絃の切れた琴は鳴りません

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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久しく妄心に向って 信心を問う

断絃を撥して 清音を責むるが如し

何ぞ知らん 微妙梵音のひびき

劉喨 物を覚らしむ 遠くかつ深し

*劉喨(声や音のさわやかで澄んでいるさま。)

意訳:

長年、自らの心に信心の有無を尋ねてきた。
しかし、それはまるで絃の切れた琴に向かって、
澄んだ音色を求めるようなものであった。
どうして、浄土から届けられる、
あの阿弥陀如来の、微妙な救済の呼び声を知らなかったのであろうか。
聞くものをして悟らしめる、梵声は劉喨(りゅうりょう)として深遠である。

我ながら下手な意訳だな(笑

この句の「微妙梵音のひびき」とか、「物を悟らしむ 遠くかつ深し」の語は、『浄土論』の「如来微妙声 梵響聞十方(*)の句を解釈された曇鸞大師の『論註』からであろう。

また、『論註』の「梵声悟深遠 微妙聞十方(*) の妙声功徳釈にも、「名声ありて妙遠なれども、またを悟らしむることあたはず」と、仏願の生起のところから名号をお示しであるところからでもあるのだろう。

それにしても、「断絃を揆して 清音を責むるが如し」、という表現ははいいな。

真実の信心とは、阿弥陀如来の信心(菩提心)と同じ心をいうのであるが、信心正因という言葉を取り違えて自らの 妄心の中に信心とやらを求めるならば、それは御開山聖人のお示しとは、全く隔絶した領解と言わざるを得ない。近年、成就文の一念を曲解し、名号なき、単信無称の邪義をもって大衆に勧化する、北陸の一狂惑者があると仄聞する。

所詮は、自らがこしらえた、有りもしない安心とか信心に沈潜する妄心の拵えた信であろう。なんまんだぶという名は、を悟らしめる仏事をなすのである。
なんまんだぶという名号には、破闇満願(闇を破り志願を満たす)の徳用がある。自らの心を妄念に縛りつけるような信ではなく、自らを解放していくはたらきが、なんまんだぶの信である。御開山は、そのこころを、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

と、お示しである。浄土教興起のところから、なんまんだぶを離れた信はないのである。
和上から、割れた尺八は鳴りません、という法話を聴いたが、打っても叩いてもウンともスンともしない林遊に、聞くものをして悟りへ至らしめる、なんまんだぶが届いているのはありがたいな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

『教行証文類』再読中

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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据わりは本典ということで『教行証文類』を再読している。どうせ読むなら漢文で読もうということで、白文に句点を付け読みやすいように区切って読んでみる。(*)
漢字は孤立語なので、読み下しとは違い一語ずつの意味をしっかりとらえないといけないのでややこしい。しかし、漢文独自の簡潔さゆえ意味の曖昧さがへるのはよいことだ。
たとえば、信という語にも御開山は字訓釈という形で言葉の意味を解き明かして下さってあるのだが、あれこれ参照しながら読んでいる。
字訓釈 とは漢字一字の持つ意味を、ご法義の上から文字に寄せてその意味を探る手法だそうだが、文に依らず義によって言葉の意味をあらわそうとする御開山の面目躍如たるところがある。以下、字訓釈についての梯和上の御著書から「信」という漢字についての考察を窺ってみよう。


 

信楽の字訓を挙げるなか、まず信の訓として、

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。(*)

という十二訓が出されています。まず「信」を真、実、誠といわれたのは、『説文解字』には「信は誠なり」といわれているように、嘘・偽りのない「まこと」の意味を持つ「誠」が信の本訓としてあります。その誠には、至心釈で挙げたように、誠実、真実の意味がありますから、信には真と実が誠の転訓として出てくるわけです。しかし、至心と会合するために、順序をかえて真、実、誠と出されたのでしょう。

次の「満なり」といわれたのは、実から出た転訓です。『広韻』五に、実の字の訓に「満なり」といわれています。実というのは、実が一杯に詰まっていて空虚でないことを表しているからです。

「極なり」とは、『広韻』四から採られた訓であろうといわれています。香月院深励師は、『教行信証講義』六(『仏教大系』五一・二四頁)に、信楽の信の字訓は『広韻』と『礼部韻略』(『広韻』の略本)を多く用いられており、楽の字訓は『玉篇』が多く用いられているといっています。そして『広韻』四に、信を「忠信なり」といい、その忠信の註に、「また験なり、極なり、用なり、重なり、誠なり」という五訓が出されていることに注目しています。「極」は、その第二に挙げられています。この上ない究極の状況を表しているわけです。「成」は五訓のなかにもありませんが、誠の同音訓として挙げられたものでしょう。誠と成とは、もともと違った意味の言葉ですが、音が共通していることから、共通の意味を表す言葉として用いることがしばしばあります。それを音通とも、同音訓ともいうわけです。誠と成の同音訓の例としては、『楽邦文類』三(『大正蔵』四七、一八五頁)に「誠とは成なり」といわれたものがあります。この場合は、成は誠の転訓になります。ともあれ親鸞聖人は、先の極と合わせて極成という熟字を造るために、あえて信の訓として成を挙げられたものでしょう。

