成就しているとされた。南無阿弥陀仏という言葉には、浄土往生に必須である衆生の願と行が、つぶさに具わって満足しているので願行具足しているという。

これを善導大師は「十方衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(十方衆生 称我名号願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚)」と、称我名号の南無阿弥陀仏を称えることが浄土へ生まれて往く正定業であるとされたのである。
「下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(下至十念 若不生者 不取正覚)」とは、下至十念のわずか十声までの南無阿弥陀仏には、衆生の浄土への往生と阿弥陀仏の正覚が、「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」と生仏一如に、衆生と仏の正覚の一体として誓われているのである。「衆生もし往生せずば我もまた正覚を取らじ」という自他一如の阿弥陀仏の誓願であった。

この願行具足論を、救われるべき機(衆生)と救いの法の関係で論じたのが機法一体説である。元々機とは機関・機微・機宣(*)とされて教法に対した語であり、教法に対していないならば機とは云わない。ゆえに、機と法は一つであって異なるものではないのである。阿弥陀仏の救済は、南無阿弥陀仏と称える者に願行具足の名号として顕れ、その名号には機の信心がすでに成し遂げられているから、機の信心と仏の本願力の法が名号において一体である。これを機法一体というのである。
蓮如上人はこの機法一体を『御文章』で、

「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。『御文章(三帖)の七』p.1147 (*)
南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)
されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。『御文章(四帖の十一』p.1183 (*)
このゆゑに南無の二字は、衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字は、たのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。『御文章(四帖の十四』p.1187 (*)

などと、いわれたのであった。
この機法一体という語の出処は、浄土宗西山派の書といわれる『安心決定鈔』からであろう。御一代記聞書の(249)p.1313(*) には「前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ」とあり、蓮如上人は『安心決定鈔』を熟読されていたのであった。

なお、『安心決定鈔』には種々の機法一体説が説かれ、西山派の生仏不ニの立場から、衆生の往生と仏の正覚の機法一体を説くのである。
蓮如上人も、

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)

と、機法一体を論じた後に、正覚を成じた果名の南無阿弥陀仏は、往生の「往生の定まりたる証拠なり」といわれるのだが、往生正覚の機法一体説はこれを使われない。かえって「「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。」『御文章(一帖の十三』p.1102 (*)と、十劫正覚を憶念することを信心の体とすることは、これを十劫安心として否定しておられる。
浄土真宗のご信心とは現在ただ今の信を指すのであり過去や未来に求めるものははないという意からであろう。 蓮如上人のご教化は信心正因一本槍で、なんまんだぶのお勧めがないという人もいるのだが「タスケタマヘ」や「機法一体」の教説を委細に窺えば、なんまんだぶが溢れているのであった。

→機法一体

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西方指南抄

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WikiArcの『西方指南抄』の項目を作成。

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→西方指南抄

 

大悲

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WikiArcの大悲の項目に追記

だいひ

〈悲〉の原義は〈呻き〉を意味する梵語のカルナーであるともいわれ[1]、(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと、嘆き悲しむことから、〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。慈悲と熟語される慈悲の〈慈〉は、梵語「マイトリー (maitrī)」であり、「ミトラ (mitra)」から造られた語で、本来は〈友情・親しきもの〉の意であるが、転じて〈慈しみ〉、純粋の〈親愛の念〉を意味する。大乗仏教においては、他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し「大悲 (マハー・カルナー mahā karunā)」と称する。仏の〈悲〉はとくに、大悲と呼ばれ無縁の大悲(あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲)だとされている。
御開山は、可聞可称の〈なんまんだぶ〉を、「大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。……しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」(*)と大行であるされ、この行は大悲の願より出でたのであるとされる。この大行という名目は衆生の側から立ったのではなく、阿弥陀如来の大悲の願より起こったのであり、これが本願力回向の「行」なのであった。そして、この回向された〈なんまんだぶ〉を称える生き方を「しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」(*)と、言われたのであった。

三種の慈悲(三縁から転記)

『浄土論註』の性功徳釈より。

〈正道の大慈悲は出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。浄土論註の性功徳釈を真仏土巻で引文

『浄土論』の偈文「正道大慈悲 出世善根生」の大慈悲の語を『浄土論註』で解釈する中で、「慈悲に三縁あり」とし、衆生縁、法縁、無縁とする。この三縁という語は『大智度論』巻四〇や『涅槃経』梵行品などの 三縁の語に依られたものであろう。ここでの縁とは、「縁ずる(心のはたらきが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ること)」という意味で、慈悲がどのような関係性によっておこるかを三種に分けて考察されている。この中の大悲を無縁の大悲という。

なお、三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。

法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。

無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。この智慧を因とする無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。そして、真仏・真土の浄土とは、この大慈悲をエネルギーとして性起された涅槃の境界である。

参照

『大智度論』巻40

復次慈悲心有三種。衆生縁法縁無縁。

復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。

凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。

凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。

諸仏善修行畢竟空故名為無縁。

諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。

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