浅原才市さんのうた

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浅原才市さんは、

仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり

罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく

といわれている。
前段では、「罪の詮索無益なり」とされているのだが、後段では「罪の詮索する人はここで金剛心をいただく」とされている。
一見すれば矛盾するような言葉だが、これについて考察してみた。

「トーク:二種深信」

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たとひ大千世界に

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『浄土和讃』の、

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (讃阿弥陀仏偈和讃)

という句を真剣に聞法をすべき根拠という理解があるそうだが何を聞くのか明らかではない。
この和讃は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の漢讃を御開山が和讃したものである。(*) この和讃は二首を一対として領解すべきである。

もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。(讃阿弥陀仏偈)

(30)
阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり (*)

たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃阿弥陀仏偈)

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (*)

なんまんだぶの名号を聞信し、歓喜し讃嘆したてまつれば、その功徳はわが身に具わり、たった一声(下至一念)の〔なんまんだぶ〕であっても涅槃をさとる無上の大利益をこうむるとという意が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」という和讃の意であった。なお、この句の元となった『讃阿弥陀仏偈』の「阿弥陀を聞けば、また退かず(聞阿弥陀不復退)」の文も、現生不退(聞名不退)の証左となったのであろう。
御開山の示される御信心とは、本願(第十八願)に示された選択本願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を念仏成仏の業因と聞信し受容することを信心正因というのであった。
この「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くべきは仏願の生起本末を全うした〔なんまんだぶ〕を称え聞くことであったのである。御開山が「真実の信心はかならず名号を具す(*)とされた所以である。

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徳大寺の唯蓮坊

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蓮如さんの『御一代記聞書』に、

一 徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候ふ。(聞書P.1297)

とあるのだが、徳大寺の唯蓮坊という一段が判らなかったのだが、ネットは便利なもので唯蓮坊のエピソードを発見。

で、暇なのでwikiarcに記述してみた

→「徳大寺の唯蓮坊

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古今楷定

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好奇心の無い者は、たとえ若者であっても老人であり、好奇心のある者はたとえ百歳であっても若者である、というそうだが、「古今楷定」という語を見かけたので好奇心から私見をwikiarcにUPしてみた。

鎌倉時代に生を享けられた御開山は、80過ぎてもなお好奇心を失わずに著述をされておられるのだが、こういう人にとっては老いは忘れ去られているのだろうな。
ある意味では、やがて実現する「無量光明土」という浄土を持つものは、摂取不捨という言(ことば)が実感として感じられるのであろう。ありがたいこっちゃ。

→[古今楷定]

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二種深信

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若い頃には、家のじいさんやばあさんが、ご信心は若い頃に貰え貰えと煩かった。
『御一代記聞書』(63)の、

一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。 p.1252

の意であろう。
根が単純なので「信心正因」の語に幻惑され、大谷派の機づのりの機の深信が自覚の信であると錯誤して、罪の深いことを知らしてもらうのが浄土真宗の信仰であると思っていたものである。後で知ったのだが御開山は『愚禿鈔』で七深信を挙げられ、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。p.522

と、機の深信単独では自利(自力)の信であるとせられいた。大谷派の責任者出て来い(笑
ともあれ不惑を過ぎてから、本願寺派の和上さま方の法筵に座すことになったのだが、自力の拵えた自覚の信を抛り投げて、なんまんだぶのご法義を知らしてもらったのはありがたいことであった。
で、御恩報謝の真似事としてネットであちこち書き散らしているのだが、wikiarcの「二種深信」の項に少しく追記してみた。

「二種深信」

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浄土真宗の特長

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「法然聖人と御開山の相違について」という問いを受けたので、梯實圓和上の聖典セミナーの一段をUPしたことがある。
同文中で梯和上は、17の箇条書きで御開山の『教行証文類』撰述の意義を示しておられる。その意味を該当する文や項目へのリンクを作成してみた。
坊さんと違って、かっての林遊のように門徒は教義概念を示す名目の意味が理解しづらいと思ふので、各項にお節介だがリンクしてみた。

ともあれ理論と現象ということがいわれるのだが、理論は知らなくても本願の仰せのとおりに、虚心に〔なんまんだぶ〕を称えている者が「真実の信心はかならず名号を具す。」であり、「如彼名義欲如実修行相応故(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑに)」の実践であった。ありがたいこっちゃ。

浄土真宗の特長

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wikiarcの「教」の項に以下を追記した。

教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える大行である。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と四十七対を挙げられている所以である(行巻 P.199)。 この大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。