「用なり」は、『広韻』の忠信の五訓にありますが、また「信用」というように「信じて用いる」「信じて受け容れる」という意味があります。「重なり」というのも『広韻』の五訓のなかにあります。敬い重んじるという意味です。次の「審なり」は、信の直接の訓としてはありませんが、『広韻』二や『玉篇』には誠の字に「審なり」という訓がありますから、誠の転訓として挙げられたものでしょう。物事をはっきりと明らかに決定することです。

次の「験なり」は、『広韻』の五訓のなかにあります。明らかな証拠にしたがって考えてみることです。先の審と合わせて、審験といった場合には、「間違いないとはっきりと明らめ知ること」をいいます。.

次の「宣なり」は、どこから採られたのかわかりません。深励師は「信を真淳の韻とするときは、宣と同音になるから、同音訓として宣を挙げられた」といっています。『広韻』二に「宣とは布なり、明なり」といわれるように、「教えを宣布すること」を表しているといい、興隆師の『教行信証徴決』巻一0(『仏教大系』五一・四六頁)も同様に述べ、「明らかに仏智を信じること」といっています。「忠なり」とは、すでに述べたように、『広韻』四に信を「忠信なり」と釈したものによっています。その忠の註には「無私なり、直なり」といわれているように、まったく私心をまじえずに、素直に仕えることで、いまは、はからいなく仏にしたがう心を表しています。聖典セミナー『信の巻』より。

 


善導大師の二種深心釈に法の深心がある。

二者、決定深信、彼阿弥陀仏四十八願 摂受衆生 無疑無慮 乗彼願力 定得往生。
(二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなく、かの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。)(*)

この「摂受衆生 無疑無慮」を、阿弥陀如来が衆生を摂受することに無疑無慮であるのか、衆生が阿弥陀如来の「摂受衆生」を、疑なく慮りなく受け容れるかの二通りの読み方がある。いわゆる阿弥陀如来が因位の時、これで衆生が救われてくれるという阿弥陀如来の御信心と、衆生が領受する信心であるかの違いである。
御開山にお聞きすれば、同じことだと仰るであろう。阿弥陀如来の御信心が真実であるからこそ、それを受け容れた衆生の信心もまた真実なのである。
浄土真宗の信心という概念は、通常いわれる「信心」という言葉と意味が異なるのであるが、迷行惑信(行に迷い信に惑う)と、その本意が見えなくなるのであろう。
ましてや、なんまんだぶを称えていることが、如来の救済が身の上で顕現しているということにおいては、なおさら理解不能であるやも知れんな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

称えるままに本願を聞く

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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御開山は、浄土真宗のご法義の宗・体を、

如来の本願を説きて経の致とす、すなはち仏の名号をもつて経のとするなり。(*)

と、本願為宗・名号為体を示して下さってある。
その体(本体)である名号を称え聞くことが、本願を聞くということであり「聞即信」といならわしてきた。称える名号が、如来の信となって届いているということである。
いま、江戸期の名僧、香樹院師(1772-1856)の語録、『香樹院講師語録』から、その一端を窺ってみよう。
なお、原文は「称えるままに本願を聞く」 にあるのだが、現代語の梯實圓和上の『妙好人のことば』が判りやすいので、この本から引用する。


 

江州の木之本のあたりに住んでいた禅僧の弘海は、長年にわたって禅の修業にいそしんでいましたが、どうしても悟りの境地にいたれず、悩んでいたとき、たまたま長浜御坊で香樹院の法話をきき、浄土真宗の教えに帰依し、念仏もうす身になったそうです。
しかし念仏には心ひかれながらもどうしてもしっくりと如来のみ心が領解できず、思いわずらって香樹院にたずねますと、「おみのりを、たえまなく聞け」と教えられました。

「それはまことに結構ですが、法縁は、いつもあるというものではございません。御法話のないときはどうすればいいのですか」
とたずねると、師は、
「何という愚かなことをいうぞ、法話のないときは、いままで聞いたことを思いおこして味わえ。法話を聞いているときだけが聞法ではないぞ」
とさとされたということです。またあるとき、
「そなたは幸いにお聖教の読める目をもっているのだから、つねにお聖教を拝見しなされ、それが聞法じゃ。またもし世間のことにかかわって、お聖教を拝見できないときには、口につねに南無阿弥陀仏と称えなされ、これまた法を聞くことじゃ。このように心得て、志をはげましよくよく聞きなされ。信をうるご縁は、聞思にかぎる」
といわれました。そのとき弘海は、
「法話を聞くことと、お聖教を朗読して、わが耳に聞くことが聞法であるということはわかりますが、わが称える念仏が聞怯だというのは、どういうことでしょうか。わが称えて、わが声を聞くことでございますか」
とたずねたところ、香樹院は大喝していわく、
「なにをいうか。わが称える念仏というものがどこにあるか。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみ心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか」

