一実円満之真教

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TS会の教義の根幹であろうか、それとも高森氏が剽窃した伊藤、大沼両師の著書からであろうかこの語をもって浄土真宗を語る。(この場合の語るは騙るではないのかと思ふのは特に秘す)。

この語は『教行証文類』の『信文類(末)』の、横超釈からの引文であろう。

この横超釈では、

横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超はに対しに対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254

と、『観経疏』玄義分の偈文「横に四流を超断すべし」を引文して、親鸞聖人が教判をなされている文言である。
高森会では断章するから意味が判りにくいのだが、親鸞聖人がこの文で言おうとされているのは教判である。以下にその教判を」図示す。
何処かで見た図である。二双四重の教判で論じた親鸞聖人の教判である。

要門・真門という高森会のいう横出の道を捨てて、横超の御本願に帰すのですという道を示すのが「一実円満之真教」の教えである。
浄土真宗は「本願力回向」の、向こうから来るご法義である。この如より来るご法義を、会員が求めるべき道であるとして教えるのが高森会である。そして、その対価として善のすすめという名の寄付という金銭を収奪し、人集めという時間を浪費させてきたのが高森会の歴史であろう。

一切衆生 悉有仏性」と、あらゆる存在が、真理に目覚めたものになる本性をもっているというのが大乗仏教の究極の思想である。
我に救われたいなら、わが名を称えよというのが浄土真宗である。子が親の名を呼ぶことによって安心するように、言葉と声になって救済を告げるという慈悲の至極が、なんまんだぶのご法義である。安心とか信心という暇つぶしの論義は、この原則を受け容れた後に展開される報謝である。

なんまんだぶ なんまんだぶ、やったね。

正しく読む『正信念仏偈』

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」というブログがある。

このブログは高森親鸞会講師のブログであり(宗祖の御名前を使うのにしのびないので以下TS会という)、ここで提示された「一切衆生 必堕無間」なる用語に関して脱会者諸兄と議論があった。

この「一切衆生 必堕無間」の例は、TS会会長の高森顕徹著(昭和44年五月五日発行 平成19年1月5日 第22版)の、『こんなことが知りたい①』のp.7に

経典に釈尊は「一切衆生 必堕無間」と説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです」

と、経典に釈尊は、とあるがその釈尊が説かれた「一切衆生 必堕無間」という経典とは何かという議論である。

聖典とは聖智を開いた覚者の言葉をいうのであるが、TS会では会長の高森顕徹氏が編纂した短冊に羅列した文言を『教学聖典』と呼称し、会員に暗記を奨めている。このような聖典を編纂できるほどの力量がある人が間違っても経典に釈尊は、と経典の言葉を創作するとは思えない(たとえ日蓮上人の『撰時抄』が、その根拠にしても)。

そのような意味で、元会員が「一切衆生 必堕無間」の出拠、出典を問うことは当然の行為であり、高森顕徹氏が、もしまともな仏教者であるならば真摯にその問いに答えるべきであろう。

さて、件のTS会ブログでは、「一切衆生 必堕無間」なる語の出拠が提示できないため、「正信念仏偈」から、道綽讃「一生造悪値弘誓」、源信讃の「極重悪人唯称仏」を出してきた。言葉というものは使われた歴史やその思想の背景を把握しなければ、正確にその言葉の持っている意味を領解できないものである。しかるにTS会は自説に都合のよい言葉だけを集め元の文章を断章する。これはTS会の会長が他者の著作を剽窃し、自己に都合のよい部分だけを切り張りしてきた習性なのであろうか。

断章して言葉の意味を入れ替え、文脈から切り離した解釈をするのはTS会の常套手段であり、件のブログで引用している「正信念仏偈」の文は、TS会の特徴の断章であり、「正信念仏偈」を破壊するような引用の仕方をしている。

そもそも、「正信念仏偈」は、以下の偈前の文にもあるように、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、「正信念仏偈」偈前の文

と、「正信念仏偈」は、知恩報徳のための讃嘆の偈頌であるとその造由を述べておられる。
TS会では、南無阿弥陀仏という行なき信を標榜するせいであろうか、「正信」という信と「念仏」という行の行信が理解できないのであろう。
また、この『正信念仏偈』は、「また方便の行信あり」と仰るように『方便化身土文類』に説かれる、TS会の主張する『観無量寿経』に説かれる行信に対している。このことは、浄土三部経のそれぞれの教説を、三願・三経・三門・三藏・三機・三往生に分類された「願海真仮論」から明らかである。

さて、「一生造悪値弘誓」である。これは「正信念仏偈」道綽讃の、

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

の、一生造悪値弘誓からの引文であろう。「七祖聖教」を読むことが禁止されているTS会の講師/会員には意味不明だろうが、これは善を修す仏教と信の仏教の違いをあらわす『安楽集』の「聖浄二門」の言葉である。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。『安楽集』「聖浄二門

リンク先の文章の文を見るまでも無く、「縦令一生造悪」のものが、自力の行を離れ如来回向のなんまんだぶを称えることによって安養界(浄土)の妙果を証すというのが道綽禅師の文の意である。

さて、次は「極重悪人唯称仏」だ。これは源信僧都の『往生要集』念仏証拠門からの引文である。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽  『往生要集』念仏証拠門

ここでも、唯々なんまんだぶを称えることを勧められ極楽に往生するとされているのであって、一切衆生が悪人であるという意味ではない。
ちなみに、我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の句は、『往生要集』雑略観の、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無惓常照我身  往生要集』雑略観

からであり、この文の前に「またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。」と念仏衆生 摂取不捨のなんまんだぶを称えるゆえの摂取が顕されている。この一段は親鸞聖人が『尊号真像銘文』で、「「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。」とあることからもあきらかである。

