あるブログへの投稿

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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信心について。
親鸞会では「信」を強調するあまりに、信心が目的になってしまって、会員の方は本来の仏教の目的が判らなくなっているのでしょうか。

仏教の目的は成仏であって悟りを得る事です。
仏教とは、
仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)
まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えです。

通常の仏教では「信解行証」といって、信は仏教に入る一番最初の段階を信といいます。
仏の説いた法を、信じて、解(理解)して、その解した行(戒・定・慧)を行じて証(さとり)へ至るというプロセスが当たり前の仏教の考え方。
このような立場を「善をしなければ信仰は進まない」と言えるかもしれません。

この努力して目的に至るプロセスという概念は誰にでも判り受け容れられるから「易信」(信じやすい)といい、しかし行は行じ難いから「難行」という。いわゆる「易信難行」というのが聖道門の論理です。
此土入聖というこの世で悟りを得ようというのが聖道門。

これに対して、浄土門では「易行難信」といって、行は南無阿弥陀仏を称えるという「易行」だが、信ずる事が難しいから「難信」という。
無量寿経の流通分で釈尊が、
「諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」
http://wikidharma.org/4ada97d64e3c8
現代語訳:
如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。
http://wikidharma.org/4aebd5b0ebfa9
と、「難中之難無過此難」と仰り、阿弥陀経でも「難信之法」と、お前に信じる事はできないぞ、と仰せです。

何故信じる事が出来ないかと言えば、他力だからです。仏が行じて仏が仕上げた仏の不可思議の本願であるから信じる事が難しいと仰るのです。

しかし、浄土真宗では「信心正因」といって、信心が成仏の因であるという。
これって、おかしいですね。
なぜ信が正因であるかといえば信は真実であるからというのが御開山の解釈です。
「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり」。
http://wikidharma.org/4ada9b663f394

では、その真実が我々にあるかといえば全く無い。
貪欲(とんよく)むさぼり、瞋恚(しんに)いかり、愚痴(ぐち)おろかさ、の三毒煩悩に苦悩しているのが、人が生きるという事の実体です。
この煩悩は死ぬまで無くならないし、死ななければ無くならない煩悩の中に、お前は仏に成るのだという阿弥陀如来の信心(真実)の言葉を聞いていくのが、浄土真宗でいう信でしょう。

利井鮮妙和上が、歎異抄の一条を、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」
で切って読め、と仰ったそうですが、この言葉が信心の中身だからでしょう。

「と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
本願によって浄土へ生まれさせて下さる事を、信じて(受け容れて)お念仏しよう、と思い立った時に摂取不捨の身にさせて頂くのです。

本願文に、
至心 信楽 欲生我国 乃至十念
本当に(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれると欲って(欲生我国)、たとえ十声でもお念仏を称えてくれ(乃至十念)、とあります。
どのように考えても死ぬとしか思えないことを、我が国に生まれるんだと欲(おも)え、というのですから信じられる訳がありません。
しかし、生と死を超えていく術(すべ)もない私が、阿弥陀さまの仰る事は解かりませんが、阿弥陀さまの仰る事に間違いはない、と受け取らせて頂きますというのが利他の信心です。

この信心は、阿弥陀如来の信心です。
「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」
http://wikidharma.org/4ad12a1bd5d4a
現代語訳:
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の信心というのである。

阿弥陀如来の信心であるからこそ、往生成仏の正因であるというのが「信心正因」という事なのです。
昔から、大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心数しれず、という言葉がありますが、自らの拵えた「行に迷ひ信に惑」うよりも、阿弥陀仏に向かって本願のお言葉を拝聴することこそが肝要ですね。

手を離せ

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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浄土真宗の御法義は他力にうちまかせる御法義だが、なかなか判りにくい。で、ちょっといい話を読んだのでUP。
 
途中に宇曽川という川があって川上で夕立でもあったのか増水しています。
 
橋のある街道すじまで廻つて帰ると一里か、それ以上も廻りみちになります。
 
和上『これはアカン、仕方がない、廻り途をしよう。』
と云われますが、若者は承知しません。
和上も「それもそうだ」というわけで、着物をぬいでハダカになられました。
 
若者は和上の手をひいて、川を渡りはじめましたが、案外水は深く、川のマン中ほどまでくると、スネから腰、腰から胸と、次第に深くなって、どうかすると、年老りの和上は足をとられそうです。
 
