阿弥陀如来のご信心

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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浄土真宗では信心をご信心と表現することが多い。
信について、『教行証文類』「三心字訓釈」で、「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり…」とある。
これは信心とは真実など全くない衆生の側で論ずるのではなく、阿弥陀如来の信心が衆生のために恵まれることを意味している。このようなわけで如来の信心であるから「ご信心」と言い慣わしてきています。
ところが、信心というものを勘違いして、自分が思いこむ事を浄土真宗のご信心だと説く団体がある。「信巻末」の信一念釈を誤解しているのだが、このような人は「行巻」の行一念釈も知らないから、選択摂取されたお念仏を軽視するので困ったものだ。

そこで、如来の信心という梯實圓和上の講義の抜書きをUPしてみる。

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如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。

その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを雑えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。

そこで「如来の誓願疑蓋雑わることなし」故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃の真因決定という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
三心一心の問答というのは、これが言いたいのです。

「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相(*すがたのこと)を信というのです。だから信というのは法が機にある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。

信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。

「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。

しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。
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ご信心

疑いの蓋

補足:
ここは、三経通顕(真仮分判)釈についての講義の一部です。

「ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。」「註釈版p.393

ここの文章の疑蓋の蓋という漢字に「フタ」という左訓(文字の意味を示したカナ)がされていて、それについての講義から画像をUPしました。「原典版」ではp.496です。元来、疑蓋とは五蓋の欲貪蓋・瞋恚蓋・惛眠蓋・掉悔蓋・疑蓋の疑蓋のことで煩悩の異名。ゆえに通常は蓋にはカイと右訓されている。

高森親鸞会の人は「信一念釈」がお好きらしく、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「註釈版p251」

を、よく依用します。意味が判っていないのでしょうが、これは原文では、
聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也 言信心者 則本願力廻向之信心也。

ここでは聞によって信をあらわしておられるのですが、この無有疑心を『一念多念証文』では、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふ は、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり「註釈版p.678」

と、仰って、信心とは「疑ふこころのなきなり」とされています
ない状態を信心と仰っているのであって、高森親鸞会でいう、ハッキリしたとか、只の只のただじゃった、というような感情の爆発のような心のない状態を信心というのだと仰せです。

ところが、高森顕徹氏は、「無有疑心」を「疑いの無い心」が有ると思いこみ、それを信心であると思ったのが長い高森親鸞会の不幸の始まりでした。いわゆる一時の感情の爆発を信心と高森氏は錯覚してしまったのでしょう。こういう人は自分が真剣な求道をしていると思っている人に結構居ます。

「信一念釈」の一念は本願の名号を領受した初めの時間の瞬間をいうのですが、何か物柄が自分の心に出来上がったことのように領解してしまったのでしょう。

一念岩をも通すなどというように、ひたすら心に深く思いこむことを一念であり信心であると誤解した立場なのでしょう。
高森氏は軍国少年だったそうですが、一念という言葉を当時の軍国主義の影響から、一念岩をも通すのようにひたすら心に深く思いこむことと受け取ったのでしょう。「行一念釈」と「信一念釈」は不離であり古来から行信不離といわれています。

これは、私が助かる法を聴く聴き方と、私を助ける法を聴く聴き方では聞き方が違うのですが、前者の求道主義者は、一念をひたすら心に深く思いこむことと取り誤ってしまうのです。「単信無称」の観念論に陥ってしまうのです。

越前でも「信心乞食」といって、このご法義の信心を勘違いして、確かな物柄というか体験を欲しがり、聴聞に苦しんでいる人が沢山いらっしゃっいましたが、救済の法で苦しむなんて本末転倒ですね。

富士の白雪ゃ朝日で溶ける
凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
とけよとけよというよりも
晴れたお慈悲を聞きほれる

などと越前の先達は言っていましたが、私の心に着目するよりも私を助ける法に着目すべきなのです。
そして、それを聞信している相(すがた)が、このご法義の信心です。
弥勒菩薩でさえ成仏するには56億7千万年もかかるというのに、末世の凡夫が拵えた信心では往生成仏は不可能です。
「信巻」では、衆生には、「法爾として真実の信楽なし。」とされていますが、光に向かってこれを求めよというTS会はおかしい人の集団であるとしか思えません。

阿弥陀如来のご信心であるからこそ、涅槃の真因に成り得るのです。
凡夫がどのように「身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。」「至誠心釈p.455」と善導大師が仰っているように、真実(至誠心)は凡夫の側にはありえないのです。