至誠心については、「至誠心釈」、「雑毒の善」でふれたので参照されたし。

信心の語義

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土真宗では「信心正因」といい、浄土へ往生するには信心が正しい因であるとする。
しかし、その信心というものが世間一般で使われている意味と大きく異なっていることから、さまざまな誤解を生むのである。

蓮師の『お文』には、「信心獲得」とか「信心決定」などという語が多いのだが、これをもって衆生の側に信心という物柄を得るように錯覚することが多い。
古来から浄土真宗では、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれ、信を自らの側に見ないという特徴がある。「若不生者」(もし浄土に生まれさせなければ、正覚を取らず)という、如来の信を仰いでいくのが浄土真宗の信であるからである。

さて、それでは、信心という語の意味を『一念多念文意講讃』梯實圓著から窺ってみよう。以下の引用は、『一念多念文意』の本願成就文についての解説からの引用である。なお、それぞれの引文については出拠を示すために『浄土真宗聖典』WIKIARCへリンクを作成しておいた。

信心の語義

「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれるように、親鸞聖人は、信心とは本願を疑う心がないことであると定義された。いわゆる無疑心である。法然聖人が『選択集』「三心章」(『註釈版聖典七祖篇』一二四八頁)に信疑決判を行い、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」といわれた釈を承けて、悟りと迷いとを信と疑によって分けるという信疑対を強調し、信の反対概念を疑とされていたからである。
「信文類」の字訓釈(『註釈版聖典』二三0頁)や法義釈(『同』二三四頁)にもそのことが見られる。
そこには「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」といい、無疑を信楽すなわち信心の名義とされていた。この疑蓋間雑の「蓋」とは、一般的には煩悩の異名で、真理をおおいかくすという意味を表していた。
しかしここでは本願を疑う心は、ちょうどコップに蓋をしたままで水を注いでいるような状態であるというので蓋という言葉を用いられたと考えられる。いくら本願の法水を注がれても自力の「はからい」という蓋をしていたのでは法が心に届かない。「疑いという蓋を法と機の間に雑えない状態を信心という」と知らせようとされたのであろう。

このように本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることは、如来の仰せに随順していることであるから、信は信順と熟字して随順の意味とされる。「信文類」(『同』二二六頁)に引用された善導大師の「二河白道の譬喩」のなかに「いま二尊の意に信順して」といわれているものがそれである。釈尊の発遣と、弥陀の招喚にはからいなく随順して、南無阿弥陀仏という願力の道を我が道と領解したことを信心というのである。

ところで親鸞聖人は、『尊号真像銘文』(『同』六五一頁)に「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」といわれているように、如釆の勅命に随順することを帰命の語義としても用いられていた。
こうして信心と帰命とは、元来別の言葉であったのを、親鸞聖人はどちらも如来のおおせにしたがうという共通の意味をもたせることによって同義語として使われていくのである。

また親鸞聖人は、信心のことを「たのむ」という和語であらわされることがある。『唯信鈔文意』(『同』六九九頁)の初めに「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれたものがそれである。信心とはわが身をたのむ自力のはからいをすてて、本願他力をたのみたてまつることであるといわれる。
この「たのむ」という言葉は、「行文類」(『原典版聖典』二一一頁)の六字釈にも帰命の帰の字の訓としても用いられていた。
すなわち「帰説(きえつ)也」の左訓に「よりたのむなり」とあり、「帰説(きせい)也」の左訓に「よりかかるなり」といわれたものがそれであって、「本願招喚の勅命」にわが身をまかせている状態をあらわしていた。
「たのむ」には現代では「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる。懇願する」などの意味があるが、親鸞聖人の「たのむ」の用法のなかには「懇願する」という意味は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは「たのむ」を漢字で書かれる場合には必ず「憑」を用い、他の漢字に当てはめることがなかったことによって明らかである。「憑」は、「よりたのむ・よりかかる・まかせる」という意味をもち、決して懇願するというような意味はなかったからである。
のちに蓮如上人が信心を専ら「弥陀をたのむ」といい表されたのはこの用法を踏襲されたものである。

また親鸞聖人は信心を「真」の意味とされている。「信文類」(『註釈版聖典』二三0頁)の字訓釈に「信とはすなはちこれ真なり、実なり」といわれたものがそれである。もともと「信」は「真」という意味であり、「真」には「実」という意味があるところから、信を真実といわれたのである。親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の真実なる智慧と同質の信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。
いいかえれば聖人が信心とは「本願他力をたのむ」ことであるといわれたときには、本願こそ究極の真実であるから、はからいなく「たのむ」という信相が成立するのだということを顕したかったのであろう。

通常の仏教では「修因感果」といって、因を修することによって果を感得することが生死の迷いを離れる道であり悟りへの道であるとされる。
しかし法然聖人は、悟りと迷いは信と疑によって決定されるのだと仰るのである。これが有名な「信疑決判」であり、これによって浄土仏教は信心の仏教であると断定されている。これを承けられた親鸞聖人は、その功を「正信念仏偈」の源空讃に讃嘆されておられる。「正信念仏偈」は正信(信)と念仏(行)を偈頌されたものであり信と行は不離である。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり)
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。 )

この法然聖人の信疑決判を、曇鸞大師の『浄土論註』に説かれる本願力回向の教説により、信は阿弥陀如来より回向される行信であり、信は仏性であり智慧であり、願作仏心(他力の菩提心)であるから、往生の正因は、信心であるとされたのが「信心正因」という言葉の意味であった。
本願が真実であるからこそ、その真実をはからいなく聞信し、受けいれた念仏の行者に信心が正因ということが成立するのである。

書きかけ.

