白道のこと

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浄土門の門徒にとっておなじみの二河譬白道がある。善導大師の『観経疏』に説かれる火の河と水の河の間の細くて一筋の白い道を歩む念仏の行者の話である。
これは釈尊の発遣と阿弥陀如来の招喚を喩えた話であるが、この譬喩に全分他力の本願力の道と、雑行雑種の自らの善を回向しなければならない二種があると見られたのが法然聖人の醍醐本『三心料簡事』であった。
この書は大正6年に京都醍醐三宝院で発見された書である。

さて、『教行証文類』で引文されるこの譬喩を求道のプロセスとして説く善を奨める団体があるらしい。この団体の教祖は『観経疏』も『教行証文類』も読んだ事がないとネットで揶揄されているのだが、この教団からの脱会者が語る教義を仄聞するに三願転入というプロセスを説くとのことだ。
このプロセスを説くことは、ある意味で理解できるのであるが、この教団では「一切衆生 必落無間」と死後の恐怖を煽り、その恐怖から逃れる為に信心決定という絶対の幸福なるものの獲得を煽動するのである。その絶対の幸福という妄想を彼の教団では「善のすすめ」と称して金銭を集め、教団維持と教祖一族の栄耀栄華の資としている。本物を知らない人は偽物に騙されるのは古今東西にあることだが、「真仏土文類」の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮から真に入ると教えているに至っては噴飯物である。仮はどれだけ経っても仮である。

そのようなわけで、仮の白道の譬喩と真のご法義による譬喩の領解の違いを、『三心料簡事』を元に梯實圓和上のお示しに窺ってみる。

回向発願心釈

第一釈

「三には回向発願心」と。 「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。(化巻で引文)

第二釈

また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。(信巻で回向の主体を如来として引文)

{中略}

二河白道譬喩

二河白道

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。
何者かこれなるや。 たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。
まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。
「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。 二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。
あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。 これはこれ喩へなり。

「合喩」
次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。
「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。 「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。 「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。 「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。 すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。 善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。
また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。 「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。 すなはちこれを声のごとしと喩ふ。
「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。 「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。
http://wikidharma.org/4b9b14cfc63c0


醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事に「白道事」という一節がある。

白道事、雑行中願往生心、白道 為貪瞋水火披損、以何得知、釈云 廻諸行業直向西方也云云。諸行往生願生心白道聞。次専修正行願生心名願力道、以何得知、仰蒙釈迦発遺指南(向?)、西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河、念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文、已下文是也。
正行者、乗願力道故、念不貪瞋水火損害、是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火難云云。合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云云。専修正行人不可恐貪瞋煩悩也。乗本願力白道、豈容被損火焔水波哉云云。

読下(林遊):
白道の事、雑行の中の願往生心は、白道なれども貪瞋水火のために損(ソコナイ)を披る。
何を以って知ることを得る。釈に「諸(モロモロ)の行業を回(向)して直ちに西方へ向かう」と釈すなりと云々。諸行往生の願生の心の白道と聞きたり。
次に専修正行の願生心のことをば願力の道と名づく。何を以って知ることを得る。
「仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得」已下(以下)の文是なり。
正行の者は願力の道に乗ずるゆえに、貪瞋水火の損ずる害を受けず。是を以って譬喩の中に云う。
西岸の上に人ありて喚ばひて言はく、汝一心正念にしてただちに来れ。 我能く汝を護らん。 衆(スベテ)水火の難に堕することを畏れざれと云々。
合喩の中に云く、西岸上に人有りて喚ひて言くとは、すなわち弥陀の願意に喩う也と云々。
専修正行の人は貪瞋煩悩を恐るべからず也。本願力の白道に乗ぜり。
豈に(ドウシテ)火焔水波に損ぜられべけんやと云々

これによれば、法然は『観経疏』の廻向発願心釈に、雑行と組みあった諸行往生の願生心と、専修正行の願生心とが釈されているとみられていたことがわかる。すなわち二河譬のなかに白道を合法して「喩衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心也」(衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふなり)といわれているが、この白道たる願生心のなかに、貪瞋水火のために損ぜられるものと、損ぜられないものとがある。