ましてや、
・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などの雑毒の善を奨め三願転入しなければ救われないと教えるに至っては、まさに

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

現代語:
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。

ですね。

一心不乱の事

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醍醐本という法然聖人の語録がある。
漢文(日本漢文)なのでよく判らないのだが、適当に意訳してみた。

原文:
一、阿弥陀経一心不乱事
一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者機念相投必成其事。
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
故云一心不乱。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。

意訳:
『阿弥陀経』の一心不乱ということ。

一心とは何に心を一つにするかといえば、
ひとむきに念仏を申せば阿弥陀仏の心と私の心が一つになるのである。

天台の『十疑論』に、
世間で人が慕うように、
人が慕うことを受け入れる者は、
お互いの思いがあい通じ合って必ず成就するようなものである。

慕う人とは阿弥陀仏である。恋せられる者は私たちである。
すでにひとむきに阿弥陀仏はそのような心を発されたのであるから、
はやく仏のお心と一つになるべきである。
そのようなわけで、一心不乱というのである。

これはまた、自力で行うわずかな善根功徳の諸行に、心をうつさないということである。

これは、以下の『阿弥陀経』にある「一心不乱」という経文について法然聖人が述べられたものである。

>>
舎利弗若有善男子善女人聞説阿弥陀仏
執持名号若一日若二日若三日若四日若
五日若六日若七日一心不乱其人臨命終
時阿弥陀仏与諸聖衆現在其前是人終時
心不顛倒即得往生阿弥陀仏極楽国土舎
利弗我見是利故説此言若有衆生聞是説
者応当発願生彼国土

舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。
>>

一心とは、阿弥陀如来の我を思う心と、阿弥陀仏如来を念ずる我の心が一つに成ることであるといわれる。
そして、不乱とは少善根としての善根功徳の諸行に心を移して乱さないことであるとされている。
もちろん浄土門の善とは、執持名号としてのなんまんだぶを称えることであり、これが善本(善の根本)であり徳本(徳の根本)であることは当然のことである。

それにしても、阿弥陀如来が林遊を恋慕して下さるという表現は、清僧とされていた法然聖人にしては面白い表現ではある。
「われ称え、われ聞くなれど なんまんだぶつ 連れていくぞの 弥陀の呼び声」という句があったが、阿弥陀さまに恋せらるるなら、浄土へ往かにゃぁなるまいなあ、ありがたいこっちゃ。

この阿弥陀経の一段だが、じいさんの阿弥陀経のおっとめの助音をしながらばあさんが、
「なあオメ、ここ有難いな。我見是利故説此言(がけんぜりこせつしごん)、われこの利を見るがゆえに、この言を説く、と言うてなさるんやなあ。仏さまは嘘つきなさらんからなあ」
と言っていたものだった。

当時はなんのこっちゃと想っていたが、林遊が阿弥陀経を拝読するとき、この「我見是利故説此言」の八文字をゆっくり丁寧にとなえるようになったのは、ばあさんのおかげだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

おねんぶつの勧め

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『教行証文類』「行巻」には、念仏と諸善(TS会のいう善)とを比挍対論されておられる。いわゆる一乗の機教という、機と教えの対論で、どちらが勝れているかの釋である。

(98)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。
教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

(99)  また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雑毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。
聖典セミナー『教行信証』梯實圓 著
http://wikidharma.org/4af8af1a97530

『無量寿経』では易往而無人とあるが、TS会の人は善に迷って念仏を称えないから、往きやすいのに無人なんだなろうなあ。
まあ、いくら言っても聞かないTS会の会員は、もう一回りしてくるこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強

聖道門と浄土門

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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TS会の人は浄土真宗を通じてしか仏教という教えを捉えていないのでないかと思ふ。
特に講師と言われる人たちは、高森氏の歪(いびつ)な仏教理解の視点を離れて仏教というものに対して謙虚に学ぶべきだろう。

高森氏自身が聖道門仏教と浄土門仏教の綱格の違いが分からないから、TS会では聖道・浄土の教えが混じり合って、意味不明な高森教になってしまっているのである。
浄土門仏教は聖道門仏教を批判的媒介項とした仏教であって、いわば人間側の論理ではなく如来の側からの論理によって成り立っているのである。このことが理解できないから、

・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などと善という名の献金と人集めを声高に叫び、TS会の講師も高森氏の蒙昧な仏教理解に引きづられて、人生の時間を無駄にしているのであろう。
そもそも、浄土真宗のおける善とは『浄土論註』の真実功徳釈、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。『浄土論註』p.56