和上「オイ、これはアカン、流されそうじやたすけてくれョ。』
と若者の腰にすがられる。

若者「老僧さん、アカンアカン。そんなに抱きつかれては私が歩けん、老僧さん離しておくれ。」
 
和上『無茶云うな、手を離したらワシは流されるやなないかー』
 
若者「でも、そんなにシガミつかれたんでは私も流される。手を離しておくれ。」
 
川の流のマン中で、大そうどうであります。しばらくたって、和上は、若者の腰から手を離されたが、和上が手を離されるなり、若者がしっかりと和上の手をつかんで、引きずるようにして向うの岸にわたりました。
 
引きずられながら、和上の口からはお念仏がとめどもなく流れ出てまいります。やがて、対岸につくと
 
和上『お前まあ、そこへすわれ。』
 
若者「もう日もくれますから、早く着物をきて帰りましよう。」
 
和上「イヤ、とにかくすわつてくれ、ワシはお前に礼を云わねはならぬ。是非ともお前に聞いてもらいたいことがある』
 
若者を無理に坐らせて、川の土手の上で、ハダカのままでのお話であります。
 
和上『お前、ようワシを渡してくれた。イヤそれよりも、ワシに大きな味わいをくれたでそのお礼を云わねばならぬ。さっき、お前が川のマン中でワシに手をはなせというた、あのときの、ワシの胸のうちはどうだったろう。
 
ふだんは和上さん、老僧さんといたわり、うやもうてくれるが、イヨイヨとなると、背に腹かえられぬ、自分だけ助かったらよいと思うて、ワシに手を離せという、ヒドイ奴じや」と思うと煮えかえるようだつた。
 
しかし考えて見れぱ、ワシは老さき短かい老僧、お前は元気な若者じや、連れて死んでもすまんと思うて手を離すやいなや、お前がしっかりワシの手をつかまえて渡してくれた。』
 
『ワシがいつも云うておるが、蓮如さまが仰せられる「雑行雑修自力のこころをふりすてよ」との御教化はここの味わいじゃ。よう聞いてくれよ』
 
『お名号をつかまえ、お名号につかまって 助かろうとする、そうしてお名号のおはたらきをさまたげて、自分は流れるのじゃ。わがハカライを離れたとき、阿彌陀如来はしっかりと、ワシをつかんでわたして下さるのじや。』
 
『お前はいま、身体にかけて、この味わいを見せてくれだが、 「雑行雑修のこころをふりすてよ」とは如来(おや)さまのお慈悲のありだけじやで、どうかここのところを頂いておくれや。」
 
宇曽川の土手の上で裸のま~の御教化であつたつたと伝えられております。
 
宏遠和上の裸のままの御教化。

教行証文類

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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親鸞聖人が『教行証文類』という題号で呼ばれておられるのは、聖道門の教行証に対抗しておられるからである。
もちろん

「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」(教巻)

と仰っているのであるから信を無視されたものではない。

「しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。」(浄土文類聚鈔)

教巻では、往相と還相をを回向されるのが浄土真宗であると教法名でいわれ、浄土文類聚鈔では本願力の回向を往相と還相だとされる。
つまり、本願によって往相/還相を恵まれるのが浄土真宗であるという事である。

法然聖人の『選択集本願念仏集』の選択集二門章では、道綽禅師の『安楽集』の聖浄二門判を引いて仏教には聖道門・浄土門の二道があるとされた。
そして、

おほよそこの『集』(安楽集)のなかに聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり。

とし、現在は末法であるから浄土門でなければ証を得ることができないとせられた。この選択集に対する論難に応答する書がまさしく『教行証文類』である。
この事は後序の

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。

の文で判る。

なんまんだぶつ

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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親鸞聖人はご自身の主著の名前を『教行証文類』と呼ばれた。

つまり、教(おしえ)、行(おこない)、証(あかし)という三本で浄土真宗という法義を示された。これを三法立題という。

とは釈尊出世の本懐といわれる大無量寿経(以下大経)に説かれる教えである。
これを教巻に

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経のとするなり。(教巻)

と、「本願為宗 名号為体」であると顕されている。なお、「仏の名号をもつて経の体となす」は、『往生論註』からの引文である。
浄土真宗の門徒なら朝夕に読誦する『正信念仏偈』に、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)

と讃嘆される所以である。

とは南無阿弥陀仏と称える称名の事であり、林遊に、なんまんだぶと口に称えられている称名のことである。

「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行巻)