疏に「水波常湿道者、即喩愛心常起能染汚善心也、又火焔常焼道者、即喩瞋嫌之心能焼功徳之法財也」(水波つねに道を湿すといふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また火炎つねに道を焼くといふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふなりなり)といわれたものが前者である。この善心、功徳の法財を廻向して浄土に往生しようと願うことを、以下に「喩廻諸行業直向西方也」(もろもろの行業を廻してただちに西方に向かふに喩ふなり)といわれたのであって、これは、諸行往生の願生心をあらわしたものである。そしてこれは明らかに前述の廻向発願心の第一釈の善根廻向の願生心と対応しているといえよう。

次に疏に「仰蒙釈迦発遺指向西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国」(仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得)といわれたものは、後者、すなわち専修正行の願生心をあらわしている。

ここでは白道を彼願力之道といわれている。すなわち願力の道が、清浄願往生心であるようなものが専修正行、すなわち本願念仏の願生心なのである。けだし釈尊の発遺と、「汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火之難」(なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ)という本願の招喚に信順して、本願力の白道に乗じて願生するものは、如来の本願が、行者の願往生心となっていくいわれがあるのである。

衆生の貪瞋煩悩中に、煩悩に汚されざる清浄なる願往生心が生じたといい、火焔にも水波にも損われざる白道であるといわれる所以である。それゆえ専修正行の人は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

このようにみていけば、諸行往生の願生心は破損するが、専修正行の願往生心は破損することなく金剛堅固であるといわねばならない。疏の廻願心の第二釈において作得生想の願生心を「此心深信由若金剛、不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊」(この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず)といわれたのも、この心が、如来の本願を体としているものだからである。

親鸞が第二釈の文を「又廻向発願(願)生者、必須決定真実心中廻向願、作得生想」(また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ)と訓読し、如来廻向の願生心とみられたのも、法然のこの釈意を展開されたものといえよう。
『法然教学の研究』(梯實圓)P.304~


ここから本文
二河白道の譬喩は、『観経疏』回向発願心釈にある有名な譬喩である。

この回向発願心は二重構造をしていると見られたのが法然聖人と親鸞聖人であった。

回向発願心釈の第一釈では、過去現在のあらゆる善根を回向せよとある。
そして、その所修の善根をを、ことごとくみな真実の深信の心中に回向することで浄土へ生まれると願えとある。

第二釈には、決定真実心をもって回向し、「作得生想」(得生の想をなすべし)とあり、この金剛のような信を持つことによって、他力の教えと異なる人たちによって信心が乱されることはないとある。

この回向する決定真実心を阿弥陀如来の真実の心と解し、如来より回向される真実の心をもちいて往生できると思えという意味に取られたのが親鸞聖人であった。
ゆえに、回向しなければならない善を説く回向発願心釈の第一釈は『教行証文類』の真実の信を顕す「信巻」では引文されておられない。浄土真宗は行者からは不回向の法であるからである。

そして、第二釈の漢字の訓点を、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想をなせ。」と、阿弥陀如来から回向された真実心をもちいるとされている。
須という漢字を「すべからく~すべし」と読まずに、必須と熟されるように「須いる」と読まれたのである。

このように引文されたことから窺えることは、親鸞聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解されたからであろう。
ゆえに、火焔や水波に破壊される自力諸行の回向発願心を顕わす第一釈は、真実を表す「信巻」ではなく、「化身土巻」で引文されておられるのである。

このことは『二巻鈔』の、

「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
二巻鈔

で、白道中に、「六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり」があると示されていることから窺えるのである。

なお、釈尊の発遣を順とされ阿弥陀如来の招喚を信とされ、これを「信順」とされていることは、『二巻鈔』の

【83】 「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、順なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、信なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。
二巻鈔

から判る。このことから、

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

という「清浄の願往生心」は、「かの願力の道に乗」じた願生心であって、火焔にも水波にも損われない信順であるといわれるのである。これが「衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」といわれる、本願力に信順する願往生の信心である。
このように「かの願力の道」の本願力が行者に届いている姿が願往生心の信心であるから、信心の体は本願力なのである。
それゆえ正行のなんまんだぶの行者は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

それを端的に『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
[一念多念証文]

と、述べておられるのがそれである。

二河譬の白道を、まるで求道のプロセスであるかのように説く人がいるが、『教行証文類』で説かれる白道の譬喩は本願力回向を顕わしているのであって、求道のプロセスを顕わしているのではないことが、これでよく判るであろう。
真実の求道は因位の阿弥陀如来がなされたのであって、末世の愚劣な凡夫が口にするような言葉ではないのである。

