仏教の因果論

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因果の道理と称し、さかんに悪因悪果 善因善果を標榜する人がいる。
因果の道理 認めたくない人たち

正しい仏教の因果論では、単純に原因があって結果が生じるというのではなく、その間に「縁」というものがある。
種があって芽が出るというが、そもそも発芽条件という「縁」がなければ種から芽は出ない。
種が播かれた土や適度な水や空気という、縁によって種は芽となるのである。

ましてや、悪因悪果というように、悪が因となって悪が生じるのであれば、悪を行うものは永遠に悪を行い続けることになり、悪を転じて善となすということは無くなってしまう。善因善果という表現もまた、善を行うものは永遠に善を行うということになってしまう。これでは仏教で排斥する決定論であり運命論に陥ってしまう。
仏教では、このような過ちを犯さないために、善や悪の行為は因であって果ではないとする。
因・縁・果によって成立する果は、苦または楽であって善でも悪でもない「無記」であるというのである。

パーリ語のダンマパタ(真理の言葉)には、

67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

と、あるように、苦を招く行為が悪であり、楽を招く行為が善であるとされている。
これを因と果の関係に置いた表現が、悪因果であり善因果である。
ここでいう、苦とか楽は「無記」といって、善とも悪とも記することの出来ない中間的な性質のことである。

つまり、善・悪とは、楽または苦なる果報を招来する因の名称であって、果の名ではない。
果報は無記であるから、苦の状況であっても善なる行為が出来るのであり、楽の状態で悪を行うことも出来るのである。このように苦の状況を脱するために、苦を転じて楽の果報を招来するために善を行えというのが、仏教における正しい因果論である。

もっとも浄土真宗においては、このような因果を阿弥陀如来の本願力によって「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ」しめたもうご法義であって、救済においては自らの行為による因果を忖度しないのである。

このことは、当ブログで、「自業自得の救済論」および「大悲の必然としての救済論」で述べたことがあるので興味のある方は、リンク先を参照されたい。

そもそも仏教とは、我々の虚妄な概念を否定して覚りといわれる領域に導いていく教えであるのだが、このような思想の一端を知りたい方は「聖典による学び」を読まれることをお奨めする。

 

人生という学校

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30代の頃、友人と話をしていた。30年ほど前の話だ。

友人いわく。
この間、嫁と話していて愕然としたわ。20代の頃に話していた事と同じようなことを自分が喋っていることに驚いた。
俺って10年間、いったい何をしていたんかなあって、進歩がない自分に自分でで驚いた云々。

と、いうわけで、人間のこころの深化という話になった。
結局、20代は30代を、30代は40代を生きていく為の、学びという事が必要だという結論に達したものだ。

孔子は、

「吾十有五にして学に志し、
三十にして立つ。
四十にして惑はず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ、
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。」

と、いう。

裏読みすれば、15になっても目的を定められず(奇しくも高校選択の時期)、30になっても自らの生きる意味に立脚出来ずに自立できない、
そして40になって迷いの真っ只中にいる自分を自分自身が持て余している。そんな世俗で生きることに汲々としている人々の状況を皮肉ったものと取る事も可能である。
林遊は、「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」が好きなのだが、たぶん、矩を踰えてしまいそうだ(笑

さて、僧侶であり教育者でもあった、東井義雄さんに「人生という学校」という詩がある。

 

「人生という学校」

人生という学校に
七十七年もおせわになって
結局
何になったか

醜い
汚れた
みすぼらしい
じじいになった

申しわけない はずかしい
じじいになった

でも
やっとおかげさまで
お念仏申す以外
何もない私に
していただいた

 

醜い、汚れた、みすぼらしい、じじいには、誰でもなれる。
林遊はすでになっておる。
しかし、申しわけない、恥ずかしい、と言えるじじいになれるだろうか。
御開山は、日本人に、何をよろこび、何を悲しむべきかを示して下さった方である。