この一言が弘海の心肝に徹し、はっと心が開けました。そのときのことを弘海は、こう語っています。

「ああ、そうであったか。『大経』の重誓偈に、『われ仏道を成るにいたりて、名声十方に超えん、究寛して聞こゆるところなくば、誓いて正覚を成らじ』(*)と誓われたのはこのこころであったか。いま私に名号を称えさせて、聞かしめておられるのは、必ずたすける阿弥陀仏のいますことを信ぜしめる御心であったのだ。いままで法を聞くといえばただ法話を聞くことだと思っていたのは大きなあやまりであったと恥じいりました」

それからのち、弘海は、法話のないときはつねにお聖教を拝読し、またつねにお念仏を拝聴し、いま称える念仏には、御あるじありて、称えさせたまふなり。しかれば、ただ称えさせるを詮としたまはず、称えさせたまふは、助けたまはんために、一声をも称えさせてくださるるよ。
と思いとらせていただく身になったといわれております。『妙好人のことば』P.203


原口針水和上は、

われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀仏
つれてゆくぞの親のよびごえ

と、口称のなんまんだぶを示して下さってある。安心も信心も聴くひとつの、なんまんだぶに仕上げて下さったのを、御本願というのである。
松の小枝が揺れるから風が吹くのではない。風が吹くから松の小枝が動くのである。なんまんだぶを称えて聞いていること、これが御本願のはたらいている証拠である。 ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

選択本願の継承

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土真宗では「信別開」(しんべっかい)という言葉がある。
これは御開山の主著を『教行証文類』とされ、教・行・証の三法だてになっているが、その内容は、教・行・信・証と四法だてになっている事に由来するのであろう。
つまり、行から信を開いておられるから「信別開」という。よく阿弥陀さまを信じるというが、このような表現は阿弥陀さまが判らなければどうしようもない。仏々想念という言葉があるが、まさに仏を知ろしめすのは仏のみである。真如法性といわれるような阿弥陀さまは、理解できるのはずがない。この覚りの世界と救済を告げる言葉が、口に称えられ耳に聞こえて下さる、なんまんだぶである。この、なんまんだぶを往生の正業と受け容れることを、浄土真宗では御信心というのである。
よく、法然聖人は行を、親鸞聖人は信を顕して下さったというが、どちらも、行(称名)と信(信心)を言われているのであって、行を離れた信も無ければ、信を離れた行も無いというのが両聖人のお示しである。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であり、阿弥陀如来が、本願によって念仏一行を選択して下さったという意の書物である。これを受けられた御開山が、行から信を開いて下さったのが本願力回向の行信であった。
いま、梯實圓和上の名著、『法然教学の研究』からこの「選択本願の継承」について少しく窺ってみよう。なお、漢文の読み下しについては林遊が付したものであって原著にはない、また、(*)には原典へのリンクがしてある、為念。

このような曇鸞教学と同時に、親鸞の本願力回向説を内面から支えていたのは、上述のような法然の選択本願念仏の教説、特に第十七願に注目されたそれであったといえよう。
念仏はただ選択されただけではなく、第十七願に誓われたように諸仏の教説をとおして衆生に教示し、施与されるのである。これによって衆生のうえにとどくのであるとすれば、念仏はまさに選択回向の行法であるといわねばならない。このような諸仏による行法回施のありさまを詳説されたのが「行文類」であり、そこに示される仏祖の引文であった。
「行文類」の顕真実行の引文は『選択集』で結ばれる。そこには『選択集』の題号と撰号と標宗の十四文字と、それに三選の文八十一字が引かれたあと、上来所引の七高僧をはじめ、各宗の祖師たちの顕真実行の全文を結ぶ意味をこめて、

明知 是非凡聖自力之行。故名不回向之行也。大小聖人・重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏<あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(*)

といわれている。凡聖逆謗のすべてを平等に救うて成仏せしめる選択本願念仏は、自力回向の行ではないから、衆生のがわからいえば、不回向の行である。称名していることは、行者が、みずからのはからいを捨てて、万人を平等に往生成仏せしめようとはからいたまう如来の選択の願海に帰入し、如来の御はからいに随順している相にほかならない。それゆえ衆生からいえば法然がいわれるように不回向の行であるが、そのことを如来のがわからいえば、本願力回向の行であるといわれたのが親鸞であった。
すなわち本願力回向ということは、法然が念仏は不回向行であるといわれたものをうけて展開されたものであるといえる。『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知。非凡夫回向行、是大悲回向行故、名不回向」<聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。(*)といい、「正像末和讃」に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるゝ」(*)と讃述された如くである。