電車間違えた

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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幸福行き大阪駅で東京行きの電車に乗ろうとして、福岡行きの電車に乗ってしまったら悲惨である。
途中で間違いに気が付かないと、時間が経てば経つほど目的地の東京が遠くなる。
しかし、東京へ行くためには、必ず福岡行きの電車に乗る必要があるという人がいる。

TS会の会長であるT氏である。
T氏が駅にやってきた。
ホームへ出てみたら上り「報土行」の線路と下り「化土行」の線路がある。
目的地は上り線の報土なのだが、なぜ上り線と下り線の線路があるのだろうとT氏は考えた。
上りの線路だけでよいのに下りの化土行きの線路があるには、きっと意味があるはずだ。
上りの線路だけで良いならば、下りの線路があるはずがない。

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」『文証で破る』p16より

という論理である。

さて、T会長は駅のホームで叫ぶのである。
報土へ行きたいなら「化土行」の電車に乗ろう、「化土行」の電車に乗ることこそが報土へ行く早道なのだ。
絶対の幸福とは方便の彼方にあるのだ。方便があってこその報土だ。
方便の善を積まずにどうして善が不要であるという真実の報土へ行くことが出来るか、無駄な線路がある筈がないではないか、と。

通常の思考の人間ならこんな戯言は聞かないのだが、時々人の言葉を真に受ける真面目な人が存在する。
このような人は、T氏に騙され「絶対の幸福」行きの列車と思い込み「化土行」の電車に乗るのである。

しかし、途中でひょっとして間違っているのではないか、と思うのだが周囲の誰も言い出さない。しかたがないので、乗客(会員)は報土行きの列車であると必死に思い込もうとする。
なにせ蓮如上人以来の偉い善知識さまであるから、疑問を抱くことは謗法である、と進んで思考停止状態になる。

たまに間違いに気付いて列車を乗り換える(真実へ転入する)人が出てくる。
すると、全員で降りた人を地獄行きとか謗法罪と罵って残った乗客の団結を固めようとする。列車内では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと煽られ所持金と貴重な時間を吸い取られる。
「善に励んだら善が出来ないと知らされる」という名の電車そのものが間違っているのだが、乗客は「ゆで蛙症候群」に陥って、深い御心で茹であげられていく。

もっともっとと励んで、修諸功徳の電車の果てである行き着く先は臨終である。ここで積んできた善の真価が問われる。
第十九の発菩提心と修諸功徳に合致しているかいないかの判定である。
「寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」の第十九願であるから、臨終に阿弥陀如来の来迎がなかった場合は、全ての修善行為は失敗であり、やり直しであって化土までも往生できない。善因善果・悪因悪果の自業自得の因果論に迷い善悪を超えた阿弥陀如来の仏智不思議を疑い「造毒の善」を励んできた結果である。

かくて、化土行きの列車に乗っている時間が長ければ長いほど、真実の浄土(大願清浄の報土)への距離は開いていくばかりである。
(乗ってる電車が違うのにねえ)

ちなみに、T氏の主張、

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」

この主張は第十八願を謗法しているのだがT氏は気付いていない。
『歎異抄』に、

「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。

とある。

『無量寿経』に「難中之難無過此難」とあり、阿弥陀経』には「難信之法」とある。
この難は、衆生に善が出来るという自力根性によって本願力を疑う衆生側の<難>を指すのである。

T氏は「難中の難事」と、弥陀の救済力を難事であると言っている。
これは第十八願の十方衆生一切を救うという本願力を疑い謗法している立場だ。「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか」このような誹謗を吐くのであろうか。

『浄土論』荘厳不虚作住持功徳成就には、

なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。
{中略}
いふところの「不虚作住持」とは、本(もと)法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然な らず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」と いふ。
[註釈版聖典七祖篇p.130]

親鸞聖人は、この句を喜ばれ、和讃(やわらげほめ)されている。

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

T氏は、ひとり第十八願の念仏往生の願だけが成就していないというのであろうか。
善の奨めは、実は善を出来ない人を排除している論理なのだが、病院のベッドでなんまんだぶつを称えているばあちゃんには阿弥陀如来の救済力は届いていないというのであろうか。
このような善を強制するT氏の立場こそ、善悪を超えて衆生を救済する、阿弥陀如来の本願力を疑う誹謗正法であると言わずして何と言うのであろうか。
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雑毒の善

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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TS会では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと教えているそうである。
善とは何か、という定義をしないで善を奨めるから会員は指示された「人集め・金集め」が善だと思い込んでしまう。