に、あるように、凡夫 人天の諸善、人天の果報、因も果も、すべて顛倒であり虚偽であるとされている。
たぶん、修善を奨める高森氏が、浄土門と聖道門を分判し仏教の綱格が違うのだという、道綽禅師の「聖浄二門判」を知らないからであろうと思われる。

道綽禅師の『安楽集』の「聖浄二門判」を600年後の法然聖人が、

「いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。」『選択本願念仏集』「二門章

と開顕されたのが浄土宗である。

いわゆる、全仏教を聖道門と浄土門に分判し、浄土門仏教は聖道門の論理と全く違う論理による仏教であるとされたのが法然聖人であった。
これは仏教史におけるコペルニクス的転回であって、まさに自己を中心とする世界観ではなく阿弥陀如来を中心とする世界観であった。浄土真宗ではあまり注目されていない道綽禅師だが、この「聖浄二門判」が600年後の法然聖人の琴線に触れたのである。

これを受けた親鸞聖人は、浄土真宗は人間側の論理ではなく、阿弥陀如来の側からの論理によって成り立っていると「本願力回向」という阿弥陀さまの本願のご法義を顕わして下さったのである。
廃悪修善が救済の条件であるなら、廃悪修善ができない人は救済対象ではないのか。犯してしまった悪に泣き苦悩している人は仏教では救われないのか。
このような、自業自得の因果論から、煩悩に悩み苦悩に喘ぐ凡夫に焦点を結んだのが阿弥陀如来の本願のご法義である。
自因自果の自業自得の仏教から、いわば苦悩する衆生への医療の論理で成り立っているのが浄土真宗である。

法然聖人は『選択本願念仏宗』「約対章」で、TS会の奨める雑善に約対して念仏の優位性を、

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。『選択本願念仏集』「約対章

と、示されているのもその意であり、親鸞聖人が五逆罪、謗法罪を犯した者、仏教に関心のない者に対して、

それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。『教行証文類』「逆謗摂取釈」

と、医療の論理を説かれているのもその意である。

この阿弥陀如来のご法義の対して、高森教では病気になったら、それは自因自果だからあきらめろ、善をしなかったから自業自得の当然の報いであるから地獄へ行けというのであろう。これはもう仮ですらなく善と恐怖を利用した邪義の宗教と言わねばならないのである。

葉書の法語

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葉書の法話

深川和上は毎月、朝日歌壇で採取した短歌に託したご法語を送って下さる。

今月は、

みどり児(ご)を 光背のごと 背に負いて
寒のひと日 ほのぼの 温し

に、材を採った法語であった。
この法語で思い出した和上の法話がある。

我々は48願を聞いたのはどこであったか。
それは、法蔵菩薩の背中におんぶされ、師仏である世自在王のみもとで、
この子をを仏にします、この子を必ず仏にしますと、せつせつと訴えられて建立されたのが48願であるとの仰せであった。

よくお寺で門徒が称える「讃仏偈」には、
仮令身止 諸苦毒中
我行精進 忍終不悔
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ)
現代語:
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。

と、ある。
『無量寿経』に説かれる因位の阿弥陀如来は、初めっから林遊へ回向するために48願を建立されたのである。
生きる意味も目的も絶対の幸福も知らない林遊のために、お前の死の「帰」する処は浄土である、お前の「依」って立つところも浄土であると、生と死の帰依すべき真実というものを告げて下さる。

私の誓願に間違いがないと私が安心しているのだから、お前は不安なままでいいではないか。お前の不安なままが、私が建立した浄土へ迎え取るという誓願なのだと、『無量寿経』の教説は告げて下さる。
生きることに意味があるように、死ぬ事にも意味があるとの教説である。

林遊がしっかりしているから阿弥陀如来がしっかりするのではない。阿弥陀如来がしっかりしているから、不安におののき、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩の中で、なんまんだぶと阿弥陀如来のみ名を呼び、これさえあったらなあと不安の中で安心出来る世界があるのである。

私を背負うて本願となす。如来さまの仕事だ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

田んぼでへをこく

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いね

ひえ

ひえの穂

これは越前の方言であるが、田んぼで屁をこく(する)という意味ではない。
画像をUPしたが、田の雑草に稗(ヒエ)というものがある。
このヒエを訛って「へ」と言い、田んぼへ行って稗を扱(こ)く、(抜く)という意味で、田んぼでへをこくと言う。