『選択集』「二行章」の不回向・回向対には『玄義分』の六字釈を引証して念仏は「縦令別不用回向、自然成往生業」<たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。(*)といわれていた。すなわち名号には南無帰命の義釈として発願回向の義がそなわっているからである。
ところで法然によれば、念仏が自然に往生業となるのは、如来が往生業として選定された選択本願の道理によってである。そうすると念仏(名号)に自然に具わっている発願回向の義とは、根源的には、念仏を選択して一切衆生を往生せしめようと誓願された如来の選択の願心の上に見なければならないことになる。その意趣を見ぬかれたから親鸞は「行文類」の六字釈で「発願回向」の義を釈して、「如来已発願、回施衆生行之心也」<如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(*)といわれたのである。もちろん法然が直ちに本願力回向の行信を語られたわけではないが、そのように展開する傾向性を選択本願論のなかに充分みることができるのである。

また念仏について「利益章」に、諸行を小利有上とし、念仏を大利無上功徳と判じ、「既以一念為一無上、当知以十念為十無上……」<すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし……(*)といい、一声々々が無上功徳であると、念仏の無上功徳性を強調されている。それによって、たとえば「念仏往生要義抄」には「問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也」(*)といわれるのである。
このように一声一声が絶対無上であるような念仏は、本願の名号が信者の上に全体露現しているからであって、如来の全体が名号となり、念仏となって衆生の上に与えられているといわねばならない。実際法然は如来から衆生に向かって行徳が回向せられるという言葉を用いられることがある。『三部経大意』の次のような文がそれである。

弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずばなにおか期せむ、これによりてかの仏は、われよにこえたる願をたつとなのりたまへり。(*)

ここには衆生の帰依処となるような、如来の行の回向がいわれている。文脈からいって、法蔵所修の行徳が名号中に摂せられて、称名の体徳として回向されているという意味とみられるから、萠芽的ではあるが、本願力回向への展開契機がうかがわれる。

なお親鸞が、信心を語られるとき、その信は「如来選択の願心より発起」せるものであるといい、「選択回向之直心」といわれるように、法然の選択思想をうけて、信心の根源を如来の願心に見出し、念仏を選んで、一切衆生を救わんと思しめす如来の願心が、わが心に徹到したものが信心であると領解されていた。すでに別稿で詳述したように信心を以て涅槃の真因であるといい、信疑を以て迷と悟を分判される信疑決判も法然を伝承されたものであることはいうまでもない。さらに醍醐本『法然上人伝記』所収の「三心料簡事」によれば、

由阿弥陀仏因中真実心中 作行悪不雑之善故云真実也。其義以何得知、次釈凡所施為趣求、亦皆真実文、此以真実施者、施何者云、深心二種釈、第一罪悪生死凡夫云施此衆生也、造悪之凡夫即可由此真実之機也。<阿弥陀仏因中の真実心中、作す行こそ悪雑わらざる善なるがゆゑに真実と云に由るべし。その義なにを以て知ることを得、次の釈に「凡所施為趣求亦皆真実」文。この真実を以て施すとは何者に施すと云へば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫と云へる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべきの機なり。(*)

といい、如来が、真実心をもって成就された行のみが真実といわれるが、その「所選取之真実者、本願功徳、即正行念仏」<選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行念仏なり。(*)である。この真実なる念仏を、罪悪生死の凡夫に施されるから、衆生は、これによって、浄土を趣求していくことを善導は「所施為趣求亦皆真実」<施したまふところ趣求をなす(*)といわれたというのである。
また以下に二河譬の白道を論じて、雑行中の願生心と、専修正行の願往生心を分判し、後者は、願往生心が即願力の白道であるような信であるといわれている。これらはいずれも本願力回向の行信という言葉こそ用いられていないが、内容的には殆ど同じことがらがあらわされていたといえよう。こうして親鸞の本願力回向の教義体系は、たしかに『論註』の強い教学的影響下に形成されたものにちがいないが、信仰的には、そしてより根源的には法然の選択本願論を展開したものであったといえよう。
すなわち正確には選択本願念仏の信仰を、『論註』教学をとおして教義体系化したものが、『教行証文類』の教義体系であったというべきであろう。