大悲の必然としての救済論

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自業自得の救済論」で、TS会の自業自得の因果論による真宗理解の違いを述べたのだが、それに対する本願力回向の救済論について、梯實圓勧学和上の著書から窺ってみる。

大悲の必然としての救済論

親鸞聖人は、万人の救済を願い立たれた仏心を

如来の作願をたづぬれは
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり 『正像末和讃』p.606

と讃詠されている。大悲とは、すべての有情の痛みを共に痛み、苦悩を共感し、わがこととして、それを除こうと願う心である。また大慈とは、すべての悩めるものに真実の安らぎ(涅繋の楽)を与えようと願う心であった。
このように有情の苦を抜いて、真実の安楽を与えようとする大慈大悲は、自他一如、怨親平等とさとる真実の智慧の自然の流露であった。『観経』に「仏心とは大慈悲これなり」といい、仏心を大慈悲で言い表されているように、浄土教とは大智を全うじた大悲の活動に、阿弥陀如来の如来たる所以を見ようとする仏教であった。
大悲をもって苦悩の衆生と連帯していく阿弥陀如来は、衆生の要請を待たず、大悲の自然として本願の名号を救いの法として選択し、衆生に回向して救済を達成していかれる。その有様が往還二種の回向であった。『正像末和讃』には、

南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相匝向の利益には
還相回向に回入せり 『正像末和讃』p.609

と讃詠されている。如来が悲智の徳のすべてを名号にこめて十方の衆生に回向されるということは、むしろ、如来はみ名となって衆生のうえに顕現してくるというべきであろう。そのみ名は真実の教となり、行となり、信となり、証となって衆生の往相を成就し、また還相をあらしめていくのである。

こうした大悲の自然としての救済活動は、医療行為に似ている。治療は、患者に功績があるから行うのではない。病苦があるからである。薬は褒賞として与えられるものではなく、病苦に共感する医師自らの悲心にうながされて投薬するのである。それゆえ病苦が重ければ重いほど、医者は患者に緊密にかかわっていく。「信文類」に、

ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。 『信文類』p.297

といい、大悲の必然としての救済を医療に喩えられた所以である。このような救済論は、必然的に悪人正機説になっていくことも了解できよう。

聖人はこのような救済論をまた自然(自ずから然らしめる)と呼び、法爾(法則として然らしめる)と仰せられた。それが真実一如の必然の活動であり、法則であるとみていかれたのである。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀(仏)とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。 『御消息』p.768

と言われているのがそれである。人間の善悪によって救いの有無が決るのではない。南無阿弥陀仏とたのませ、迎えようとはからいたまう本願力の自然のはたらきによって決まるのである。私どもは、わたくしのはからいをまじえず、如来の不可思議の御はからいに身をゆだねて、おおせのままに念仏していくとき、是非、善悪を超えてはたらく本願力の自然のはたらきによって、無上仏にならしめられるのである。

こうした如来の自然法爾の救いの前に差別のあるはずがない。「信文類」には、

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254

といわれている。自他の隔てを超えて、生仏一如の領域である無上涅槃に至らせようとする本願力回向のはたらく頷域に、九品の階位はない。
無上涅槃は生仏の隔てさえも超えた一如の領域であるからである。自然の真実を知らないということは、行者のはからいによって描き出している九品の浄土を真実と誤解している証拠である。
いいかえれば真仮を知らないということは、本願力回向という自然の道理に気づかず、如来の大悲を迷失していることであった。「大経讃」には、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえそしらぬ 『大経和讃』p.569

と讃詠されている。一切の虚妄分別による限定を超えた生仏一如の「自然の浄土」は、本願の念仏を与えて成仏せしめるという願力自然のはたらきによってのみ開かれていく領域である。
それは行者のはからいによって行ずる万行諸善の届く世界ではない。聖道門、要門、真門といった権仮方便の教えと、弘願真実の教えとの違いを明確に信知して、自力のはからいを離れて本願他力に帰する人にのみ無上涅槃といわれる「自然の浄土」は開けていくのである。

自業自得の因果を信じて廃悪修善を行う主体はどこまでも行者であったが、自然法爾の領域にあっては、行も信も真の主体は如来であり本願力である。したがって三願真仮論、すなわち真実と権仮方便の問題は、ただ教学上の意見の違いというようなレベルでの問題ではなく、明らかに主体の転換という回心を迫る厳しい教説だったことが分かる。
聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれた所以である。

TS会では『真仏土巻』末の「真仮対弁」で説かれる「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮を知らなければ真は判らないと教えているそうだ。真を信知することによって第19願、第20願の仮の法門が判るのだが、いやはや何をかいわんやである。

唯除五逆誹謗正法

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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唯除五逆誹謗正法

これは、『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の四十八願中の第十八願にある言葉である。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )

この第十八願の唯除の文は不思議な構成をしている。
四十八願の一々の願は、「設我得仏」ではじまり「不取正覚」の定型句で終わっている。しかし、ひとり第十八願だけに不取正覚の後に「唯除五逆誹謗正法」の文が置かれている。

十方衆生を平等に救うという第十八願に、何故このような唯除の文が置かれているのか、そしてそれはどのような意味があるのかが古来から論じられ考察されてきた。

天親菩薩の『浄土論』の偈文の最後に「普共諸衆生 往生安楽国」(あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。)とある。この「普共諸衆生」とはいかなる人を指し、いかなる衆生が往生できるのか、という問いを出し答えられているのが、曇鸞大師の『往生論註』の八番問答である。
この中の第三問答では、五逆を犯した者は救われるが、誹謗正法の者は自らの救済の正法を謗り否定しているのであるから、否定している法によって救われる筈がないではないか、と答えておられる。
五逆を犯したものは救われるが、あいかわらず誹謗正法の者は救われないのである。