さて、この稗であるが、稲と同じイネ科の植物であるから画像にあるように、苗の状態では百姓であっては見分け方が難しい。
しかし、成長して大きくなれば稗は独特の穂を付けるので、見分けることが素人でも可能になる。

閑話休題

『大無量寿経』には生因三願として、18、19、20の願がある。
この願の中で阿弥陀如来のご本意の願は18願であることは曇鸞大師の『往生論註』の三願的証を見るまでもなく、浄土真宗では当たり前の事実である。

しかるに、TS会では、18願に入る為には19願に誓われた菩提心を発して、もろもろの功徳(修諸功徳=善)を修さなければならないと説く。
親鸞聖人の顕わされた『教行証文類』は、18願の真のご法義を「教行信証」という体系で説かれ、邪と仮の宗教は「化身土文類」で表しておられる。

いわゆる、教→行→信→証と、真仏土への過程を阿弥陀如来の回向法として顕わしておられるのが18願の、阿弥陀如来の本意の御法義である。
「化身土文類」では仮の宗教を説くのであるが、この化身土文類では最初に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
http://wikidharma.org/4b8e7059ea86f

と、最初に往生すべき果である化身土を出されている。

親鸞聖人が、何故このような果を先にする表現をなされたかといえば、結果を先に出すことによって、この化身土文類で説かれている19願20願の道を行くのではありませんよ、とのご注意である。

19願を修している人、20願を修している人には18願の全分他力の道は見えないのである。

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}、
http://wikidharma.org/4b8e79842b38d

と、標挙されて、19願(観経)、20願(阿弥陀経)は『大無量寿経』の教えではないとされている。
至心信楽の願  18願
至心発願の願  19願
至心回向の願  20願
と、三願の<信>を出されて、獲る結果を先に出されているのは、信は似ているようだが結果において違うのですよと、最初に往生すべき果である化身土を出されているのである。

これは、稗の話のように、因である信はよく似ているように見えるが、結果(稗の穂)を見れば違いが歴然とするのですよという、御開山の思し召しである。
化土という結果を先に出されて、この道は行くのではありませんよと仰るのが、「化身土文類」存置の理由なのだが、この仮の本願を利用して人集め金集めをする人間が現れるとは、親鸞聖人の想定外の事であろう。

仮とは、疑いによって如来の真意を領解出来ない人を、真実へ誘引するという意味も、もちろんあるのだが、所詮は偽物であるという事だ。この偽物の稲に似た稗を簡非(えらび捨てる)するのが、結果を先に示す化の浄土である「化身土文類」の説相である。

コピー&ペースト正本尊

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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偽造本尊

偽造本尊

TS会のご本尊は、貼り合わせの偽造だったのか。

親鸞聖人のご署名を真っ二つに分断するなんて酷すぎる。
愚禿と名乗られた親鸞聖人の深い御心を無視するのが、高森氏の深いみこころなのかな。
現物が手に入ったら、しかるべき処で御真蹟を精査して貰おうと思っていたけど、その必要もないか。高森氏は、まさかネットで御開山の御真蹟が公開されるとは予想してなかったんだろうな。
それにしても、昭和51年発行の親鸞会と本願寺の主張『どちらがウソか』で以下のように記述してたTS会だったのに、切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹ものだよな。
「言うまでもなく御本尊とは、読んで字の如く、根本に尊ぶべきものであり、宗教、特に仏教にとっては最も重要な意味を持つものであることは、何人も認めるところであります」(『どちらがウソか』親鸞会p5)

正本堂とか正御本尊とか変に正という事にこだわるTS会なのだが、こんなコピー&ペーストしたものを「正御本尊」と呼び、夜中に脱会者宅へ押しかけて取り返そうとするって、おかしな行為だな。偽造した本尊だと世間にばれるのが怖いから、相手の迷惑も顧みず夜中に大勢で押しかけて無理やり回収しようとしているのだろう。かまたさ~んと絶叫する女性の声が哀れだ。

TS会って、やっていい事とやっちゃいけない事の区別がついてないんだろうな。それにしても親鸞聖人の御真蹟を真っ二つに裁断するなんて、宗教者として以前に人間として有り得ない行為だよなあ。
『どちらがウソか』と他を非難する前に、偽造の偽物の本尊を会員に下付してきた罪は重いな。
もちろん、それに加担してきたTS会の幹部や講師はウソの本尊を頒布した責は当然に取るべきだなと思ふ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