→「教」

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念仏成仏

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wikiarcに「念仏成仏」の項を追加した。

阿弥陀仏は、第十八願に「至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)。(至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」と念仏する者を浄土へ生まれさせると誓願されているから、本願を信じて念仏を称え往生することを念仏往生という。
「行巻」ではインド、中国、日本の七高僧と諸師方の論・釈を引かれる。そして法然聖人の『選択集』の結論である三選の文を引かれ、

称名必得生(しょうみょう-ひっとくしょう) 依仏本願故(えぶつ-ほんがんこ)。(称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに)(行巻 P.186)

と、「称名必得生」の念仏往生を明かされた。 そしてこの「依仏本願故」の意を決釈して、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。 (行巻 P.186)

と、念仏往生とは自力の行ではなく、本願力の回向によって一切衆生を成仏させる「念仏成仏」の法であると結論された。「浄土和讃」で、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)

と、浄土真宗は念仏して成仏する「念仏成仏」の法義であるとされておられる。

御開山は「教巻」で『無量寿経』は、仏の名号を体(教巻 P.135)とする経典であり「一乗究竟の極説」(教巻 P.138)であると決示され、「行巻」では念仏の利益を「大利無上は一乗真実の利益なり」(行巻 P.188) と讃えておられる。
この一乗を承けて、大行である念仏を「一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり」(行巻 P.195) と「誓願一仏乗」と呼ばれて一乗海釈(行巻 P.195) を開顕されておられる。この大行である念仏が、あらゆる衆生を成仏せしめる誓海一仏乗の教法であるから「念仏成仏」とされたのであった。→誓願一仏乗

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。(行巻 P.189)

と、大行である念仏は「大悲の願船」である誓願一仏乗の教法なのであった。この大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。「信巻」大信釈で、

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻 P.211)

とされる所以である。

「念仏成仏」

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仏願の生起

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過去にもブログで記したのだが、梯實圓和上は「阿弥陀さまの大悲」について、

法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。

 そうですね、やはり異なっているのでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとのと違いがあります。
どこが違うのかといいますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている間は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られているのものであり見護られているものであると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことでございますので、よく味わっていただきたいと思います。→「阿弥陀さまの大悲

と仰っていた。浄土真宗は、我と汝の対応関係ではなく「ニグルヲオワエトル」という摂取不捨の逆対応のご法義である。
というわけで、wikiarcの「仏願の生起本末」の仏願の生起が判りにくいので深川倫雄和上からお聞きした話を追加してみた。

「仏願の生起本末」

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選択本願

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wikiarcの「選択本願」の項に以下を追記。

選択本願

阿弥陀仏の四十八願の根本である第十八願において、衆生往生の行が選択されたという意。また、その第十八願を指して選択本願という。法然は『選択集』「本願章」において、称名念仏と諸行を「勝劣の義」「難易の義」(選択集 P.1207)によって論じ、選択の意義を述べている。 そして、衆生が修めるべき浄土往生の行について、難劣である諸行が選び捨てられ、勝易二徳をそなえた行である称名念仏が選び取られたのが第十八願であるとする。 さらに

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択集 P.1209)

と述べ、いかなる者も修めることのできる称名念仏を浄土往生の行として誓う阿弥陀仏の選択の願心は、一切衆生を平等に救おうとする大慈悲心のほかならないことを明らかにしている。このように法然は念仏往生を誓った第十八願は平等の慈悲がまさしく具現したものであるとうけとめ、これを「本願の王」(選択集 P.1228)とも呼んでいる。(浄土真宗辞典)

法然聖人が四十三歳(1175)の時に善導大師の『観経疏』「散善義」の、

一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが) 不問時節久近(ふもん-じせつくごん) 念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう) 順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。(信巻で引文 P.221)

の一文によって回心されたことは有名である。→法然聖人の回心
それは、称名念仏を選び取る主体が自己ではなく、阿弥陀仏が本願に正定業しく往生の決する行)として選び定められてあった「順彼仏願故」の文に主体の大転換がされたからであった。「順彼仏願故の文たましいに染み心に留むるのみ」とされておられる所以である。この阿弥陀仏が往生の行として第十八願に称名念仏を選んであった意を二十三年後(1198)に浄土教の教義として述べられたのが『選択本願念仏集』であった。このように、選択本願という用語は、第十八願に誓われている称名念仏(なんまんだぶ)が阿弥陀仏の選択であることを特長づける言葉であった。
この意を継承された御開山は、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

と、『浄土論』『論註』の示唆によって、本願力回向の往相と還相の二回向を教・行・信・証としてあらわして下さったのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

選択
大行・真実行
一願建立
三法門
五願開示
四法門
行信
安心論題/十念誓意