岡本かの子は、

年々にわが 悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり

という句を残したが、深い悲しみの中に、華やぐいのちの世界を示しているのであろう。

このご法義に出遇えてよかったなあ。
生きる意味も目的も、全部阿弥陀さまの方に用意があったというのが本願のご法義である。
阿弥陀さまが、私を目的として下さったのがこの、なんまんだぶのご法義である。
私に、なんまんだぶを称えさせることが阿弥陀さまの目的なのである。
なんまんだぶの、わたしは、もう既に阿弥陀さまの目的に中にいるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、いよいよ華やぐわがいのちである

代受苦

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浄土真宗の所依の経典、『無量寿経』に「讃仏偈」という短い偈文(讃嘆の詩)がある。
その末尾にある句が以下の句である。

仮令身止 諸苦毒中
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、)
我行精進 忍終不悔
(わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ。)

阿弥陀如来が法蔵菩薩で在りしとき、自らの決意を偈頌にされたものである。

この句を読誦するたびに、遠藤周作の『深い河』の一節を思い出す。

 

>>引用開始
「・・・・チャームンダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥についばまれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょう。・・・彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。
でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはさそりが噛みついているでしょう。 彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです」
一時間前までは愛想よく冗談を言っていた江波がこの時、突然、顔をゆがめた。 彼の頬を流れ落ちる汗はまるで泪のように見えた。「深い河」遠藤周作(220~221頁)
>>引用終了

心を病むということも当人以外には理解しがたい苦悩だが、飢渇や病苦に身を冒され飢えと痛みにのた打ちまわる苦痛もある。慈悲の非の語源はカルナー(呻 き)というそうだが、その呻きに自らを同値して救済しようという象徴的シンボルがインド女神のチャームンダーだろうか。
彼女はインドの死の女神であるが 人々を死の世界へ送り届けると同時に、死の縁となった飢渇や病苦の不条理に終わりのない挑戦を続けている存在でもある。

現在の日本では飢渇、飢えるということは考えられないことかも知れないが、飯時の一椀の白飯を前にして飢えに苦しんだ人々にすまないという想いで箸が止ま ることもある。生きるものを糧としてしか生きられないのが人であり、その罪を代わりに受けて下さる存在が「代受苦」である阿弥陀さまなのかもなあ。
善導大師は、慚謝という言葉を教えて下さった。

すまんこっちゃな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝。

[101223]

他力の信の特色

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お聴聞は、いいものである。

浄土真宗は、「聴聞に極まる」という。
究めるのではなく極まるのである。
このご法義の先人は、聴聞を、聴けば聞こえると和語にして下さった。
聴聞の聴は、聴く私が主体の能動性であるが、聞は受動性の聞であるという意味である。
聴いた法が、聞こえたとおりにはたらいている状態を聴聞というのである。
聴を究めるのではなく、聞に極まるのである。

ここで、何を聴くかといえば自らの「救い」を聴くのである。
救いの条件を聴くのではなく、聴けば聞こえる、阿弥陀如来の本願を聞信するのが浄土真宗の聴聞の作法である。
親鸞聖人は、「信文類(末)」で、大経下巻の「聞其名号信心歓喜乃至一念」を、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」(*)と釈されておられる。
聞を信で解釈なされているいるのだが、この本願力回向の信心という言葉の意味を理解できないから、古来「信」に迷う人が跡を絶たないのである。
浄土真宗の信心とは、受動性であり受容するという意味なのだが、明治以来のキリスト教の影響からか、信じるという方向に力点をおき受動性という信が判らなくなっているのであろうか。

と、いうわけで「他力の信の特色」という稲城和上の法話を法話サイト「阿弥陀さまがごいっしょです」のサイトにUPしてみた。
他力の信の特色を、
信順性 「そのまま」ということ。
逆対応性  「如来先手の法」ということ。
無所得性 「ものがらが無い」ということ。
の三種に分けて語って下さったものである。ライブのご法話を文字にしたものであり、和上の口吻、話し方/口ぶりがことに有り難い法話である。