果因の道理

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
1

阿弥陀如来の果が因になるのです

TS会では善因善果 悪因悪果 自因自果の因果の道理をやかましく言うらしい。これに嵌って苦しんでいる人が多いと思うのでちょっと書いてみる。

米を作る為に因である種籾を播けば、果という稲が出来る。当たり前の事である。
しかし、ちょっと待て、その種は何処から持ってきたと問えば、去年獲れた稲の種籾だと答えるであろう。
つまり、去年取れた「果」である種籾を「因」として今年の果である稲を獲るわけである。

浄土真宗では、因位の阿弥陀如来が法蔵菩薩として五劫兆載の修行の果として、衆生を救う為に全徳施名と名号になって下さったというご法義である。阿弥陀如来から言えば名号は果である。

この如来の徳であり果である名号を林遊が受け取るのを信心といい、これが往生成仏の種(因)であるというのである。

(果=因)→往生成仏の果、ということである。

果である阿弥陀如来の名号が、林遊には因となって往生成仏の果となるのである。
単純に言えば、仏願の正起本末を聞くとは、阿弥陀如来の果を聞くことであり、その果が林遊の往生成仏の因であるという事を聞くことである。

TS会では善因善果として善を奨めているが、人間の行った善は往生成仏の因にはなり得ない。「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」というような理屈は本願力回向の浄土真宗ではあり得ないのである。
人間がどのような善(因)を行っても、それは人間の世界での因果であって阿弥陀仏の世界の因果ではないからである。

『往生論註』真実功徳釈では、真実ということを以下のようにいう。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。
往生論註 p56

凡夫人天の諸善や果報は、因も果もすべて顛倒であり虚偽であるという。因位の法蔵菩薩の智慧清浄の業によって成就された浄土には、凡夫人天の善行は不実なのである。TS会のように、このような顛倒・虚偽の善を追い求めさせるような幼稚な因果論こそ、会員を虚偽の善へ向かわせて阿弥陀如来の選択された真実の道から遠ざけているのである。

浄土真宗は往生即成仏であり、仏に成る為には仏の果を用い、その果を林遊の因として仏に成るご法義である。
『尊号真像銘文』では、 安養浄土の往生の正因は念仏を本とすとある。これが仏になる種(行業)である。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
尊号真像銘文 p665

人間の種(因)ならまた人間という果を生み、仏の種(因)なら仏に成る(果)のは当然である。仏の果である種、仏の功徳の総体である名号を称えるから何の不思議もなく仏に成るのである。当たり前のことであろう。

なんか、称名正因みたいな文章になっちゃたな、まあいいか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね

藤原正遠師のご法話

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親のこころ、子のこころ
 
私は親のこころを教えて貰い、また子のこころを教えてもらって、救済されました。
親はいつも私たちに詫びつづけていらっしゃるのです。次に親はいつも私たちに頼みつづけていられるのです。また親は、いつも私たちに力づけつづけておられるのです。では親は何を私たちに詫びつづけておられるか。親は私たちに申し訳ないとおっしゃるのです。
 
貪る心のおこるのも、腹の立つのも、愚痴の心のおこるのも無理はない。
みんな私に責任のある事だから相済まぬと、頭を低うして手をついて、あやまりつづけておられるのです。
蛇は青竹で子どもになぶり殺される。無始曠劫からそうである。老猫は首をしめられて川に流され、子猫は余り多く生まれると、野辺にすてられる。
生まれ出てやっと飛べるようになった蛙は、恐ろしい蛇ににらみつけられ、その先の割れたへらへらの舌に巻き込まれ、そのまま蛇の舌に溶けてゆく。
 
私が生み出したからこそ、こんな苦労をお前らにかけるのだ。本当にお侘びの仕様もないとおろおろになって、親は私たちに侘びつづけていられるのです。そうしてまた私たちにお頼みになっているのです。
しかし苦しかろう、やるせなかろう、しかしお前に与わった道を歩いてくれ。その道を歩いてくれないと、私の国がこわれてしまうのだとおっしゃるのです。
足の裏もひどかろう。いつも土だけ踏んで、しばらくも大空に向かって大気を呼吸するひまもない。地上から一足上がったかと思うと、また次には塵芥の土の上に、すでに足の面をすりつけられている。
 