しかし、善導大師は『観経疏』「散善義」において、抑止門という名目で誹謗正法の者もすくわれるのであると決せられた。以下、抑止門釋の現代語をあげておく。

「問うていう。『無量寿経』の四十八願の中に、五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、往生を許されていない。しかし、この『観無量寿経』の下品下生の文には、謗法のものだけを除いて、五逆の罪のものを摂め取るとある。それは、どのような意味なのであろうか。

答えていう。このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、そのさわりがきわめて重いからである。

衆生がもしこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に堕ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて、<五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない>と仰せになったのである。摂め取らないということではない。

また、下品下生の文に、五逆のものは摂め取って謗法のものを除くとするのは、五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、その罪人を見捨てて、迷いの世界に生れ変わり死に変りし続けさせてはならないと、さらに慈悲をおこし、摂め取って往生させてくださるのである。
しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。
もし犯したなら、またこのものを摂め取って往生させてくださるのである。ただし浄土に往生することができたとしても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることができない。これらの罪を犯した人には、花の中にいるとき、三つのさわりがある。一つには、仏や菩薩がたに会うことができない。二つには、仏の教えを聞くことができない。三つには、他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。この三つのさわりを除けば、<ちょうど、比丘が第三禅の世界の楽しみを受けるようなものである>と説かれている。よく知るがよい。花の中に包まれていて、非常に長い間その花が開かないといっても、無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのにくらべたなら、はるかにすぐれている。以上のように、このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」

このように如来の慈悲の至極(きわまり)によって、五逆誹謗正法の者も回心すれば化土ではあるが往生できる、とされたのである。

『無量寿経』は大きく分けると衆生の救済の因果を説く「弥陀分」と、釈尊の教戒を説く「釈迦分」に大別されている。
釈迦分は釈尊の「教喩」であるから三毒段、五悪段という人間の話が説かれている。対するに弥陀分は一方的に衆生救済が説かれ、法蔵菩薩の救済の因と果が説かれている。この弥陀分には衆生の罪が説かれてはいない。
この弥陀分の中心は四十八願であり、その四十八願の中に衆生に対して誓われた願が三つある。第十八願から派生する第一九願と第二十願の三願である。
第十九願には修諸功徳の善が説かれ、第二十願には衆生の善根を回向することが説かれているが、第十八願には善も回向も説かれてはいない。乃至十念のお念仏が説かれているだけである

この第十八願に説かれるのが「唯除五逆誹謗正法」の文である。この文が「設我得仏~不取正覚」という定型句の外に置かれていることの意味は、この言葉に注目させると同時に、第十八願は特別な願であることを知らしめるためであった、というのが浄土真宗の先達の見方であった。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自らの覚りの完成と衆生の往生を挙げて生仏一体の願である。衆生を浄土に生まれさせられないならが自らも仏には成らないという自他不二の誓願である。

このような自他不二の願は、善を修し悪を廃ることを勧める第十九願や、善根を回向する第二十願とは全く違った論理構造を持つのである。それは自業自得の因果論を超えた救済論であると言わねばならない。善と悪を超えた仏智の不思議の領域の救済である。

第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の外に、唯除五逆誹謗正法と置くことによって、犯した罪の重さに泣きながらも救済の道を求める衆生を目当てとしているのが阿弥陀如来の選択本願である。
おかした悪に苦しんでいる衆生に、悪を示し罪を告げるにはしのびないというお心から、第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の本願文中に唯除五逆誹謗正法の文を入れることが阿弥陀如来には忍びなかったというのであろうか。

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親探し

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親探し はコメントを受け付けていません。

1980年代だと思うが中国残留孤児の親探しというニュースが連日TVに登場した事があった。

いわゆる日本の敗戦後に、満州地方に残された日本人の子供が日本で親探しをするというニュースである。山崎豊子の「大地の子」という残留孤児に材を取った小説でも紹介されていたが、中国残留孤児について知っている人も多いだろう。

そんな頃に話されたであろう和上の法話テープを聴いたのは17(19)年ほど前である。

マスコミで中国残留孤児の「親探し、親探し」というが、あれは間違いではないか。
親を探しに来たのなら、さっさと日本中を駆け回って親を探せばいいのではないか。

あれは、親を探しに来たのではない。親に探されに日本へ来たのだ。
当時赤ちゃんであり、親の顔さえ知らない者がどうして親を探せる筈があるか。

お父さん、お母さん、私はここに居ます。どうか私を見つけてください、と親に探されに来日したのであって、親を探しに来たのではない。
親に探される為に、親に見つけて貰うための「親探され」なのだ。

そんな法話であった。

浄土真宗では阿弥陀如来の事を「親様」というが、親様に対する求道の向きが違っていた事に気付かされた法話であった。
私が仏さまを探すのではない。仏さまが私を探し続け呼び喚け続けていて下さった事に驚愕した夏であった。
私を大切にするよりも、私を大切にしてきて下さった仏さまを大切にするようにとのお示しであった。

真宗では、口先で称えられるなんまんだぶつは讃嘆行といい御恩報謝という。
よかったな、このご法義には讃嘆/報謝の行為まで用意してあったとはありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

初稿2008年07月26日

真実の利益

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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浄土真宗とはなんまんだぶつのご法義である。それを少しく親鸞聖人の『教行証文類』教巻から窺ってみよう。

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経のとするなり。「顕浄土真実教文類P.135

「現代語」
さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。
ですからこの経典は、阿弥陀如来の本願(第十八願)のいわれを説くことを肝要としている経であり、それはすなわち南無阿弥陀仏が経の本体であるということを顕しています。