「いつでも どこでも だれにでも 阿弥陀さまがごいっしょです」
http://hongwan.net/4e0f8d9268d57

一太郎やぁあい

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ジャストシステムの宣伝ではない(笑
旧国定教科書国語読本に載っているエピソードである。

多度津の港から日露戦争に出兵する倅が出征する。
港から五里も離れた山奥の老いたおっ母さんは、倅に餅を食わそう、ぼた餅を食わそうと用意した。
それを腰にぶら下げて五里の山道をわらじがけで多度津の港へ急ぐ。
しかし、あにはからんや、倅を乗せた軍船は港を離れて出て行く。

いったろうやぁい、母が来たぞう~。
ぼた餅持って来たぞぉ、餅ついてお前に食わそうと持ってきたぞぉ~。
聞こえたら鉄砲上げろぉ。

おっ母さんの声は海原を渡る。
すると甲板の上で鉄砲を上げたものがいる。

一太郎やぁあい、とおっ母さんの声。

おむつを取替え、かき抱いて乳を飲ませて育てた倅が出征する。
産んで育てた倅の出征。
あらゆる想いを載せ、まさに万感の想いを込めて倅の名前を呼ぶのであろう。

一太郎やぁあい。

人の想いは何に載せて届けられるのだろう。
法蔵菩薩は、声となって称えられる如来になると願われた。
人の嘆きや悲しみや感謝や慙愧、あらゆる想いを載せて我が名を称えよ、と阿弥陀如来に成られた。
もし、声となって称えられなければ正覚を取らないと誓われた。
なんまんだぶの声である。
言葉にならない想い、言葉以前の言葉が、なんまんだぶである。

そして、自分で称える、なんまんだぶは、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ、と林遊の耳に聞こえる。
法然聖人は、「声につきて決定往生のおもいをなすべし」と仰せであった。

我、名号となりて
衆生にいたり
衆生かえらずんば
我もまた還らじ

蛇足:
コメント欄のなんまんだぶによって、想いにならない思いというものを想起して、むかし法話で聴いた「一太郎やぁあい」の話を思い出して書いてみた。

参照「一太郎やぁあい」
http://www5b.biglobe.ne.jp/t-kamada/Museum/graphtadotsu/i…

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

井戸のつるべ

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井戸つるべ

昔は、つるべ井戸をよく見かけたが、最近ではほとんど見かけない。
井戸そのものも見かけることが少なくなった。

さて、昔の布教使は、身近にある題材でご法義の概念を語ったものである。

落ちるつるべが上がるつるべ

、という表現もそれである。
つるべは、片方の桶が井戸の底の方に落ちるとき、反対側の桶が上に上がる。

落ちるから上がるのであり、上がるから落ちるのである。

いわゆる、二種深信の話である。
救われないから救われる、という二種深信のたとえ話なのだが、よく出来ている話だと思ふ。
最近の布教使は、法の深信をよく領解していないから、判り易い機の深信の法話になりがちである。
確かに機(人間)の話は分り易いのであるが、機の深信の話は、どうしても罪悪感と結びついてしまう。
そして、聞く側に罪悪感が信心であると思わせるような法話になりがちである。

法の深信と機の深信は一具なのであるが、別々の深信があると受け取られてしまう恐れがある。
救われない者が救われるということを矛盾であると感じてしまうのだろう。

その点、つるべの例話は、よく出来ているはなしである。
落ちるつるべが上がるつるべであり、救われないことが救われるということである。
ましてやつるべは片方では役に立たないのであり、一具であってこそ意味を成すのである。

ちなみに「法」とは、阿弥陀如来の救済法をいう。
機とは、機関、機微、機宣と熟してその意味を表わす。

機関 仏の法を聞き入れる関係にあるもの。
機微 微かでも法を聞く能力の可能性のあるもの。
機宣 仏の法を宜しく承るもの。

つまり、機とは法の対象のことである。

「より二種深信について知りたい人は」↓
「わかりやすい宗義問答」

七深信

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林遊は、二種深信という用語があまり好きではない。

御開山には、二種深信という言葉はなく、たしか存覚上人が二種深信という用語を使われたのが初出だと思う。ただ、法然聖人は『選択本願念仏集』で、二種信心という語を使われている。[*]