しかし足の裏よ、お前はその大地を踏みつけてくれないと、私の国が毀れるとおっしゃるのです。
松の木よ、お前も動きたかろう。しかし雨の日も嵐の日も、そのままそこに何百年も立ってもらっていないと、私の国が毀れるとおっしゃるのである。
暗い夜。星もささやいてくれない夜、心細くて夜の明けるのがどんなに待ち遠しいことだろう。
しかしその暗さの中に、じっと辛抱してくれ、頼む、とおっしゃるのです。私だけではありません。有情非情、新羅万象に向かって、親は詫びつづけまた頼みつづけていられるのです。
 
そうして今度は私たちを力づけて下さるのです。それでいいのだ、あやまちでない。罪ではない。
みんな私が頼んでしてもらった仕事だから、一切気にしないでそのままやってくれ、そのまま誰が何といっても、すべて私の仕事をしてもらっているのだから、今日までのこともまた明日のことも、何が起ころうと明るく進んでもらいたい。気にせずに行ってもらいたいと力をつけて下さるのが、親のこころであります。
 
私は殺生罪を犯しました。偸盗をいたしました。まったく五戒の破れ通しです。戒どころか一切が悪、一切が非、極重悪人です。
いやいや、そうでない。みんな私の方に責任があることだ。
ほんとうにお前にそんなに心を痛めさせて申し訳ない。みんなそのままお前の一切、悪と思っていることが、私の仕事をしてくれているのだ。
 
罪をおかせば報いが必ずくる。その報いの中で、さぞかしひどかろうが、それも私の仕事だ。
どうかそのまま、その報いの中に歩いてくれとおっしゃるのです。
そうして最後に、さびしかったら私の名前、親の名前「南無阿弥陀仏」と呼んでくれと、お頼みになるのです。
 
南無阿弥陀仏の中に、いつも私はいる。
 
南無阿弥陀仏がお前の親のふところだから、いつも私のふところに帰ってきておくれ、そうして私のふところで泣いてくれ、私のふところの中で怒ってくれ、愚痴を言ってくれ、貪瞋痴のまん中で、三毒の煩悩のくるくる舞いのまん中で私の名を呼んでくれ。
私はいつもお前を両の手で迎える、抱いてあげるとおっしゃるのであります。
 
私の親は、まあ前述のような親様であります。私はこの親の告白をきかされて、白然に親から子のこころをいただいたのであります。「わかりました。」よく親様のおっしゃることがわかりました。私はあなたからいただいたお与えのままに歩かせてもらいます。その道が蛇の道であろうが、蛙の道であろうが、松の木であろうが、もう私は文句は申しませぬ。
お与えのまま歩かせてもらいます。この決意が私の子ごころの心であります。
しかしその決意はまことに立派であったが、しかし実際の生活にぶつかると、一歩も私は私で歩けないのです。
 
しかし幸いなるかな、行き詰まり、ころび、暗闇のところには、親様の方から私の口を割って「南無阿弥陀仏」と流れて下さいまして、そうして私を摂取して下さいます。
私の胸にほのぼのと、やわらかい光、あたたかい光を与えて下さいます。障りが多ければ多いほど、み親の慈光は、私を包んで体のしこりを溶かして下さいます。心の闇を明るくして下さいます。
私の称える念仏なら取りおとすかもしれませぬ。苦しまぎれに忘れるかもしれませぬ。親から廻向のお念仏です。暗いほど灯(ともしび)は明るくなるように、私は孤独になればなるほど、お念仏はしげくあらわれてくださいます。
 
病魔が襲えば襲うほど、清水のわくようにこんこんと大悲の浄水で、体も心も洗って下さいます。
愛欲の広海に沈没して、名利の太山に迷惑し、貪愛瞑憎の雲霧、つねに私の心を閉ざします。
一秒一刻もとどまりませぬ。それにつけても、大悲心の親ごころは、影に形の添うがごとくしばらくも離れられませぬ。
 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 
ほんとうに私は、この親さまのこころにふれて、三世の業障から一時に解放されました。また閉ざされるが、いつもご廻向の念仏によって解放していただきます。
私は全く救済されたと言わねばなりませぬ。また念々救済され通しと言わねばなりませぬ。また明日も、未来永劫に救済されることに間違いないと言わねばなりませぬ。いや、救済されるもされぬもありませぬ。親心に遇い、親が私であり、私が親である。
有限が即無限、無限が即有限である。ここまで知らされますところに、言うことはなくなります。
いや、言うことはなくなりませぬ。言うことだらけであります。苦悩の有情はさらに苦悩の深まるばかりです。だから南無阿弥陀仏の名号が与えられている。
 