石泉和上は『柴門玄話』の中で、この行である念仏を、

初組(龍樹)は阿弥陀仏本願如是等といい、北天(天親)等(曇鸞・道綽)は如実修行といい、終南(善導)は正定業といい、横川(源信)は別発一願の念仏とし、黒谷(法然)は選択本願の念仏といい、我大谷(親鸞)は智慧の念仏ともまた真宗念仏とものたまえり。

と示されているように、七祖伝灯の口称の大行である。

はさとりとも訓ずるように、教と行に依って感得される仏の覚りの証明である。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位無上涅槃の極果なり。
また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来はより来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

浄土真宗で弥陀同体の仏に成るといわれるのは、この文が出拠である。仏教の目的は成仏であり阿弥陀如来と同じ如来になるといわれている。
親鸞聖人が、大経を釈尊出世の本懐の教といわれるゆえんは、釈尊が大経を説く契機になった阿難の問いから始る。

釈尊が常に無い尊いお姿であったので、それを見た阿難が、どうして今日の世尊はそのように尊いのでしょうかという問いに、

「如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」(大経)

現代語訳(如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。)

と答えられ、法蔵という菩薩が、衆生(生きとし生けるもので人間には限定されない)を仏にする為、無量の願いとそれを成就する為の修行を成し遂げた、と説かれ随自意の大経が開示される。

そして、その説かれた真実の利とは、まさに南無阿弥陀仏という称念であるというのが

「仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」

現代語訳:釈尊が釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。

の南無阿弥陀仏を称える一声一念であった。
これこそ、心の持ち方や生き方を問わない万人平等の往生成仏の教説であり、大乗仏教の至極であった。

近年、ありもしない自己の信心に惑い念仏の行に迷った挙句、口に称えられる、なんまんだぶつを軽視する風潮が強い。
親鸞聖人の仰るとおり「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」である。

言葉の話

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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浄土真宗が難しいという事のひとつに、使われている言葉の概念が通常の言葉の概念と違う事が挙げられる。

例えば他力という言葉だが、これは仏の方から衆生を見ていう言葉であって仏が他者を救済する利他力の意味である。決して他者依存という意味ではないという事に注意しなければならない。

たとえば、愚禿鈔 (下)という書物には、善導大師の二河の譬喩を解説する中で、

また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。

と示され

我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。

と示されているが、これは仏を中心とした世界観を表現する意味であって、自己を中心として描き出している世界の言葉ではない。

親鸞聖人の主著『教行証文類』は、古来から難しい難しいと言われているが、このような仏を中心とした世界を顕そうとされている書物であるから難解なのである。

いわゆる宗教の世界を顕す「宗教言語」であるから、既存の概念で把握しようとしても理解不能に陥る 。

梯和上が、この『教行証文類』は、親鸞聖人が他者に解かって貰おうとして書いた書物ではありません。仏祖の前でご自分のお領解を述べていらっしゃる書です、だから難解です、と仰っていた。

じゃ止めとこ、とも思うのだが、林遊の学びの為に少しずつ読んでいこうと思ふ。

浄土真宗の教え

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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浄土真宗の教えは難しいとよく言われる。
何故難しいかといえば簡単すぎるから難しいのだろう。

例えば「歎異抄」では次のように言われる。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり

と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」(歎異抄)

同書の12条ではより端的に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」とある。
しかし、簡単という事と理解できることは違う。この狭間で信心とか念仏を論じて解からなくなってしまう人が多い。

この事についてしばらく諸先輩方の研究を参照しWikiArcの聖典を引用しながらして考えてみようと思ふ。

まるで、菅の穴からから天を窺うような試みなので、「管窺日記」としておこう。

話がうますぎる (笑

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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輝く讃歌 正信偈を仰ぐ(賞雅哲然)より
http://tinyurl.com/kke88y

>>引用開始

私はこのことを思う時に行信教校時代に、道念厚く信仰の深かった先輩高田慈光法兄<元行信教校教授高田慈昭師尊父>から聞いたお話を思い浮べるのであります。

この先輩のお寺に見知らぬ人が訪ねて来られました。何かの機縁で道を求める心が起こりキリスト教、真言宗、天理教と転々と熱心に道を求めて遍歴されましたが、どうしても落ち着く事が出来ません。それで親鸞聖人の教えを聞かしてほしいと訪ねて来られたのであります。

この先輩は信仰厚く真面目な方でした。本堂に迎えて諄々と聖人の教えを話されて、私が救いを求める前に、すでに救われてくれよと呼び給う大悲のみ親のあることを話されました。