なおここで注意すべきことは、親鸞の大行論は『選択集』の「二行章」をうけられたものにちがいないが、「二行章」の標章には「善導和尚立正雑二行、捨雑行帰正行之文」<善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。(*)といって正雑二行対で説かれている。従ってその内容をみると安心門(廃立門)では、雑行は勿論、助業も捨てて、称名正定業の一行が独立せしめられているが、起行門(相続門)で法義をあらわすときには助正二業が勧められている。それが「本願章」では、唯称名一行を所選の行として明かし、最後の三選の文では「称名必得生、依仏本願故」<名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(*)と安心門に立って一行専修が主張されている。
親鸞は、この三選の文意によって「行文類」では大行を一行として顕わされるのである。また「三心章」の標章には「念仏行者、必可具足三心」<念仏の行者かならず三心を具足すべき(*)といい『観経』の三心をもって信心が釈されている。しかし私釈にいたって、迷悟の決判をするときには、深心の一つにおさめて「当知生死之家、以疑為所止、涅槃之城、以信為能入」<まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)といい、信と疑をもって対決されている。親鸞は、この信を本願の信楽とおさえ、三心即一の信楽一心をもって「信文類」の大信を顕わされるのである。
すなわち五行三心(『散善義』の五正行と観経の三心のこと)という立場に対して、一行一心を、法然教学の究竟の立場として伝承されたのが『教行証文類』における行信だったといえよう。「行文類」の行一念釈において、『大経』付属の一念の当釈である一念の徧数釈のほかに、あえて行相釈を出し「一行、形无二行」<一行なり、二行なきことを形すなり(*)といい、また「信文類」には、信一念の当釈である時尅釈のほかに、信相釈をあげて「言一念者、信心无二心故曰一念、是名一心、一心則清浄報土真因也」<「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(*)といい、一行一心の義を強調される所以である。『唯信抄文意』に「教念弥陀専復専」を釈して、

選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり、復はまたといふ、かさぬといふ。しかればまた専といふは一心なれとなり。一行一心をもはらなれとなり。……この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり。(*)

といわれている。選択本願の行信とは、一心をもってはからいなく一行を修するほかにはなかったのである。『法然教学の研究』p.244より


御開山は、「真実信心必具名号」<真実の信心はかならず名号を具す。(*)>とされ、蓮如上人は「おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。」(*)、とお示しであった。明治期からのキリスト教の影響からか、信心(本来は御信心という)を強調するあまり「必定して希有の行」である名号を口にしない僧俗が増えたことは、教学育ちではなく、なんまんだぶによって育てられた林遊には歯がゆいものである。何百万、何千万の御同行が、如来回向の、なんまんだぶを称えて生死を超えてきたことを「行中摂信」(行に信を摂する)、ともいうのだが何の不足があるのであろうか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

法然聖人の立教開宗

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『拾遺漢語灯録』

又一時師語曰。我立淨土宗之元意、爲顯示凡夫往生報土也。
且如天台宗、雖許凡夫往生、其判淨土卑淺。
如法相宗、其判淨土雖亦高深不許凡夫往生。
凡諸宗所談、其趣雖異、總而論之不許凡夫往生報土。
是故、我依善導釋義、建立宗門以明凡夫生報土之義也。
然人、多誹謗云、勸進念佛往生、何必別開宗門、豈非爲勝他邪。
如此之人、未知旨也。
若不別開宗門、何顯凡夫生報土之義乎。
且夫人問所言、念佛往生是依何敎何師者既非天台・法相又非三論・華嚴、不知以何答之。
是故、依道綽・善導意、立淨土宗。全非爲勝他也。
拾遺漢語灯録

また一時、師(法然聖人)語りていわく。我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。

しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。

このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。しかるに人、多く誹謗していう、念佛往生を勧進せんに、何ぞ必ず別に宗門を開く、あに勝他の為に非ずや。このごときの人、未だ旨を知らざるなり。
もし別に宗門を開かざるんば、いかんぞ凡夫報土に生まるの義を顯わさんや。
かつそれ人の言わゆる、念佛往生これ何れの敎何れの師に依るやと、問はば、既に天台・法相に非ず、また三論・華嚴に非ず。知らず何を以ってかこれに答えん。これゆえに道綽・善導の意に依って浄土宗を立す。全く勝他の為に非ずなり。

白文ならお手上げだけど、ここは訓点があるから便利。

法然聖人は、「聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚癈にかへりて極楽にむまる」と、仰ったそうだが、林遊のような者にも仏に成る方途を明らかにして下さったのは有り難いこっちゃな。
御開山の絵像では、珠数をつまぐっておられるが、なんまんだ、なんまんだと、法然聖人のお示しの「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」を実践されておられたのだな。
このご法義を誤解する人は、阿弥陀如来に救われると思量して、具体的に声となって届いている称えられる名号による救済を知らない。そもそも真如・法性である覚りの世界を想像することさえ不可能であるにも関わらず、これを持している如来を想起し救済を妄想するから、有りもしない信心を求めて狂奔するのであろう。
今、ここに、私に、届き称えられている名号の他に浄土真宗の救いは無い。口に称えられ耳に聞こえる、なんまんだぶの他に救いがあるというなら、それは、法然・親鸞両聖人が示された、往生成仏の道ではないのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、順彼仏願故。