障り多きに徳多し。
南無阿弥陀仏。
 
煩悩を断じて言うことがなくなったのでない。
「障り多きに徳多し」の妙薬に遇って、私は言うことがなくなったのであります。
 
「おやのこころこのこころ」藤原正遠師より

白道のこと

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浄土門の門徒にとっておなじみの二河譬白道がある。善導大師の『観経疏』に説かれる火の河と水の河の間の細くて一筋の白い道を歩む念仏の行者の話である。
これは釈尊の発遣と阿弥陀如来の招喚を喩えた話であるが、この譬喩に全分他力の本願力の道と、雑行雑種の自らの善を回向しなければならない二種があると見られたのが法然聖人の醍醐本『三心料簡事』であった。
この書は大正6年に京都醍醐三宝院で発見された書である。

さて、『教行証文類』で引文されるこの譬喩を求道のプロセスとして説く善を奨める団体があるらしい。この団体の教祖は『観経疏』も『教行証文類』も読んだ事がないとネットで揶揄されているのだが、この教団からの脱会者が語る教義を仄聞するに三願転入というプロセスを説くとのことだ。
このプロセスを説くことは、ある意味で理解できるのであるが、この教団では「一切衆生 必落無間」と死後の恐怖を煽り、その恐怖から逃れる為に信心決定という絶対の幸福なるものの獲得を煽動するのである。その絶対の幸福という妄想を彼の教団では「善のすすめ」と称して金銭を集め、教団維持と教祖一族の栄耀栄華の資としている。本物を知らない人は偽物に騙されるのは古今東西にあることだが、「真仏土文類」の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮から真に入ると教えているに至っては噴飯物である。仮はどれだけ経っても仮である。

そのようなわけで、仮の白道の譬喩と真のご法義による譬喩の領解の違いを、『三心料簡事』を元に梯實圓和上のお示しに窺ってみる。

回向発願心釈

第一釈

「三には回向発願心」と。 「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。(化巻で引文)

第二釈

また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。(信巻で回向の主体を如来として引文)

{中略}

二河白道譬喩

二河白道

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。
何者かこれなるや。 たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。
まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。
「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。 二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。
あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。 これはこれ喩へなり。

「合喩」
次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。
「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。 「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。 「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。 「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。 すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。 善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。
また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。 「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。 すなはちこれを声のごとしと喩ふ。
「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。 「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。
http://wikidharma.org/4b9b14cfc63c0


醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事に「白道事」という一節がある。

白道事、雑行中願往生心、白道 為貪瞋水火披損、以何得知、釈云 廻諸行業直向西方也云云。諸行往生願生心白道聞。次専修正行願生心名願力道、以何得知、仰蒙釈迦発遺指南(向?)、西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河、念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文、已下文是也。
正行者、乗願力道故、念不貪瞋水火損害、是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火難云云。合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云云。専修正行人不可恐貪瞋煩悩也。乗本願力白道、豈容被損火焔水波哉云云。

読下(林遊):
白道の事、雑行の中の願往生心は、白道なれども貪瞋水火のために損(ソコナイ)を披る。
何を以って知ることを得る。釈に「諸(モロモロ)の行業を回(向)して直ちに西方へ向かう」と釈すなりと云々。諸行往生の願生の心の白道と聞きたり。
次に専修正行の願生心のことをば願力の道と名づく。何を以って知ることを得る。
「仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得」已下(以下)の文是なり。
正行の者は願力の道に乗ずるゆえに、貪瞋水火の損ずる害を受けず。是を以って譬喩の中に云う。
西岸の上に人ありて喚ばひて言はく、汝一心正念にしてただちに来れ。 我能く汝を護らん。 衆(スベテ)水火の難に堕することを畏れざれと云々。
合喩の中に云く、西岸上に人有りて喚ひて言くとは、すなわち弥陀の願意に喩う也と云々。
専修正行の人は貪瞋煩悩を恐るべからず也。本願力の白道に乗ぜり。
豈に(ドウシテ)火焔水波に損ぜられべけんやと云々

これによれば、法然は『観経疏』の廻向発願心釈に、雑行と組みあった諸行往生の願生心と、専修正行の願生心とが釈されているとみられていたことがわかる。すなわち二河譬のなかに白道を合法して「喩衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心也」(衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふなり)といわれているが、この白道たる願生心のなかに、貪瞋水火のために損ぜられるものと、損ぜられないものとがある。