さて、浄土真宗でいう善とはなにか。

TS会が善の出拠とする『観無量寿経』では、

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
[註釈版聖典p.108]

と、ある。

これは古来から略観経とよばれ「具三心者 必生彼国」(三心を具するものは、かならずかの国に生ず。)の「必」に浄土願生者が深い関心を持って来たところである。

さて、善導大師は『観経疏』至誠心釈下で次のように仰っている。

「『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。 」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

これによれば真実とは、外に賢善精進の相(すがた)を現わし、内心に虚仮の思い(煩悩)を懐いてはならないとされる。
心の内の思いと外にあらわしている状態とが一致していてこそ、真実の善が行えるというのである。

まず、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒煩悩を無くせ。そしてその煩悩をなくした状態を行動にあらわせとされる。
だから内に煩悩を持っていて、些細な事で腹を立てたり、欲をおこしたり、そして自分本位のものの考え方をしたり、そういう根性を内に持っていて、そして外にだけ賢者のように振る舞ってもそれはダメだ、内も外もぴったり一致した、まことの心を持てというのが至誠心であるといわれる。

その至誠心によらずに行われた「善」は、全て造毒の善(毒の雑わった善を造る)であり、雑毒の善では浄土へ往生することは不可であるといわれている。

「なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

何故ならば、因位の法蔵菩薩が修行した善行は、一念一刹那の身口意の修行も全て真実心でなされたからであり、これに相応する真実の善行でなければならないからとされるのである。
これが真実の善であり、それ以外の善は「造毒の善」、つまり毒(悪)を造る善とされる。

TS会では、この善導大師の「至誠心」釈を、会員に奨める善の根拠としている事は以下のHPで明かである。

高森親鸞会のHP
魚拓

TS会は「善をすると善ができない自分が知らされる」とか「実地に善をやって見なければ知らされない」などと教えるが、真実の善とは何か分かっているのであろうか。やってみなくても判りそうなものだ。

阿弥陀如来の因位であった法蔵菩薩と同じような善行以外は、「三業を起すといへども名づけて雑毒の善」であり「虚仮の行」であると善導大師は仰るのだが、TS会ではこの法蔵菩薩と同じ善を会員に奨めているのである。

衆生が一念一刹那も真実の善が出来ないからこそ大悲の本願(十八願:念仏往生の願)が建立されたのであるが、TS会の会員は会の奨める造毒の善を修して、阿弥陀如来に成ろうとしているのであろうか。

TS会の「善をしなければ信仰は進みません」や「諸善は獲信とよい関係にある」という善の奨めの主張が非難されるのは、善に執着してしまう人々を作り出してしまうという事にある。

それは「信罪福心」に執着する心を増長させ、会員を真実のご法義から遠ざける行為だからである。
信罪福心の罪福とは因に返せば、善と悪である。
因→果
悪→罪
善→福
自らが行った善と悪に執着して、善悪の因果を超えた阿弥陀如来の仏智を疑う心が、己の罪福を信じる信罪福心である。
TS会では幼稚な因果の道理を説き、会員には善因善果 悪因悪果と自己の修した造毒の善因を信じ込ませ、因果を超えた仏智を信じる道を妨げているのである。

『無量寿経』智慧段では、釈尊がこの信罪福心を戒められている。

仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
[註釈版聖典p.76]

現代語:
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

親鸞聖人は、晩年この信罪福心に高い関心を持たれた。
85歳以降とされる『誡疑讃』では、この信罪福心を戒められ末尾には、

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
[註釈版聖典p.610]
とされ、自己の修した善を信じ、善因善果 悪因悪果 自因自果の因果に縛られ、因果を超えた仏智を疑う事を厳しく戒められている。

TS会会長はかって以下のように説いていたそうである。

「顕正」
常に虎の説法124P

「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って、十八願の願意である、信心正因称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。ーー
手本はいかに信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。ーー
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて、信心を得る方法に称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなけらばならないである。

真仮廃立128P
「廃立とは、廃は捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、捨てものであり、廻向せられるものは名号六字である」

しかるに、正本堂を建てる金集めと自身の名利栄達のためであろうか、幼稚な因果の道理を説き、会員を善の求道地獄に陥れている。
彼もかっては熱狂的に法を求めた事があり、まともな説教をしていた時期もあるのであろう。たとえそれが狂信的であろうとも、十八願の法の真実を求めた時期もあったのであろう。
しかし歳月は、彼を宗教を食い物にする一介の宗教ビジネス屋に仕立て上げてしまった。

あはれといいふもなかなかおろかなり、ではある。

参照:親鸞聖人の至誠心釈

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝

従仮入真

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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TS会では「従仮入真」を、「仮よりしか真に入れない」と教えているようである。(*従は助辞で~より、ということ)「参照

はじめは何を言っているのか意味が判らなかったのだが、どうやら「従真垂仮」と「従仮入真」を間違って使っているらしい。

従真垂仮:真より仮を垂れる(暫用の意味:しばらくもちいる)
未熟の機の為に真(実)より仮(方便)を垂れること。

従仮入真:仮より真へ入れる(還廃の意味:かえりてはいす)
仮にいる者を仮(方便)より真(実)に入らしめること。

用例:
従真垂仮して従仮入真せしめる。

どうしても人を、程度の低い善の奨めへ誘いたいなら「従真垂仮」を使うべきなのだが、宗学用語もまともに理解していないから無理だろうな。

ちなみに本願は18願・19願・20願の次第になっている。
これは真実の18願から19願・20願へと、真(18願)より仮(19・20願)を垂れるという構造をとっている(従真垂仮)。
真実なる18願が仮なるものとして程度を落として、権法(かりのほう)を説くという漸教の教育の方法である。
漸教であるから結果が何時になるか分からない法である。(この意味では「10年や20年で判るものではない」というTS会会長の発言は正しい(笑。)
これを、従真垂仮といい、方便として暫らく用いるから暫用という。

そして、現在、仮にいる者に、仮を捨てて真へ入れというのが、仮より真へ入らしめる「従仮入真」という宗学用語である。
これは、従仮入真といって真実に還ったら方便である仮を廃するから還廃という。
これは頓教なので、今晩聴いて今晩助かる法である。

というわけで、TS会が主張している「従仮入真」の真の意味は、早く方便の教えを説くTS会を止めて、真実のご法義に帰しなさいという意味である(笑

18願の教えさえ説いておれば良いのです。

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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なんのこっちゃという事で、ちょっと書いておく。

> 結論からいえば、仏教は「対機説法」ですから、誰に対しても同じように18願の教えさえ説いておれば良いという考えは間違いです。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-355.html

これは仏の説法について語っているのか清森氏自身について言っているのか不明だが、ご当流は「18願の教えさえ説いておれば良い」のである。
浄土真宗の「真」とは仮に対し偽に対する言葉であることが分からないから、上記のような発想になるのであろうか。
それとも自らが仏と同じように「対機説法」が出来ると思いあがっているのであろうか。

『正信念仏偈』に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)とあるように、本願を以って宗と為(本願為宗)すのが浄土真宗である。そして、その体は名号である(名号為体)。「教文類」
http://wikidharma.org/4abd9e917a5df

『正信念仏偈』の「唯説弥陀本願海」とは、阿弥陀仏の四十八願海のことであり、別しては生因三願のことである。究極的には十八願のご法義の事である。
さて、生因三願とは、十八願・十九願・二十願をいうが、その願海に真・仮があると親鸞聖人は言われる。

「真仮対弁」
「しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。{中略}すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」
http://wikidharma.org/4aeed4d670688
真実の教・行・信・証を説かれ、その淵源である真仏土巻の末尾で、願海に真・仮ありと対弁されておられる。
そして、「化身土」を説くのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」ることがないよう「仮の仏土とは、下にありて知るべし」と化身土を顕わす理由を述べておられる。

真とは真実のことで、真実は、偽と仮に対しているといわれる。
「真仏弟子釈」
「真の言は偽に対し仮に対するなり」
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf
ただ単に「真実」を真実とするのではなく、真実とは、偽と仮に対しているから真実ということが言えるのだとされる。

「仮」とは方便という意味であり、第十九願・第二十願がそれである。
ここでの方便は善巧方便ではなく、権仮方便であって簡非(真仮廃立)するものである。

『浄土和讃』
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
http://wikidharma.org/4ad5c0bab8f33

「仮門」とは、
『愚禿鈔』に依れば、
「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。 」
http://wikidharma.org/4b90b7e2ca00b
阿弥陀如来の選択本願(十八願)以外の、浄土門の教(十九願・二十願)は浄土「回向」「発願」自力方便であり、仮門であるとされる。(回向は二十願の至心回向、発願は十九願の至心発願のこと)
なお、この「選択本願」という標挙は「大信釈」、
「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。」
http://wikidharma.org/4b90be0cb120a
にあり、第十八願のことであるのは言うまでもない。

「権実真仮」とは、
『六要鈔』には、「真実というは、これ仮権に対す」とある。
権は実に対し、真は仮に対する語であるから、仮と権は真実の反対という言葉である。
権←→実・真←→仮のように相反する概念なのである。
つまり、権を廃して実を取り、仮を棄てて真を選び、第十八願だけが真であり実ということである。

浄土真宗のご法義を聴く人は教学や論理を聞きたいのではなく、自らが救われる<真実の法>を聞きたいのである。
救いの法が自己に先行して、名号法として届けられており、それを受け入れ称えることが「念仏成仏これ真宗」という阿弥陀如来の第十八願の真実のご法義である。

これ以外の何を説き、何を「対機説法」として語ろうとしているのか。
謎である(笑

この記事のみ反論用にTBのみ受け付けておこう。

二双四重の教判

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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二双四重

仏教にはすべからく「教相判釈」といって、経典をその形式・内容などによって分類・体系化し、価値を判定して仏の究極の教えがどれであるかを解釈することが最重要である。「教相判釈」がなければ、何を信じ何を行ずるかが解からないからである。

親鸞聖人には別掲の「二双四重」の教判がある。全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を組み合わせた教判である。
竪の聖道門に成仏の遅速に応じて漸教と頓教を分けられ、竪出、竪超とされる。

横の浄土門も、漸次に修行して長時間の後に仏果を得る自力の漸教と、すみやかに仏果を得る他力の頓教に分類し、横出、横超とし、二双四重の判釈をされたのである。

この二双四重の教判は、諸所で説いておられる。

「信巻末」横超釈

【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b

「化身土巻」三経通顕(真仮分判)

【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865

信巻本」菩提心釈(菩提心=信)

【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98

愚禿鈔(上)

聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a

「行文類」一乗釈では、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a

と、横超・弘願・頓教・実教である第十八願の誓願一仏乗こそが真実の仏道であるとされるのである。
しかるに、TS会では、歴劫迂回の要門・漸教(権教)の辺地・懈慢の往生を会員に勧めている。
これは、会長が『教行証文類』を読んだことがなく、他者の解説書か何かを剽窃して利己心から「教相判釈」をしているのであろうか。

親鸞聖人が畢生の力を込めて顕わされた「二双四重」の教判を歪め、利己心から勝手に教判をし悪用して会員を騙し、あまつさえ会員に真実の浄土真宗の教えである第十八願への道を遮蔽して来たのであれば、その罪は重いと言わざるを得ない。

また、昨今TS会の歪んだ教義解釈に対する批判が行われているにも関わらず、脱会せずに歪(いびつ)な教えを説く事に協力している人々も同罪であるといえよう。

外典の「論語」にも、過(あやま)ちて改めざる是(これ)を過ちという、とある。
過ちは誰でも犯しやすいものだが、過ちを過ちと知っていながら悔い改めないならば、まさに本当の過ちを犯しているのである。

米獲ろうと思たら藁まで採れた

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「信巻」(末)の現生十種の益。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

この文章は少しおかしい文章です。
通常の時系列なら、金剛の真心を獲得すれば、かならず現生に十種の益を獲て、横に五趣八難の道を超え、となる筈です。
信心→十種の益→成仏

ところが、「横に五趣八難の道を超え」と五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存状態)八難(仏に成る事が難しい八つの難)を超えて仏に成ることが先に出され、現生十種の益を後にされている。
信心→成仏→十種の益

これを昔の布教使は、米獲ろうと思たら藁まで採れた、と表現したものです。
米(成仏)を獲ることを目的としていたら、ついでに藁(十種の益)まで採れたということで、仏教は米という成仏が目的であるということです。
現生十種の益には、「十には正定聚に入る益なり」と、正定聚にいる益が説かれていますがこれは信心の利益です。
成仏が決定しているその仲間に入っているという利益のことです。

浄土真宗では「信心正因」といいますが、信心は因であって果ではありません。
果はあくまで成仏であり、信心はその果へ至る為の因であって目的ではありません。
ある団体ではこれを勘違いして、信心を獲れば全ての難が解決し(絶対の幸福)まるでさとりを得たような状態になると教えています。

親鸞聖人は、この正定聚に入っているにも関わらず、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと
http://wikidharma.org/4b8b4b1606300
と、述懐なさっておられます。

極論をすれば、信心獲得とは藁ほどの利益です。
米を獲る為に稲作をするのであって、藁を採ろうとして稲を作るならばそれはおかしいと言わざるを得ません。
しかし、ある団体では藁を採ることを前面に打ち出して米を獲ることを教えていません。

念仏成仏これ真宗であり、本願を信じ念仏を申せば仏に成るのが浄土真宗というご法義です。

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

弥勒菩薩は、五十六億七千万年後にこの娑婆世界で竜華樹の下で悟りを開いて仏に成るといわれますが、念仏の衆生は阿弥陀如来の回向された金剛心を得ているから、臨終一念にたちまち完全なさとりを開くというのが浄土真宗のご法義でした。

藁に目を眩まされるのじゃないですよ、今度というこんどは、完全なさとりを開く弥勒と同じ位にまで巻き上げられていて、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証するのですよ、というのが御開山親鸞聖人の思し召しでありましょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね

今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

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『証巻』末尾に「他利利他の深義」と親欝聖人が仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」
証巻」総結

この他利利他は『浄土論註』の「覈求其本釈(カクグゴホンシャク)」からの引文である。

「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。 もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろ しく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をも つてこれをいふ。」
覈求其本釈」

本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。
この解釈に古来から和上方が苦労されてきたところで「覈求其本釈」という。覈(まこと)に其の本を求むるにはという、其の本とは一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。
今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してみる。

>>>引用開始
親鸞聖入の他力観(p17) 梯實圓

私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。

従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念という特別の義意を表すためであった。

それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。

したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、ずなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すたわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.

それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。

この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。

仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。

利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。

後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

>>>引用終わり

他利:他利(自) 「他が自を利す」
他である仏(他)が、自である林遊(自)を利益する。

利他:(自)利他 「自が他を利す」
自である仏(自)が、他である林遊(他)を利益する。

つまり、如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは仏の方から語るので利他といわれたのである。

親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われているが、この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済することをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きをいう。

これを親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり。」と仰ったのであって、他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。
「他力釈」

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で如来の招喚、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」

を釈され、「汝」の言は行者なり、とし、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような世界をあらわしておられるのである。
http://wikidharma.org/4b7f5e427a7a3

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力とは一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B

さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。
これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」と は、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて 仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。 名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑ なり。
http://wikidharma.org/4b7620ae57020

凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、阿弥陀如来の因浄なるがゆゑに果浄なる浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。
何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私が助けられる法を聞く本願力回向のご法義であるからである。
これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのであって、私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり、であるからである。
私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、こうこうと御信心の月は照って下さるのである。

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至誠心釈

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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『教行証文類』は不思議な書物で70%くらいは経・論・釈の引文で成り立っている。

昔ネットで『教行証文類』は他者の文章を引用してあるだけだ、という非難を浴びた事があった。
たしかに他者の著作を剽窃して自己の著作のようにする某会の会長のような人もいるから、一見そのように思われるのも、むべなるかなであろう。

しかし、親鸞聖人は経・論・釈を引用ではなく引文しておられるのである。
経・論・釈の文章を引文して、その意味を全く変えてしまっておられるのであるから単なる引用ではない。
つまり、引文によって自己の領解を表現するという創作をやっておられるのである。
同じ文章でも文脈によって意味が変わるように、分引というやり方で縦横に経・論・釈引文されている。
だから『教行証文類』はめちゃくちゃ難しい書物であり、元の文章をどのように引文されているのかを見る事によって親鸞聖人のお示しを窺うのであるといわれている。

もちろん「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という実に明快なご法義であって、教学が要求されるご法義ではないのは勿論であるが、面白いHPがあったので少しく日記に書いてみる。

以下、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を見てみる事にする。

原漢文:
経云 一者至誠心 至者真 誠者実

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

ここでは、至誠心を至と誠に分けて、それぞれの意味を別の漢字で表す事によって言葉の示す意味を探求する手法をとっている。
漢字そのものは意味が多義的なため、他の用語との関連性において意味を探求しようとするのである。
至誠心が真実であるという事を、「至」とは真なり、「誠」とは実なりと定義し、真実とは何であるかを顕わそうとされる。

この部分は善導大師と親鸞聖人の間には差異はない。

つまり、至誠心の至誠とは真実であるといい、その真実とはどのようなものであるかを以下述べていくのである。

原漢文:
欲明 一切衆生 身口意業所修解行 必須真実心中作

善導大師:
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。

親鸞聖人:
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。

ここでは、「須」という漢字を親鸞聖人は「もちいる」と読まれて、善導大師の文章の当分である、身口意業の所修の解行は自らの真実心によってなすべきという意味を変えておられる。