四句分別

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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なんまんだぶのご法義では、阿弥陀如来の本願を教えの通り受け容れることを領解(りょうげ)という。この言葉は、領解とあるように、解かるという意味を内包しているのだが、このわかるを四句分別して示す面白い文章があった。

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龍樹・親鸞ノート(三枝充悳)P.76~

念のために付言しますと、智=プラジュニャーは、通常「智慧」と訳されて、知識=ヴィジュニャーナと対応して説明がなされます。後者のほうのサンスクリットのうち、「ヴィ」は「区分する」「分割する」の意味、「ジュニャーナ」は「知」ですから、ヴィジュニャーナは、区分して行ってはっきりとわかったいわゆる分析的な知をいいます。
ふつう、わかるといいますと、
①わかったということがわかっている、
②わからないということがわかっている、
③わかったということがわからないでいる、
④わからないということもわからないでいる、
の四種に区分されますが、これらのうち、最初の①と②とが知識=ヴィジュニャーナに相当します。ところが、③と④とは、その段階では「わからないでいる」ものが、突如として、直観的に、また体験的に、あるいは綜合的に「わかる」ということがあります
通常これは「わかる」といわないで「さとる」と称します。そしてこれがまさしく般若=智慧=プラジュニャーにほかなりません。
それは上述のような性格を持っていますので、「さとった」と思ったものを、いかに分析して行っても無駄であるばかりか、かえって「さとり」から遠ざかってしまいます。よく「人生の智慧」とか「生活の智慧」とかということばが使われますが、これらは長い人生・生活の体験から、おのずと得られたものであり、ときにその内容が知識と似ている場合もあります。一方、たんなる知識は、他人から教えられたり、本で読んだりして、いわば断片的に得られたもので、体験にまではなりきっていませんから、すぐに忘れてしまいがちです。
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浄土真宗は難信の法だといわれる。
たしかに、ご法話を聴いても二階の阿弥陀さまや浄土の話をするばかりで、そこへ往くための方法がまったく説かれない。(もっとも、人間の生き方の話ばかりで、浄土や仏を話さない坊さんが多いのだが)
門徒は、いかにしたら浄土へ往けるかのノウハウの話、二階へ上がる階段の話を聞きたいのだが、そのような話はない。そして門徒は階段の下でウロウロして法話の内容がわかるとかわからないとか言いながら右往左往している。
階段というものは、一階から二階へ上がるものと見る立場では、一段一段とご法義の理解を深て二階(阿弥陀様の覚りの浄土)へ上るというプロセス経るということになる。これは、上記の①と②の立場であろう。

それに対して、階段とは二階が一階へ延長しているという見方がある。これは二階にいる人の見方である。つまり阿弥陀さまや浄土が一階にいる私のところへ、二階の延長のまま届いてくるという立場である。二階の阿弥陀さまや浄土は、あくまでも二階であるが、それが一階への延長として届くのである。阿弥陀さまと浄土が、なんまんだぶという名号になって二階から一階の私に届くのである。一階にいる私をして、なんまんだぶと称えさせ一階にいるままで、すでに二階(浄土)の延長の上にいるのだというのである。

浅原才市さんは、

ねんぶつの、ほうから、わしのこころにあたる、ねんぶつ。

と、言われたが、上記の四句分別でいえば、わかる/わからないをこえて直感的に体験的に中(あた)ったという表現であろう。上記の四句分別でいわば、③④の立場であろう。(これはもちろん覚りの話ではない)

『無量寿経』「往覲偈」には、仏の声は雷鳴がとどろくようだ、とある。

梵声猶雷震(梵声はなほ雷の震ふがごとく)

わかったとか、ありがたいという知性や感情による認識ではなく、なんと驚くべきご法義であったかと、身心を雷にうたれたような思いの表現手段が、声のなんまんだぶである。

智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

ホンコサン

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ホンコサンとは「報恩講」の越前訛りである。

この時期は、全国津々浦々、もちろん山や里の寺の浄土真宗寺院で行われるのが「報恩講」である。
親鸞聖人有縁の、二万数千ヶ寺で行われる行事であり、門徒の各家々でも行われる行事である。

そんな時期になると以下の文章を思い出すのだが、古いHPからサルベージしてみた。

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越前では秋には浄土真宗の各寺院ではホンコサン(報恩講)が行われ御開山聖人の遺徳を偲びます 。
浄土真宗の一番大切な行事は報恩講です。門徒の家々では御内仏の報恩講が営(いと)なまれます。
一年は報恩講に始まって、報恩講で終わるのです。そんな報恩講での御法話で聞いた話です。