この時この方は「私にはいよいよ解らなくなりました」と言われるのです。その理由を聞かれますと、「外の教えは私には一応理解出来ます。それは、キリスト教では罪を懺悔してお祈りしなさい。それによって神の愛を受けることが出来ると説かれ、又真言宗の教えでは私達は大日如来と一体で、私の身体は大日如来の分身である。然し煩悩によって汚されているから三密加持の修行<真言宗の修行の方法>によって煩悩を断ち切れば、仏になることが出来ると説かれます。
又天理教では、人間は神の子であるが欲によって汚されている。その為病気をしたり、いろんな災難を受ける。だから『欲を捨て、悪しきを払って助けたまえ天理王のみこと』とお祈りすることによって御利益を頂き幸福になれると説かれています。

これらの教えは一応私には頷けますが、問題はそれが出来るかどうかにあります。しかし真宗の教えは私には全然解りません。」
と言われるのです。どうしてですかと問われたら、それでは余りにも話がうますぎると答えられたそうです。

私は四十数年前放課後、この先輩と信仰談義に花を咲かせている時に聞いたこの話が今も鮮かに浮んでまいります。み仏の仰せに素直に従うことがどんなに難しいかが、しみじみ思われ、親鸞聖人にこの境地<他力信心>がひらかれるまでに二十年間の自力修行のあったことも今素直にうなずけます。それでは私達は他力の信仰に入るのには聖人のような求道が必要かという問題が残ります。聖人の求道、修行に代わるものが聞法なのです。聞法の積重ねの上に開かれ行くのが他力信仰の世界であります。
>>

本願を信じ念仏を申せば仏になる(歎異抄)。簡単中のかんたんな事ができないんだよなあ。
梯和上が仰っていたが、阿弥陀さまの仰せを仰せの通り聞信するだけだな。

>>引用開始

そこで、このような智慧の言葉を聞く時に一番大事なこころがけは、自分の既成観念や概念的思考をもって理解しようとしない事です。自分が本来持っている理解力で「盡十方无碍光如来」の領域を理解しようとしたら絶対に分からないように出来ているのです。

分別を超えた領域を分別しようとしても出来ないことは当然です。分けて知ることの出来ない領域を、分けて知ったとすれば、それは理解したのじゃなくて誤解しているだけです。ですから『大経』でも『阿弥陀経』でもそうですが、凡夫の理解力のとどかないさとりの領域を説き表しているのだから、この教を、凡夫の地力で読んでも決して分かりませんよ、といわれます。

『大経』の一番最後のところに、聖道門の教えはまだ理解することが出来ようが、「若し斯の経を聞きて信楽受持することは、難の中の難、此れに過ぎたる難は無けん」といわれています。

『大経』の法義を聞いて、それをよく理解し、信楽し、受持することは、難の中の難、これ以上の困難はないといわれているのです。絶対にお前には分からない真実を説いたのだよといわれています。

『阿弥陀経』もそうです、「極難信」といわれています。それでは一体どうしたらいいのかというと、お経に説かれていることを、自分の既成観念で理解しようとせずに、仰せのままをただ素直に頂けばよいといわれるのです。

解って信じるのではなくて、私には納得できないけれども、如来さまの仰せが真実であるとはからいなくみ言葉を受け入れるのです。するとその言葉が、全く新しい領域を開いてくださるのです。(聖典による学び)

>>

どう考えても死ぬとしか思えないのに、わが国に生まれるんだと欲(おも)え、と仰るんだから、左様でございましたかと聞くだけなんだよなあ。

なんまんだぶつ

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業と輪廻

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林遊は、業と輪廻の思想を抜きにして仏教を語っても、それは単なる世俗の生き方にしかならないと思うのだが、ちょっといい文章を紹介。
 
悪夢に泣く子供に母親が「夢ですよ」という場合、それは夢であるから目覚めなさいということである。
 
同様に業と輪廻--六道輪廻の思想も有情についての単なる存在判断ではない。
 
それは初めから終わりまで覚醒への呼びかけであり、呼びかけられた者にはこの命題は一つの当為であり命令であるはずであった。(しかし業や輪廻は今日では通常そのような仕方で理解されてはいない。)
 
だから業と輪廻は対象的に見られると、まったく生存の運命的必然性を強調する教義と考えられるであろう。
 
しかし、主体的には、それとは逆に解脱と自由のためのものである。
 
それはあたかもすべてのものがその色濃き印影をその物の背後に投げかけるときに、その物自身はかえってそれの正面の輪郭をくっきりと白日の下に浮き出させているようなものである。
 
業と輪廻の暗い論理の影絵には、それからの解放と超越の喜びが輝いている、他の一面がある。
 
業の理論はいわば跳躍版であって、宗教的実存は、一度はそれにしっかりと足をふまえることによって、つぎに身をおどらせて解脱と解放の自由に躍入する。
 
業と輪廻の思想は最初にそれを理論的にまとまった姿を与えたウパニシャッドの哲人(ヤージニャヴルクヤ)によって、すでにこのような内面に火花を持った概念に作り上げられていた。
 
ウパニシャッドを読む人は、この暗転する業と宿命の流れのなかから、ときどき一瞬解脱の光りがさっと輝き出るのを感じるであろう。
 
というのは業や輪廻の思想は、上述のようにただこの解脱の光に照らされたときだけ、それと知りうる人間存在の暗さであり、私と私を包む世界との根源的な運命的時間である。
 
だから輪廻を知ることは、ヤージニャヴルクヤのいうように、「蛇が自分のぬけがらを見るごとく」でなければならない。
 
流転や輪廻の世界は、ただそこからの解脱が同時にそれとともに強調されるときにだけ意味のある事実であり、解脱の光のもとでだけそれと見られうるような事実なのである。
 
だからこの哲人は業についての自分の思索を秘教的なものと考えていた。
それは「私と汝が手を重ね合い、ただ二人だけで語り合うべき」性質のものであった。
 
-中略-
 
このような業と輪廻の肯定と否定とに対して、仏陀の立場はいわばそこに親鸞の横超(他力による横超)の次元に当たるものを切り拓くことによって、両者を止揚した中道の立場に立とうとするのである。
 
とにかく原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚なしには考えることができない。
 
その宿望は今や満たされた。
仏陀は「生は尽きた、梵行は修せられた、作すべきことはなされた。再びこの状態(輪廻の状態)に来たらない」と自覚して真の解脱に達し、彼の弟子達に「来たって見よ」と教える。
 
そうしてこの仏陀の立場に立つとき、実はそこで初めて業の世界、輪廻や転生が本当には何であったか--人間の生存の事実性において、何を意味していたかが判然と知られるのである。
 
あたかも眠りより目覚めた者(覚者ー仏陀)が、初めて眠りの何であったかを知り、また眠っている者のところに行ってその眠りから彼を覚醒させることができるように、業の真相の理解者は業を超えることによってこれをその根底から知悉し、そうして再びこれにつながれている他者に立ち向かって彼をその繋縛から解放し、相ともに他者の超脱と覚醒へのための実践に進ましめる事が可能となる。
 
『親鸞と現代 武内義範』より

信心正因って?

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先日の勉強会で坊さんとの雑談。
 
浄土真宗では信心正因っていうけど、正因って因、つまり原因の事だよな。
 
「そう」
 
じゃさ、その信心に対する果は何よ。
 
「それはお浄土で仏さまになるってことやろ」
 
うん、そうだけど言いたいのは、信心というものに対応する果が何かという事を言いたいんだけどな。
 
「う~ん」
 
信心に対応するのは仏心じゃないのかな。
 
「仏心って仏の心の仏心?」
 
そう、果において仏心であるような信心が往生成仏という目覚めた仏に成るという正因でしょ。
 
「う~ん………」
 
今日の講義の唯信鈔文意で、
 
<「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。>
 
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、ってあるけど、「この」は、如来の心を指しているので衆生の心じゃないんでしょ。
 
だったら信心というものは仏心であるわけでしょ。
如来の仏心が十方微塵世界の林遊に至って、林遊をブッダにするという話だよ。
 
だから、人間が仏に成るなんてとんでもない話だけど、仏心が林遊に至り届いてこの仏心が往生して即成仏する事は何の不思議も無い訳だろ。賜りたる信心ってこういう事でしょ。
 
「う~ん………」
 
いつも思うけど、坊さんは「信心正因」ってあまり言わない方がいいと思うな。
 
それよりも、お念仏しましょう、なんまんだぶを称えましょう。
 
これは阿弥陀如来が選択して下さった、本願に順じた業因ですから称えましょうねっていう宣伝をすべきだと林遊は思うな。
 
と、こんな事ばっかり言うから林遊さんは煙たがられるのね (笑