ここは、『無量寿経』で、釈尊が五徳瑞現といわれる素晴らしいお姿であることに気付いた阿難の問いからはじまる一段である。その問いに応えられて釈尊出世の本懐を説かれるのが上記の「教巻」の一段である。
ここで、「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれる真実の利とは『大無量寿経』の結論である流通分の一念である。これを行の一念という。衆生をどのようにして救うかといえば、真実の利である名号によって救うのである。これは「行巻」の行一念釈によって判る。なお、『無量寿経』が真実であるという証明は『無量寿経』と異訳の『無量寿如来会』、『平等覚経』を引文され、他の経典は引文されていない。なぜなら『無量寿経』が真実であるという証明に他の経典を依用するならば、その経典の方が真実になってしまうからである。あくまで『無量寿経』の真実であることは『無量寿経』によって証明されているのである。

行一念釈
【73】
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
【74】 ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上} 『顕浄土真実行文類』[行一念釈]P.187

「現代語」
(73)およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。

(74) だから『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」

釈尊が出世の本懐として真実の利をもって衆生を救済していこうという真実の利とは、この行一念釋によって、流通分の「乃至一念」(すなわち一念に至るまで)である。この一念は南無阿弥陀仏の一声の一念であり、この無上の功徳によって衆生を救済していくのが名号摂化の浄土真宗という法義である。

さて、この無上の功徳といわれる無上という言葉だが、少しく梯和上の講義録から引用してみる。『教行証文類』「行一念釋」より

[言く。「仏弥勒に語りたまはく。それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこと有らむ、當に知るべし、此の人は大利を得と為す。則ち是無上の功徳を具足するなり。」
とあります。
これは南無阿弥陀仏という一声の念仏が無上の功徳だというのです。
これは大変な言葉です。さてこの無上功徳というのはどういう事かという事は、この後におっしゃいます。

「大利と言うは、小利に対せるの言葉なり。無上と言うは、有上に対せるの言葉なり。」

無上功徳というのは、この上が無いという事です。上が無いという事は上が有るという事に対して上が無いというのです。
だから無上という言葉は有上に対するのだ。小利有上の功徳と大利無上の功徳を此処でお釈迦様はキチッと対判しておられるのだと言うのです。
それはどういう事かというと

「信(まこと)に知ぬ、大利無上は、一乗真実の利益なり。小利有上は則是八万四千の假門なり。」

と言うのです。
そうすると自力の行はどんな行であってもそれは小利有上の行である。それに対してお念仏は一声・一声が大利無上の功徳であるという事を顕すのです。
そうすると無上というのです、これは大変な事をおっしゃっている訳です。
お念仏と仏様どっちが上かといわれたら皆さんはどう答えますか?、お浄土と念仏どちらが上かと聞かれたら、どう答えますか?。
これは全く等しいのです。そうでなければ、お念仏より上のものがあったならば有上です。
お念仏よりも仏様の方が上だったらお念仏は有上功徳になります。お念仏よりもお浄土の方が上だったらお念仏は有上になります。
という事はお念仏とお浄土と仏様と全く同じ功徳であるという事です。仏様も無上の功徳を持つ。仏様の事を無上士と言うでしょう。
お浄土も無上の功徳を持っている。

そしてお念仏も無上の功徳を持っている、という事は私の前に現れている阿弥陀仏がお念仏なのだ。私の前に届いているお浄土がお念仏なのだよという事です。
お念仏は私の前に届いた仏様であり、私の前に届いたお浄土なのです。
浄土が念仏となって私の上に顕現しているのだ。仏様は念仏となって私の上に実現しているのだ。
だから念仏は大利無上というのだという事です。

だからお念仏を頂いているという事が仏様を頂いている事です、阿弥陀仏のお徳の全体を頂いている事であり、お浄土の徳の全てを頂いている事です。

法然聖人のお言葉に、

たゞ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。

と、あるように、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞こえて下さるそのままが、浄土がそして阿弥陀如来が林遊の上に顕現して下さっているのである。

こゑについて決定往生のおもひをなすべし。なんまんだぶ、なんまんだぶ…

念仏禁止

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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『念仏禁止』

うらの仏法は念仏やめよ
うらが称えりゃ名聞利養
人に見せかけ、世間をだまし
己が己に、ごまかされ
うらが称える念仏やめて
うらがの心に、念仏禁止の札かけりゃ
知らずに始まる、なむあみだぶつ
念仏往生さかんなり

うらの仏法は餓鬼根性
自分が仏を引き寄せて
うらが仏を摂取して
ご恩報謝の念仏称え
こんな念仏、やめねばあかん
うらが称える念仏止まりゃ
ここへ飛び出る親がある
親から噴き出る念仏は
尊い香りのするものじゃ

うらの仏法は闇夜に鉄砲
的は分からず、無茶苦茶念仏
弥陀の本願利用して
安心決定、自分できめて
ほんとにあぶない決定心
ああなさけなや、お気の毒

うらの仏法は玉手箱
弥陀から賜る玉手箱
如来他力のなむあみだぶつ
あけずにおけばよいものを
あければ驚く玉手箱
中の品物、化けものばかり
うらがあけたら、化けものじゃ
おけずに居られん、この爺々は
うらはそのまま、ままのまま

うらの仏法は分限ちがえ
諸仏は称名、衆生は聞名
ちゃんと分限があるそうな
うらが違えて称名するで
毒気・殺気で人さま逃げる
こらっ、念仏やめんかい
うらが称えるで、なかったわ

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ
うらの仏法は割り切れん
割り切りたいのが、うらの自性
割り切らさんのが、な む あ み だ ぶ つ

明治二十三年に越前に生まれた前川五郎松翁のうたです。
小生の母親に翁が下さった「一息が仏力さま」という自費出版の本に載っているもの。

自分で我が機を開けてみれば、出てくるものは化け物ばかりだなぁ。

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ

TS会では、信心獲得とか信心決定とか、成ろう成れると思っているから、四十八願まるつぶれなんだよね。
迷いだらけの自分の心に着目するよりも、これで大丈夫と称えられ聞こえてくださる、なんまんだぶつに何の不足があるるんだろうな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