言葉というのものは、対象を限定するという性質を必然的に持ち、他と区別するという働きがある。
花という言葉は、花以外のものを捨象したときに、花という言葉が意味を持つ。
赤い花という言葉は、赤ではない花を意識の中で除外したときに、赤い花という言葉が成立する。赤い花という言葉は、赤くない花(白や黄色や青)を排除したときに、言葉としての意味を持つのであろう。

で、何が言いたいかというと、二種深信という言葉によって、排除されてしまった『観経疏』の概念を思い出して欲しいということである。確かに、廃立という選択の論理は、林遊のような愚者が救われる道ではあるのだが、少なくとも、御開山は、「七深信」ということを『愚禿鈔』に表わされているのだから、これを、確かめることもあながちに無駄ではないと思ふ。
善導大師は、『観経疏』の深心釈で、観経の深心(観経の当分の意味は深い菩提心である)を、深信(深く信ずる心)であると定義された。いわゆる、至誠心・深心・回向発願心の三心での中の深心を信心であると釈されたのである。
大乗仏教の理想像である菩薩は、菩提心をもつがゆえに菩薩であるのだが、この菩提心を「深心=深信」と転換なさったのが、善導大師の御手柄である。
御開山は、この善導大師のおこころを受けて、一者、二者の深心釈を拡げて、七深信とされたのであろうか。
以下、『愚禿鈔 (下)』の、深心釈を挙げる。

>>
「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。
二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。{文}

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。
>>

御開山は、自利を自力、利他を他力と領解しておられた。
つまり、 第一の深信は自力の信であり、 第二の深信は他力の信であるということであろう。
御開山は、第一の深信を、「自利の信心」と釈され、第二の深信(利他の信海)と、一具でない、第一の深信は、自利(自力)の信心とされる。
二種深信を論じる輩は、二種深信という言葉に眩惑され、救うものと救われるものが一体であるという論理が理解できないのであろうか。
ちなみに、林遊の場合は、 第五の「唯信仏語」を受容している。「唯信仏語」の注記に「利他信心」とあるのもその理由の一端だが、仏語を受け入れた時に、虚妄ではない世界の消息が窺えるのであろう。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

本物の六字名号

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六字名号

親鸞聖人自署

 

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

『蓮如上人御一代記聞書』
本物は本物であるから、あれこれ策を弄する必要はないのだがが、偽者は偽者を本物のように見せる必要があるから、コピー&ペーストなど、あれこれ策を弄する必要があるのであろう。「参照
浄土真宗では、「名号の機にあるのを信心」というのであり、木像よりは絵像、絵像よりは名号、名号よりは口に称えられる、なんまんだぶである。
木像や絵像や名号に救われるのではなく、凡夫の口先に称えられる、なんまんだぶによって救われるのが浄土真宗のご法義である。
本尊論云々は、信のうえでのご報謝の遊び事である。灯をともし香を焚き華を飾って遊ぶ、ご恩報謝の楽しみ事である。

十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
『弥陀経讃』

阿弥陀如来とは、十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはして摂取して捨てないから、阿弥陀如来というのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……称名相続

木像よりは絵像、絵像よりは名号

ちょっといい本

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親鸞聖人の教え・問答集 [単行本]
梯 實圓 (著)  ¥ 1,995

内容(「BOOK」データベースより)←リンク
浄土真宗本願寺派の教学をリードする碩学の平易で綿密、諄々とした解説。親鸞の教えの基本から誤解されやすい重要語の意味の歴史的変遷、他宗他派の説、親鸞独自の見解などを明かし、念仏者の生き方を説く。