ある寺で報恩講が行われている時に、TVが取材に来たことがありました。
東京から来た新進気鋭の教養のありそうなレポーターが、寺の本堂のばぁちゃん達に質問をします。

「きょうはよくお詣りですね。ところで今日は何をお願いしたのですか」
いかにも百姓仕事で日焼けした田舎くさいばぁちゃんは、TVのライトを浴びて恥ずかしいのか乱杭歯をむき出して照れ笑いをしながら答えます。

「いやぁ、ウラは今日はオレイトゲに詣らしてもらいました」
レポーターは何の事やらさっぱり判らない顔をして

「オレイトゲって何ですか」と聞き返します。

「オレイトゲって言うのは、お礼を遂げさしてもらうって事ですんにゃ」

と、ばぁちゃんはそんなことも知らないのかという顔をして答えます。
レポーターは判ったような判らないような顔をして

「はあそうですか、良かったですね」と答えて次のシーンになりました。

閑話休題

オレイトゲというのは「お礼を遂げる」ということなのですね。
親鸞聖人をお迎えした報恩講で、御開山さま有り難うございましたと浄土真宗のおみのり(法)に遇(あ)えた喜びのお礼を遂げるのです。

全分他力のご法義です。こちら側では何にもする事がない阿弥陀様のご法義です。信ずることもお願いすることもいらない、もうすでに私を包み込んである、広大な阿弥陀様のお慈悲の浄土真宗でしたね。

浄土があるとかないとかの話ではありませんでしたね。ただただ阿弥陀様が浄土を用意して下さって、お前はそこへ往くのだよ。
そしてやがてまた娑婆へ還ってきて、煩悩の林の中で遊ぶがごとく衆生済度をする楽しみがあるんだよと御開山さまが仰せになりますから、今年もオレイトゲの報恩講に詣るのですね。

月に人間が行く時代だからこそ、その船に乗って、「この船は壊れないだろうか、無事に帰れるだろうか、もし死んだら家族はどうなるんだろうか」と疑い深い煩悩具足の、どうしようもない愚かな私達のご法義でした。

この道に入って良かった。御開山聖人が切り拓いて下さったこの道を、愚かな原初の人間にかえり、つたない足取りのまま歩かせて頂きます。

「たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」と御開山さまの御師匠様の法然聖人も仰せになりましたね。

この道は解説する道ではありませんでした。誰に説く道でもない、私一人のために用意された本願の大道でありました。

この上は御恩報謝の楽しみ事として、せめて聴聞に励み、御開山さまのお遺し下さったお聖教を拝読させて頂きながら、おぼつかない足取りではありますがこの道を歩いてまいります。

お浄土まいりの用意は向こう側が仕上げて下さって、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」の呼び声を自分で称えながらの、御恩報謝の楽しみ事の報恩講ではありました。

往相回向の大慈より
還相回向の大悲をう
如来の回向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん
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なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

下さいますと頂きます

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日本語には主語がないという。
しかし、受動表現をすることによって、言葉の主語が転換する。

そんな主語がどちらにあるかの話を、SNSからサルベージしてみた。

深川和上の法話の一節である。

和上が入院しておられた時、いろんな方がお見舞いを持って訪問してきた。長期の入院中で暇なので礼状をしたためておられた。

この度は、結構なお見舞いを頂いてありがとうございます。

しかし、ふとご自分で思われたそうである。お前は、一万円の金が向こう側からこちら側へ頂いたのが嬉しいのか。そうではない、お見舞いを下さった人の好意が嬉しいのであろう。それならば頂きましてはおかしい。
頂いたなら主語は私である。下さったなら主語は相手側になる。
阿弥陀さまが、我汝を救うというご法義なら頂いた私に用事はない。下さった御信心を仰いでいくのがこの浄土真宗というご法義である。

とのお示しだった。

如来の御信心(菩提心)であるからこそ、浄土真宗では信心正因といういわれがあるのだが、これは難信之法ではあるな。
以下追筆。

本願成就文に、

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法
(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、すなわち一念に至るまで、至心に回向して、かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生することを得て、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)

御開山は、この文を「回向したまへり」と、敬語表現にされている。

「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

と、訓(よ)まれ、阿弥陀如来が至心を回向され、その至心を受け容れたときを信心歓喜であると仰る。至心の体は名号であるから、回向された名号を往生の業因であると受け容れ、なんまんだぶと称えるのが往生を得るということである。
『無量寿経』の当面では、衆生が至心(真実心)に回向するるという意味なのだが、御開山のおこころでは回向された如来の至心を受け取るだけだけである。 諸有衆生 聞其名号
とあるように、私の往生の業因は、如来が選択摂取された、なんまんだぶを称えることである、と聞いて受け容れたとき(信一念)私の往生は定まるのである。信心決定とは、阿弥陀如来が決定してくださった「ご信心」を受け容れるか否かなのだが、日本語の主語がどこにあるか理解できない高森会の人には理解できないだろうな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