Open SNS

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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ある方が懇志を提供してくださったので、サーバーを増強し新しいSNSサイトを作ってみた。
ここではSNSとは、同じような価値観、世界観を持っている人のネットワークとして定義しておく。もちろん浄土真宗という宗教によって生と死を超える道を、往生極楽の道として阿弥陀如来の願いを聞いていこうというSNSである。

仏教の三学、戒・定・慧(戒律と禅定と智慧)を磨いて生と死を超え、この世で悟りを得る道もあるのであろう。
しかし、自らで制御できない煩悩に呻吟しながらもなお、仏道を求め仏陀と同じ悟りに至る道もある。それが「往生極楽の道」である。

法然聖人は「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚癡にかへりて極楽にむまる」と仰ったそうである。これは親鸞聖人の消息の中で「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを 御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。」『御消息』p.771  とある。

人間を含めた動物、いや植物まで含んで弱肉強食・優勝劣敗が生物の進化という名の歴史であった。
しかし、弱者や世俗から受け容れられない悪人と呼ばれる者を救済の対象として真正面から取り上げ苦闘のなかで組み上げた思想が浄土真宗という、阿弥陀如来の本願を宗となし名号を体とする宗教である。(宗教とは元来、宗とする教えという仏教語だが、明治期に欧米語の翻訳語として使われてから意味が変わった)

日常茶飯の何気ない事柄から、阿弥陀如来に願われている意味を聴いていくのが浄土を真実とする宗である。この”いのち”、どこから来て何処へ行くのか、そして阿弥陀如来とはどのような存在なのかを、心の余裕を持って語り合い、過激な発言にはちょっぴり、はらはらどきどきしならが語り遇えるSNSになって欲しいと思ふ。

念のために書いておくけど、浄土真宗はTS会のいうような、信じて救われるご法義ではありません。
必ずこれで救われてくれるという、阿弥陀如来の本願を聞信するご法義です。私が救われようと思う前に、如来の救済の道が用意されていたことの驚きが如来の名を称えるということです。救われてありがとうというサンキュウの意味は名号にはありません。

Buddhist SNS(よみがえれ仏教) blogを中心としたSNS

Buddhist SNS mixiタイプの日記とフォーラムがメインのSNS

正行・助行・雑行

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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雑行とは、正行に対する語であり、雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行のことをいう。
この雑行は善導大師の『観経疏』深心釈・就行立信釈正雑ニ行判において、捨てるべきものであるとされている。
就行立信とは、行に就いて信を立てるという意味である。仏教にはさまざまな行があり、浄土門においても十九願の修諸功徳や、『観無量寿経』に説かれる、定善・散善という行があり、どのような行に就いて信を立てるのかというのが就行立信釈である。そして、その就行立信釈を善導大師は深心釈の最後に挙げられて深心釈の結語とされておられる。

浄土教では名号を称えるという行為が正行であり、それ以外の行は助行・雑行として判定し嫌貶されているのが以下の釈である。

就行立信釈の正雑ニ行判
次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。 正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。

何者かこれなるや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一 心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。 またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。 もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。 ゆゑに深心と名づく。『観経疏』散善義p.464

この五正行とは、

①読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
②観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
③礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
④称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
⑤讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。

の、五種であり、仏願(弘願)の上からいえば④の称名正行が正行であり、読誦、観察、礼拝、讃嘆供養は助行であるとされる。

この「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の、文によって法然聖人が回心されたのは有名な話だが、この文のどの部分によって回心されたのであろうか。
法然聖人は比叡山の浄土教の伝統の中で学び、念仏が往生の行であるということは既に知っておられた筈である。しかし、その念仏の行が自己の選ぶ行であるという事にためらいがあったのであろう。自己の選んだ行であるならば、選んだ主体の過誤は取り返しのつかない結果になるからである。

しかし、往生の正定の業(如来の選定された正しい行業)として、「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の文、漢文では「順彼仏願故」の文によって、念仏は阿弥陀如来の選択(せんじゃく)された行であったと気付かれたのである。私がとかくはからう前に、如来が念仏の行を選択して下さっていたという「順彼仏願故」の文によって回心されたのである。一字で表わすなら「故」である。
その感動を以下のように述べておられる。

「ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也」 (和語灯録)「法然聖人の回心」参照。

これが、第十八願の至心信楽欲生我国乃至十念の本願に順ずる、乃至十念の行であったのである。決定往生の行は念仏一行であるということである。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であるが、これをほどその書の性格を現している題号はないであろう。まさに、阿弥陀如来が本願において選択してくださったのが念仏であるからである。

親鸞聖人は法然聖人に遇えた喜びを「後序」に感動をもって語られているのは周知である。ここで、親鸞聖人は不思議な言葉づかいをされておられる。

浄土門に入られた感動を「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と記述されている。雑行を棄てて本願に帰す、と記述するならば雑行の反対語は正行である念仏であるから、雑行を棄てて正行に帰す、とか雑行を棄てて念仏に帰す、と記述するべきであろう。
それをあえて、雑行を棄てて本願に帰す、といわれるのは前述の法然聖人の回心と同じように、念仏が阿弥陀如来の本願に誓われた行であるからである。まさに順彼仏願故の師弟一味の信心である。

TS会では、雑行そのものは捨てるべきものではなく、それを修する自力心が問題なのだという。色法(一切の存在するもののうち、空間的占有性のあるもの)、心法(心の働きの総称)を意図的に混在させて、会員に雑行という名の善を奨めている矛盾を糊塗しているのだから悪質である。それとも色心二法ということを知らないからの妄言であろうか。