元々Q&A形式で書かれたものであるので、初心者にも読みやすい内容になっている。また、Q&Aであるので各文章が短く、読んでいて負担になることも少ないであろう。
あまり馴染みのない「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」の解説など、浄土真宗で使われる「他力」という言葉の重要な概念についても触れられている。
読み易いという事と判り易いという事は違うのだが、真宗用語の出典・出拠が明示してあるので、より深く学びたい方にも便利である。
なお、浄土真宗本願寺派の『註釈版聖典』、『註釈版聖典七祖篇』などを手元に置いて読めばより理解が深まるであろう。
これらの書籍が手元にない場合でも、ネット上で、「WikiArc 浄土真宗聖典電子化計画」
http://labo.wikidharma.org/
に、上記書籍の内容が掲載してあるので参照されたい。
(著書名+#P–### ← ###はページ数でページ内容が表示される。一部はno##で対応する科段も可)

仏が言葉であった

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本棚の埃まみれの蔵書を引っ張り出して乱読中。
買って読んだ時にはよく理解できなかった事が、ふとすこし解かることもあるから読書は面白い。

以下『親鸞のコスモロジー』大峯顕 著から
>>
南無阿弥陀仏の名号

ところでもうひとつ私がお話したいと思っていますのは、南無阿弥陀仏の名号の問題です。
念仏によって救われることを説く浄土真宗とはいったい何か。私が思いますには、親鸞の浄土真宗とは、「仏が言葉であった」ということの発見ではないかということです。
南無阿弥陀仏という名号がすなわち仏であります。人間存在を本当に救うところのものは本当の言葉以外にはない。名前のない仏は私を救うことはできない。
名前のない仏を一生懸命考えたり、その仏についていろいろ研究したり分析したり、そんなことで人間は救われない。そうではなく仏の名前を称えることによってはじめて人間は救われる。
逆に言いますと、本当のもの、真実あるいは如来とは、言葉になってわれわれに現われるものである。浄土真宗の本質にそういう思想があると思います。
念仏によって救われるという時、その念仏とは実は、言葉になった仏にほかならないのです。われわれを救うものは本当の言葉なんだ、と思うのです。
私の専門は真宗学ではありませんが、真宗学の論文などを読みましても、南無阿弥陀仏が人間を救うとはどういうことか、称名念仏によって救われるとはどういうことかということをはっきりさせた方はおられないように思います。
これは必ずしも私だけが思っているのではなく、たとえば鈴木大拙さんも昭和十七年の『浄土系思想論』の中でやはりそういうことを指摘しております。

「名号の問題は浄土教学における根本間題の一つである。ある意味からすれば、唯一の根本間題ともいえる。何故かというに、この名号が会得せられると、それが直ちに信であり、一心であり、本願であり、浄土往生であり。還相回向であるからである。真宗教学の全機構は名号の上に築かれているといってよい」
鈴木大拙はこのように書いています。
>>

大嶺師は、言葉を、日常の言葉、学問的認識の言葉、真実の言葉、というように分類する。
そして、名号(なんまんだぶ)とは、真実の領域から現れる仏の言葉(お前を必ず救う)であると言う。
言葉が事柄そのものを本当に言い表わしている事が「まこと」であると言う。
才市さんは、
浄土から、なんまんだぶの樋かけて、
知識口から才市の口へ、
浄土の味の水のうまさよ
と、詠ったそうであるが、真実の世界である浄土から林遊の上に顕現している「言葉」が、なんまんだぶという名号である。
『無量寿経』には、四十八願に重ねて誓って、
我至成仏道 名声超十方
(われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん )
究竟靡所聞 誓不成正覚
(究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ)
と、ある。
御開山はこれを『正信念仏偈』で、
この「重誓偈」の名声超十方を、重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、名声十方 に聞こえんと)と、超を聞と言い換えておられる。名号が声となって聞こえるのであるという意を顕されたかったのであろう。

浄土真宗では、称えることは聞くことであり「称即聞」という。
また、聞くことは信であると「聞即信」という。
なんまんだぶを称えることは、なんまんだぶを聞くことであり、それが如実の信である。
仏が浄土が林遊の上で顕現している相(すがた)が、浄土真宗の「如来よりたまはりたる信心」であった。無限遠点の仏や浄土が、今現在の林遊の上ではたらいているすがたが、なんまんだぶである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね