慈悲は罪悪機中に味わう

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今日の言の葉で思い出した講義録をUP

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「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへるなり」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。

これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。

ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相を信というのです。だから信というのは法が機にある相(すがた)です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。

だから信を得るといいますが、信に体はありません。信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。

「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。

だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。

これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。

「如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまえるなり」これは不思議な表現です。これはギリギリこうしか言えないのです。「如来の心に疑いがないのですか。それとも私の方に疑いがないのですか」この文章読んだらちょっと解らないでしょう。「如来の誓願に疑いがないのですか。私の心に疑いがないと言うのですか」と聞いたら「それは一つの事ではないか」と親鸞聖人は仰います。それは一つの事なのです。

如来に疑いがないという事は、私に疑いがないという事だし、私に疑いがないという事は、如来に疑いがないという事です。それが一つの事である様に法は聞けという事なのです。それが真宗の信心というものです。親鸞聖人の表現は相当に難しい。これは実に凄いギリギリの表現なのです。

私が「疑い無くなろう」なんて幾ら考えてもそれは無理です。人間の心は疑いの塊みたいなものですから、だからそんな人間の心を疑い無くしようと思ったって、それは無理というものです。死ぬまでその心の性は無くならないのです。それが人間の心の持ち前なのです。ですからどうしようもない。その自分の心をチャンと疑いのない綺麗な心にしろなんて仰ってはないのです。ですから疑いのない心というのは自分の方に見たらダメです。

それを「信は仏辺に仰げ」と言うのです。信心は仏様の側に仰ぐのだと。信心は自分の方にありながら仏のものだから信は仏辺に仰げというのです。そして反対に「慈悲は仏様の側に見るのではない」というのです。如来のお慈悲といったら仏様の方を見ようとする。だから解らなくなるのです。

よく「仏様が解りません」といいます。仏様が解らないというのは仏様の側にお慈悲を見ようとするから解らなくなるのです。お慈悲は罪悪機中に味わうのです。お慈悲を味わうのは何処で味わうのかと言うと煩悩具足の相であり、死ぬまで煩悩具足の凡夫であるという所に如来のお慈悲を味わうのです。

自分の心を見れば煩悩がよく解ります。煩悩があるという事は解るでしょう。その煩悩こそが如来様の大悲の救済の目当てなのですから、その煩悩が見えたらそれで如来の慈悲がそこに味わえる筈です。だから如来の慈悲は煩悩の中に見ていくのです。

そして信は煩悩の心の中に見ないで如来の側に仰ぐのです。これは反対なのです。普通は信心を自分の方に見て、そして慈悲を仏様の方に見ようとするでしょう。だから解らなくなるのです。昔の和上方というのは随分ご親切に仰っておられます。

断鎧師の詩だったと思うのですが「久しく妄心をせめて真心を求む」自分の迷いの心の中に信心をたずねる。しかしいつまでたっても見つからなかった。

それは丁度「断弦をせめて」この断弦というのは弦の切れたという事です。例えば弦の切れた琴を弾こうとしても弾かれません。弦の切れたバイオリンを弾いても音は出ない。ちょうど自分の妄念の心に信心をたずねてみても何の音も出て来ないという有名な詩があります。詩の正確な言葉は忘れましたがそういう内容です。

だから信心というのは自分の心にたずねるものではなくて如来の本願を聞く事です。本願には「お前を疑いなく救う」と仰っている。間違いなく救うと仰っている。その摂取決定の心を聞いたら「そうしたら私はこのまま参らせて頂く」という事になりますから、それが疑蓋雑わる事なしという事なのです。

その「疑蓋雑わる事なし」という事を信と名付けるのだ。信というのは疑蓋間雑なしという事を信というのです。疑いという蓋を機と法との間に雑えないという事を信というのだ。だから信というのは疑いのない状態です。では積極的に何があるのだというと法があるのです。本願の言葉だけがあるのです。それを信というのだ。だから信心の徳というのは何かというと本願の徳なのです。本願の徳を信心の徳というのです。
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今が目的

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深川和上はよく、今が目的と仰る。

阿弥陀様は私になんまんだぶつを称えさせて浄土へ迎えようと誓われました。

それならば、こちらは訳が解からずとも念仏を称えることが私の仏道です。今はもう弥陀の目的を生きているだけなのです。
「我々の宗教の目的は何か」ではなく、今が目的なのです。すでに弥陀の目的の中だった、これが大切です。すぐ「何のために…」と問う人がいるけれど、それは下の下です。

子供が砂場で遊んでいます。砂山をこしらえたりトンネルを作ったり壊したりして遊んでいます。
壊すなら作らなければ良いのに、意味が無いのにと思うのは傍観者の論理。砂場で遊んでいる子供にとっては砂山を作ったり壊したりするのが目的なのです。

今まさに私の五体の上に、名号功徳が合掌礼拝という姿であらわれ、称名という姿があらわれているのです。やがて息がとまったら西方極楽への往生という事実があらわれ、大般涅槃をさとるという事実があらわれ、還相の菩薩としてはたらく事があらわれます。そのことが「今」決まっているのです。