さて、善導大師が、雑行を嫌貶されたことは『往生礼讃』の雑行十三失が詳細である。

光号摂化
答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・ 名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。このゆゑに釈迦および諸仏勧めて西方に向かはしむるを別異となすのみ。 またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらず、知るべし。

専雑得失
もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順す るがゆゑなり。

もしを捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。なにをもつてのゆゑに。すなはち①雑縁乱動する によりて正念を失するがゆゑに、②仏の本願と相応せざるがゆゑに、③教と相違せるがゆゑに、④仏語に順ぜざ るがゆゑに、⑤係念相続せざるがゆゑに、⑥憶想間断するがゆゑに、⑦回願慇重真実ならざるがゆゑに、⑧貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、⑨慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑなり。 懺悔に三品あり。一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。

また⑩相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、⑪心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、⑫人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、⑬楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。なにをもつてのゆゑに。余、このごろみづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なることあり。ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心なら ざれば、千がなかに一もなし。この二行の得失、前にすでに弁ぜるがごとし。『往生礼讃』P.659 ○数字は便宜の為付した。

TS会で現代の教行信証と呼ばれ出版準備までされながら、他者の著書からの剽窃が表面化し、出版を断念したというTS会会長の記述した『会報』の中から雑行十三失の解釈を引用しておこう。信心に対する考え方がおかしく全て肯定されるわけではないことを断っておく。また下品で言葉遣いが汚く攻撃的ではあるが、TS会の会長は雑行について、このように述べていた時代もあったのである。

>>引用開始

(一)雑縁乱動して正念を失するに由るが故に。
これは己れの努力によっては真実になれるのだと自惚れて、身口意の三業を磨き上げて功徳善根を積み、それによって弥陀の浄土へ往生しようと考えているのだが、か弱い不確実な自力をたよっているのだから、乱れ来る様々な悪縁にあうたびに思い固めた信心に狂いが生じて悩み苦しむのである。順境には感謝出来るが逆境に見舞われると忽ち信心がぐらつき、常に自己矛盾に悲しまなければならぬのである。

(二)仏の本願と相応せざるが故に。
この仏の本願とは阿弥陀仏の本願のことであるが、阿弥陀仏が十劫の古に、すでに十方の衆生は十悪五逆法謗闡提逆謗の屍であることを見抜いて本願を建立なされてあるのに自分はやればやれるのだと自惚れて諸善を積んだり、念仏を励んだりして助かろうと思っているのだから、苦労しながら阿弥陀仏の本願に相応しないのである。これでは助かる道理がない。

(三)教と相違せるが故に。
この教は釈尊出世本懐の教えをいう。即ち釈尊一代四十五年間の説法は我身知らずの我々に曽無一善、一生造悪、必墮無間の実機を知らせ、その悪機を救う弥陀の本願を信知させんが為のものであったのに、その釈尊の真意が判らず自分は善根功徳の積める善人だと思って雑行を励んでいるのだから釈迦一代の一切経を反古にしているのだ。真実教に背反して助かる筈がない。

(四)仏語に順ぜざるが故に。
この仏語は三世諸仏のお言葉であるが、その諸仏の証誠讃嘆のお言葉に順っておらぬからである。すでに十七願、諸仏咨嗟の願が成就して「十方恒沙諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう。」とありそれが、『阿弥陀経』の六方恒沙の諸仏如来の証誠護念のお言葉となったのであるが、これは決して諸善万行の徳を讃嘆なされたのではない。南無阿弥陀仏の名号に逆謗の屍を絶対の幸福に生きかえらせ得る威神力のあることを証明し讃嘆なされたものであることは明らかである。この仏語も知らず善根功徳をつんで助かろうと雑行を励んでいるのは当にこれらの仏語を疑い背き順じていないのだから助かることがないのである。

(五)係念して相続せざるが故に。
信楽開発した人なら仏凡一体機法一体だから動くままが、南無阿弥陀仏で問題にならぬことだが微塵ほども真実のないものが、善根を励んで行こうと力んでいるのだから心にかけながらも相続出来ないのは当然である。
(六)憶想間断するが故に。
信決定した人ならば現当二益の大益を頂いているから「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」だが、自力で励んだ善根功徳で助かろうとするのだから静かな心の時と散乱している時と同じであり得ない。善がやれた時は助かるように思い悪が噴きあげた時はこれでは駄目だと悲観せずにおれないから往生の想念は常に間断せずにはおれないのである。

(七)廻願の慇重真実ならざるが故に。
善根がつめるのだと自惚れているのだから如来に向かっても廻向発願して願生する念が慇懃ではなく、また誠実でもない。善因をつんで善果を得ようという打算的な気持ちだから恭敬の念も尊重の念もある道理がないのである。

(八)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に。
三業を真実に出来ると自惚れて努力はしていても貪欲、瞋恚等の煩悩や様々の悪邪見がおきて折角の善根も悉く雑毒の善や虚仮の行となって修道の心を障げることになるのである。

(九)慚愧懺悔の心あることなきが故に。
懺悔といっても仏教では上中下の三種に分けて説かれている。上品の懺悔は全身の毛孔から血を流し眼から血涙を流す熾烈な懺悔である。中品は全身より熱い汗、眼から血涙を流す懺悔、下品は全身と眼から熱汗熱涙を流す懺悔をいう。「真心徹到する人は、金剛心なりければ、三品の懺悔する人と、ひとしと宗師はのたまえり」と『和讃』にあるように、真実の信心が徹底すれば我機に呆れ、本願に呆れ、無二の懺悔をさせられるけれども、自分は諸善が積める善人だと自惚れている者に慚愧の心や懺悔の心がないのは当然である。
以上、九失を聖人は十九願の行者の欠点となされ、折角聖道仏教を廃して浄土仏教に入りながら定散自力の心が廃らず雑行を捨て切れないで、またしても元の古巣へ舞い込まねばならぬとは残念至極ではないかと「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし、如来利他の信心に通入せんとねがうべし」と速に雑行を投げすてることを祈念していわれるのである。
{中略}