この場合の「須ゐる」は、如来の真実心をもちいるのだ、と意味を転じておられる。

原漢文:
不得 外現賢善精進之相 内懐虚仮

善導大師:
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

親鸞聖人:
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

善導大師の文の当分は、真実とは外に賢善精進の相を現じなさい、内に虚仮の心を懐いてはならない事だという。
内と外とが相応して真実であることが真実という意味であるといわれている

しかし、親鸞聖人は真実ということは、内に虚仮を懐いている不実なものが、外に賢善精進の相を現じてはならないとされる。
内が虚仮なのに、外へ賢善な姿を顕わすな、内も外も虚仮ではないかと言われるのである。
つまり、内も外も虚仮であって真実とは自己には無い、ということをもって真実の証明をされているわけである。
真実を解釈する為に自己に真実がないという事をもって真実というのであるから、文章の意味が180度変わってくる。

では何が真実なのですか、と親鸞聖人にお聞きすれば「阿弥陀如来である」という答えが返ってくるであろう。
このような解釈が、古来から浄土真宗における真実という言葉の解釈の一端である。

善導大師の訓点(浄土真宗聖典七祖篇 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729bcce30d

御開山の訓点(浄土真宗聖典 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729f6b96b9

ところが、浄土真宗を標榜しながら、親鸞聖人の意図に背きこれと全く逆に解釈する団体がある。

高森親鸞会のHP
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm
魚拓
http://megalodon.jp/2009-1219-1226-22/www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm

>>引用開始
善導大師のご教導

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。

「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。

>>引用終了

高森氏の言葉を借りれば「あっと驚くタメゴロー」なのだが、最初このHPを見た時は驚いて吹いた。
こんなHPって、私たち高森親鸞会は『教行証文類』を読んだ事がありませんって全世界へ公表しているようなものなのだが、誰か注意する人物はいないのであろうか。

この事を指摘すれば、詭弁と弄言の好きな親鸞会では、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を引用したのであって間違ってはいない、と抗弁するであろう。

しからば、浄土真宗親鸞会という呼称を止めろと言いたい。
さしずめ、高森氏の独断の解釈に依って成り立っている団体であるから「浄土偽宗高森会」とでもすべきであろう。

豆と豆腐

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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林遊は豆と豆腐が大好きである。
特に水に漬けて置いた大豆を、醤油でカリカリになるまで煮詰めた硬い煮豆が好きなのだが、最近は歯がなくて食べられない(泣
 
豆腐は、土鍋に昆布を布いて、豆腐だけを入れる湯豆腐がいい。
熱燗でこれを肴に呑む酒は、酒の味を壊さないので格別である。
 
また、豆腐に醤油をかけて箸で細かく潰し、温かいご飯にかけて食べるのが好きなのだが、知らない人には時々怪訝な顔をされる。
そんな時は「最近は温かいご飯に、色んなものをトッピングして食べるのが流行っているそうですよ」と誤魔化している。
 
閑話休題
 
家の3000以上の聴聞をしたじいさんから聴いた話。
 
ある御法話で、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の話があった。
法話の途中で布教使が一人のばあちゃんに、
 
「おばば、摂取不捨ちゅう事が判ったか?」
 
「そら、ご院さん、豆が豆腐になったちゅう事ですがな」
 
「豆が豆腐に?、なんじゃそりゃ」
 
「あら、ご院さん知らんのですか。豆が豆腐になったら、もう二度と豆腐は豆には戻りませんがね」
 
昔は下手な布教使をぺしゃんこにする、恐ろしい門徒が沢山いたものである。
 
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
 
浄土和讃:「摂取してすてざれば」の摂取の左訓
「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」
 
の左訓、ひとたびとりて永く捨てぬなり、からの法話である。
 
林遊が豆腐を食べる時、嬉しそうににやにやしているのは、この法話を思い出している時だというのは内緒である(笑
 
極重悪人唯称仏
(極重の悪人はただ仏を称すべし)
我亦在彼摂取中
(われまたかの摂取のなかにあれども)
煩悩障眼雖不見
(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども)
大悲無倦常照我
(大悲、倦きことなくしてつにわれを照らしたまふといへり)
 
現代語訳:
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はない。
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っている。
 
なんまんだぶを称うれば、豆が豆腐になるそうな、ありがたいこっちゃナ。
 
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