有難いお示しではある。

今現在、私が弥陀の目的の中に居るのならば、今この娑婆世界で悠然としてなんまんだぶつを称えて遊んでいれば良いのではないか。
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煩憂悩乱に泣いたり笑ったり苦しんだりしながら、ちょっぴり他者を思いやり、ほんの少しだけ、お念仏なさいませんかと人にお奨めする道もあるのだろうな。

う~ん、何が言いたいのかサッパリわからんな、まあいいや遊煩悩林現神通とあわて者の林遊の心配する事じゃないわな (笑い

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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みみず

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家内が買い物から帰ってきて

ねえ、大きいミミズが死んでるよ、
というので玄関の外まで見に行った。

コンクリートの上でどばみみずが死んでいるので、何でこんな庭の土から離れた所でミミズが死んでいるのかとあれこれ。
昨日の雨でミミズが引越しの方向を間違えたとか、鳥が咥えていたのを落としたとかミミズを見ながらの雑談。(暇ですねえ 笑い)

ふと、お聴聞で聴いた

涅槃絵に みみずは嘆く 術(すべ)知らず

という句を思い出した。

涅槃絵とは世尊がお亡くなりになるところを描写した絵で、世尊の母親である摩耶夫人から天人、羅漢、あらゆる動物や鳥、手足の無い蛇やミミズまで参集して大聖世尊がお亡くなりになることを嘆いている。

しかしミミズは世尊が今お亡くなりになるというのに、地団太踏む足も合掌する手もない。
そんなミミズの為にも、阿弥陀様は、なんまんだぶつと声になって聞こえて下さる仏様になったのだ、という話だった。

異訳大経の「蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん」*のお示しだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

馬鹿は死ななきゃなおらない

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馬鹿は死ななきゃ治らない、とか言いますが、煩悩は死なにゃあ消えん。
死なにゃあならんほどの、どうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きて行かざるを得ないのが林遊のような存在だ。
 
 「生きている限りは煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということは、煩悩具足であるという事の慚愧です。
 死んでからの話をして何になるかではない、死ななければ治らないほどの煩悩を持っていることを慚愧していくのが浄土の法門です。
それを離れたら浄土教ではありません。」と、聴かせて下さった和上様がおられた。
 
このような慚愧が、自らの内に「真/信」を求めず、浄土を「真/信」とする御法義だな。
死なにゃあ治らんほどの、どうしようもない煩悩を種として、至心 信楽 欲生我国と、摂取不捨のなんまんだぶつを称えながら生まれて来い、というのが浄土を真実とするこの御法義だ。
 
時々、我何をなすべきかと、我何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る僧俗がいるが、「信心決定後の生活が往生であり、その帰着点が成仏である」と言われる方に多そうだ (笑い
 
 煩悩よ 何かつかまにゃ さみしいか
 
なんまんだぶつが出来たから、我があんずることはない。
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信心仏教

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久しぶりに新聞を眺めていらた面白い記事を見つけた。

いわゆる平安仏教は「おがみ仏教」であり、鎌倉期の仏教は「信心仏教」だというのである。
つまり自分の外なる仏像を拝んだり祈ったりする仏教ではではなく、自己の内なる仏心/仏性に着目する「信」としての信心仏教という事を、禅門の人が書いているのである。

林遊は所謂「信心」という語が大嫌いなのであるが、仏教を自己の内面化していくという意味では何となく納得した文章だった。

浄土真宗では覚如上人以来の伝統として「信心正因 称名報恩」という枠組みで仏教を捉えるが、林遊はどうもこれが気に入らない。行のない仏教(宗教でもよい)がどこにあるのだと思うのである。
行という表現でなければ規範でもいが、規範の無い宗教などというものは存在しないのである。

規範という意味ではもう既に浄土真宗という宗教、特にご法義を「お取次ぎ」する真宗坊主の世界はアノミーの世界であると思ふ。阿弥陀様という存在は、クリスマスにプレゼントをくれる人の良いおじさんになってしまっているのが現状であろう。ご法義の世俗化ここに極まれりである。

念仏成仏 これ真宗。本願を信じ念仏すれば仏になる。なんまんだぶつのない真宗が何処にあるのかと、浄土真宗の僧侶に聞きたい気分ではある。
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表現

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表現とはネットの辞書に寄れば

内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。

という事らしいのだが林遊はこの表現という行為が苦手である。
表現したい衝動は山ほどあるのだが、外部世界へ表すことが下手である。

と、いう訳で丸は丸であり三角は三角であり四角は四角である。時々△が○や□になろうというので困った事だ。
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水馬 (みずすまし)

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方一尺の天地 水馬しきりに円をえがける
なんじ何処より来たり 何処へ旅せんとするや
へぇ 忙しいおましてなぁ (村上志染)

心を亡くした事を忙しいというらしい。