[080907]

 

痴無明と疑無明

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慈海さん江
この間の信心の話をちょっとまとめてみました。

仏教とは智慧の宗教です。智慧とはもちろん人間の虚妄分別を超えた仏陀の覚りの世界、無分別智(般若・実智)をいいます。
覚りとは、人間の思議を超えているから言葉によって表現することは不可能です。何故なら人間は言葉によって概念を把握し分別し、生と死、愛と憎、善と悪、有と無などと分別する存在だからです。覚りの世界とはそのような対立を超えた一味平等な世界です。

で、この智慧の反対が無明です。釈尊は、人間の苦悩の根本を無明であると洞察されました。これは釈尊が苦の原因を順に分析された「十二因縁」の根本が無明であることから解かります。
仏教では智慧を光で表現します。つまり、無明(闇)の反対語である智慧を光というわけです。現代的な表現で言えば真理という言い方が親しいのかも知れません。ただ、言葉は時代によって言葉の意味内容が変遷します。また、通仏教でいう言葉と浄土門で使う言葉には意味の違いがありますから、脳内辞書を柔軟にアップデートしないと、御開山の著述されている書物は全く理解不能状態に陥ります。

さて、浄土真宗では、この無明に二つの意味を持たせます。痴無明と疑無明です。痴無明とは煩悩に覆われ真理に暗いことで、通仏教の無明と同義です。疑無明とは仏智の顕現である本願を疑って受け容れないことをいいます。なぜ疑無明が無明なのかといえば、真如(阿弥陀如来の仏智)に背いた状態ですから無明といわれるわけです。
浄土真宗でご信心を得るということは、この疑無明が晴れたことをいいます。しかし、痴無明は死ぬまで晴れることはありません。これを混同すると<絶対の幸福>などというスローガンに騙され、信と覚りを混同した変な宗教に騙されることになります(笑

この疑無明が晴れたことを、御開山は『正信念仏偈』で、

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
現代語:大智大悲の光明は、信心の行者を常に照らし護りたまう。信心の行者は、すでに生死に惑う無知の闇は破られているが、愛憎の煩悩は、雲や霧が天を覆うように、信心の天を覆っている。しかし太陽が出ているかぎり、厚い雲霧に覆われていても、地上に闇はないように、信心は煩悩を透して念仏者を導き続ける。(*)

と、讃詠されておられます。『尊号真像銘文』では、「摂取心光常照護」を、

「「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。」(*)

と、仰いますから、妄念煩悩はあっても生死に迷うことはなくなっているとされます。根本の無明はまだ残っているが、阿弥陀如来の摂取の心光は、まるで夜明けの黎明のように私を護り育てて下さり続けているのだということです。
このご法義の先達(せんだつ)は、信心の沙汰をする時には「夜明けさせてもらったか?」と、よく言っていました。阿弥陀如来の本願を疑いなく受け容れることを「夜明け」に喩えていたのですが、本願に対する疑無明が晴れたか否かを沙汰していたのでした。

帰依ということを、生の[依]る処、死の[帰]する処といいますが、浄土(覚りの世界)を目指して生きていく生き方が信心でもあるわけです。無明の闇の中で、生きる方向が解からない存在に、浄土という方向を指し示す教えが浄土真宗(浄土を真実とする宗義)です。そして、その浄土から、なんまんだぶという声になって届いているのが、私の上に顕現している浄土であり阿弥陀さまであるわけです。

(36)
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ(*)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

大悲のまなざし

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ネタ切れで、過去のSNSでの日記から転載。

記憶の底にある東井義雄先生の著作からうろ覚えで書いてみる。文中の校長先生とは東井先生のことである。

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ある中学で夏休みに水泳大会が開かれた。種目にクラス対抗リレーがあり、各クラスから選ばれた代表が出場した。
その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。からかい半分で選ばれたのである。だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、野次った。

その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。
校長先生である。 校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。
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これを原案にして中学生日記というNHKのドラマで放映され事があった。全員ゴールしているのに、アンカーになった障害者であるA子さんが、一人だけパタン、パタンと変な泳ぎ方でプールを泳ぐ。

いじめた奴を殴り倒し糾弾するのは簡単だ。
水泳のレースを即座に中止する事も簡単だ。
でも、A子さんはA子さんの境遇の中で生きていくしか道はないのだ。誰も代わることの出来ない生を生きているのだから代わりはない。
頑張ってくれ、お前に与えられた人生を生きてくれ、仏さまは、そう言いながら私の人生を泣きながら荘厳して下さっているのかも知れん。

なんまんだぶつは、仏さまを讃嘆すると同時に、仏様が林遊を、なんまんだぶつと荘厳して下さる言葉かも知れんな、ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……