疏に「水波常湿道者、即喩愛心常起能染汚善心也、又火焔常焼道者、即喩瞋嫌之心能焼功徳之法財也」(水波つねに道を湿すといふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また火炎つねに道を焼くといふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふなりなり)といわれたものが前者である。この善心、功徳の法財を廻向して浄土に往生しようと願うことを、以下に「喩廻諸行業直向西方也」(もろもろの行業を廻してただちに西方に向かふに喩ふなり)といわれたのであって、これは、諸行往生の願生心をあらわしたものである。そしてこれは明らかに前述の廻向発願心の第一釈の善根廻向の願生心と対応しているといえよう。

次に疏に「仰蒙釈迦発遺指向西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国」(仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得)といわれたものは、後者、すなわち専修正行の願生心をあらわしている。

ここでは白道を彼願力之道といわれている。すなわち願力の道が、清浄願往生心であるようなものが専修正行、すなわち本願念仏の願生心なのである。けだし釈尊の発遺と、「汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火之難」(なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ)という本願の招喚に信順して、本願力の白道に乗じて願生するものは、如来の本願が、行者の願往生心となっていくいわれがあるのである。

衆生の貪瞋煩悩中に、煩悩に汚されざる清浄なる願往生心が生じたといい、火焔にも水波にも損われざる白道であるといわれる所以である。それゆえ専修正行の人は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

このようにみていけば、諸行往生の願生心は破損するが、専修正行の願往生心は破損することなく金剛堅固であるといわねばならない。疏の廻願心の第二釈において作得生想の願生心を「此心深信由若金剛、不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊」(この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず)といわれたのも、この心が、如来の本願を体としているものだからである。

親鸞が第二釈の文を「又廻向発願(願)生者、必須決定真実心中廻向願、作得生想」(また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ)と訓読し、如来廻向の願生心とみられたのも、法然のこの釈意を展開されたものといえよう。
『法然教学の研究』(梯實圓)P.304~


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二河白道の譬喩は、『観経疏』回向発願心釈にある有名な譬喩である。

この回向発願心は二重構造をしていると見られたのが法然聖人と親鸞聖人であった。

回向発願心釈の第一釈では、過去現在のあらゆる善根を回向せよとある。
そして、その所修の善根をを、ことごとくみな真実の深信の心中に回向することで浄土へ生まれると願えとある。

第二釈には、決定真実心をもって回向し、「作得生想」(得生の想をなすべし)とあり、この金剛のような信を持つことによって、他力の教えと異なる人たちによって信心が乱されることはないとある。

この回向する決定真実心を阿弥陀如来の真実の心と解し、如来より回向される真実の心をもちいて往生できると思えという意味に取られたのが親鸞聖人であった。
ゆえに、回向しなければならない善を説く回向発願心釈の第一釈は『教行証文類』の真実の信を顕す「信巻」では引文されておられない。浄土真宗は行者からは不回向の法であるからである。

そして、第二釈の漢字の訓点を、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想をなせ。」と、阿弥陀如来から回向された真実心をもちいるとされている。
須という漢字を「すべからく~すべし」と読まずに、必須と熟されるように「須いる」と読まれたのである。

このように引文されたことから窺えることは、親鸞聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解されたからであろう。
ゆえに、火焔や水波に破壊される自力諸行の回向発願心を顕わす第一釈は、真実を表す「信巻」ではなく、「化身土巻」で引文されておられるのである。

このことは『二巻鈔』の、

「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
二巻鈔

で、白道中に、「六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり」があると示されていることから窺えるのである。

なお、釈尊の発遣を順とされ阿弥陀如来の招喚を信とされ、これを「信順」とされていることは、『二巻鈔』の

【83】 「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、順なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、信なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。
二巻鈔

から判る。このことから、

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

という「清浄の願往生心」は、「かの願力の道に乗」じた願生心であって、火焔にも水波にも損われない信順であるといわれるのである。これが「衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」といわれる、本願力に信順する願往生の信心である。
このように「かの願力の道」の本願力が行者に届いている姿が願往生心の信心であるから、信心の体は本願力なのである。
それゆえ正行のなんまんだぶの行者は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

それを端的に『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
[一念多念証文]

と、述べておられるのがそれである。

二河譬の白道を、まるで求道のプロセスであるかのように説く人がいるが、『教行証文類』で説かれる白道の譬喩は本願力回向を顕わしているのであって、求道のプロセスを顕わしているのではないことが、これでよく判るであろう。
真実の求道は因位の阿弥陀如来がなされたのであって、末世の愚劣な凡夫が口にするような言葉ではないのである。