(十)相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。
如来のみ心が判らず、仏壇を立派にしたり、礼拝読経したり、御仏飯やお花を供養したり、念仏を称えることが御恩報謝だと思っている者がいるが、とんでもない思い違いである。
「弥陀の名号称えつつ、信心まことにうる人は、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」「釈迦弥陀の慈悲よりぞ、願作仏心はえしめたる、信心の智恵にいりてこそ、仏恩報ずる身とはなれ」と『和讃』にあるように、阿弥陀仏が最もお喜びになるのは、我々が信心決定することであり、信楽開発の身になることである。
十劫の古より立撮即行のみ心は、偏えに我々が名号大功徳を受けとって大安心大満足になることを念じての御苦労であれば、これ以上に阿弥陀仏の御満足になることはないのである。その阿弥陀仏のみ心を知らないで、信心決定もせず、これだけ朝夕のお勤行欠かさずにしているから、これだけ真心こめて供養しているから、これだけ念仏称えているから、これだけ御恩報謝しているからと自惚れているのだから続く道理がない。
まだ助かってもいないものに御恩の判る筈もないし、御恩の判らぬ者に報謝の心のないのは当然である。「助正ならべて修するをば、すなわち雑修と名づけたり、一心をえざる人なれば、仏恩報ずる心なし」と聖人は喝破なされている。にもかかわらず、信心決定(助かる)することを忘れて礼拝したり読経したり、仏壇を立派にしたり御仏飯やお花を供養したり、念仏することを報謝だと思って、自惚れて、つとめているから、これだけやっているのだから大丈夫と自力をさしむけて、阿弥陀さまを泣かせているのだ。御恩報謝どころか弥陀を疑いはからい殺しているのだ。
「仏智疑う罪深し、この心おもいしるならば、くゆる心をむねとして、仏智の不思議をたのむべし」である。

(十一)業行を作すと雖も常に名利と相応する故に。
「真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし、修善も雑毒なる故に、虚仮の行とぞ名づけたり」と信楽開発して自力浄尽されていないから、自力のはからいが離れ切れないで、口では他力より助かる道はないとはいいながら、これだけ善根をつんでいるから他人がほめてくれるだろう。こんな親切しているから何かよいことがあるだろう、これだけ朝夕勤行しているから死んでも悪いところへはゆかんじゃろう。こんなに仏法の為につくしているから何か御利益があるだろうと、やることなすことが自分の名聞や利養を離れて考えられないのである。

(十二)人我自ら覆うて同行、善知識に親近せざるが故に。
「おれがおれが」という我慢我執の心によって真の知識や同行に近づくことが出来ないのである。「至言は耳にさからう」の諺のように真の知識や同行の言葉はきびしく、はげしく辛辣である。真実の仏法を聞くということは叱られるということである。叱られて有難いと思える程、我々の迷いは浅くないから、真の同行や知識の言葉は聞きたくないのである。
俺だけは大丈夫だと我慢我執の自力の心で固めた信心を持って安心している者は、法の手元の有難い話なら調子が合って喜べるが機の真実を聞かされると信心が動揺し不安になるから、折角、真の知識や同行にめぐり遇いながら離れよう離れようと努めるのである。

(十三)楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に。

自身の信仰の程度のお粗末なことに気がつかず、真実の知識や同行を疑謗して「あんなハッキリしたことをいうのは異安心じゃ、あんな話をきくと迷うぞ」と自分だけが近よらないようにするだけでなく、他人にまで吹聴して、自から第六天魔王になって真実の仏法を求める邪魔をするのである。
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かっては廃立を前面に打ち出し、三願転入を批判していたTS会会長であるが、いつしか三願転入を説き始めたりして腰が定まらないのは、浄土真宗という本願力回向というご法義を理解できないためであろう。当人が理解できていないことを聴かされるほど辛いことはないし会員には理解不能である。しかるに不思議なことにTS会の会員や講師は、教えがころころ変わったり矛盾した会長の言葉や行動を、私には理解できない「深い御心」と受け取るそうである。まさに奴隷の主人に対する服従の姿勢なのだが、自らの人生を他者に委ねてしまう会員は、TS会や講師そして会員間で共依存の関係に陥っているのかも知れない。

浄土真宗というご法義は、なんまんだぶを称える宗旨であり、凡夫が仏の覚りを得るにはこれしかないという、大乗至極の宗教である。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

浄土真宗はお念仏を称える法義であることは上記の和讃で明らかである。また、『信巻』の「信一念釈」は『行巻』「行一念釈」と不離であり一具であるのだが、TS会会長は若年時の一時の感情の爆発を信心獲得と誤解したところから間違いがはじまったのであろうか。

TS会の会長は、雑行を捨てて正行のなんまんだぶに帰せという「従仮入真」という宗学用語を、仮からしか真に入れないと教えいるらしい。
また、『真仏土巻』の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」という、これから述べる『化身土巻』の行信に迷っては駄目ですよ、と戒めた親鸞聖人の言葉を、仮をやってこそ真に出会えると全く逆の意味で教えているのである。
このような言説に騙される方もどうかと思うのだが、TS会では外部情報を遮断して本物の浄土真宗への道を遮断している。何千万何億人という人が、本願に誓われた往生の正行である、なんまんだぶを称えよという本願を信じお念仏してきたのが浄土門であり、その結論が浄土真宗である。
歎異抄の著者の言うとおり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのが、法然・親鸞両聖人のお勧めである。