自力念仏

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そもそも、阿弥陀仏の念仏往生のご法義には自力も他力もないのだが、称える側の者(機)の心によって自力の念仏と他力の念仏に分かれるのであった。

と、いう訳でwikiarcに「自力念仏」という項目を記述してみた。

→「自力念仏」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

人惑を受けず

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高森親鸞会を脱会した方の、善知識帰命説を否定するブログに触発されて、wikiarcに臨在禅師由来の「人惑を受けず」の語を追記してみた。

ほとんど、何が言いたいのか意味不明だろうが、林遊の脳内では整合性がとれているので了である(笑

名聞と利養しか頭にない、真宗布教使にも言えるのだが、芸能としての節談や、カルト崩れの求道主義者には意味不明だな、どうでもいいけど。

ところで、徳永一道勧学寮頭は、

「一緒性」の提言は「大乗仏教の精神そのもの」と賛同され、そして「親鸞聖人は浄土真宗を『大乗の中の至極なり』と示されていますね。

と、公言されていますが、大乗仏教では、個のさとりである「八聖道」から関係性を重視した「六波羅蜜」へ移行したのですが、その第一の徳目である布施行の実践として、貧乏な林遊に100万ほど布施して下さい。布施とは言葉ではなく実践ですから請求書出してもいいですか(笑

そんなこんなで、出来もしない大乗精神を言う輩の「人惑を受けず」だな(笑

→「人惑を受けず」

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興福寺奏状と教行証文類

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御開山の著述を拝読するには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方はお示しであった。例えば承元の念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』という補助線を入れることによって、御開山の問題意識を探り、御開山の著述を拝読するときの助(資助)けになるのであろう。
ここでは、梯實圓和上の『法然教学の研究』──『興福寺奏状』と『教行証文類』──から一部を抜粋し、法然教学と興福寺奏状、それの御開山の著述への影響を考える資料としてUPした。御開山の著述を拝読するときの資助になれば幸いである。

→「興福寺奏状と教行証文類」

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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

何故なら、仏教の上では、嘘とはマイナスの概念を示す語であり、方便とはプラスを示す仏教語であるからである。
仏教語と世俗語は、そもそも存立基盤が違うのであり、辞書でも同じ語に「仏語」という項目があり仏教での意味を別に示してある。
仏教では身心(東洋的)や心身(西欧風)ではなく、身・口・意として、口業(語業)という言葉を重視するのであった。その意味では言葉を超えた世界を言葉で表現するのが仏教の論理であり、言葉を大事にするのである。その意味で「信」(人と言からなる会意)を重視する浄土真宗では「嘘も方便」というような表現法を使うことはない。
ともあれ、仏陀のさとりを示す世界を言語化しようとしてきたのが、仏教の歴史であり、浄土真宗では、なんまんだぶと称えるか称えないかが「信疑決判」であった。

それにしても、阿弥陀仏の善巧方便を「騙し」と表現した高森親鸞会の高森顕徹氏は、いよいよ「病膏肓に入る」だな(笑

画像はブログ:→親鸞会を脱会した人(したい人)へ から

善巧方便と権仮方便

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文殊の法はつねにしかなり。

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御開山の引文はややこしい。

ただ本願寺派の註釈版聖典は、引文とその意図を脚注に記しているので、後学の学ぶ者にとってはありがたいことである。
とりあえず愚昧ながら「文殊の法はつねにしかなり」の文意を解釈してみた。

→文殊の法はつねにしかなり

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聖徳太子の文を…

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fbより転送

林遊は、御開山の説いて下さる、なんまんだぶの法に関心があり、人間親鸞としての御開山の行状にはあまり関心がない。
(71)

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

というのが御開山のお示しの簡単なご法義であるのに、死の帰する浄土を説かずに「こころ」や「いのち」の論理を振り回す坊さんに対抗する為に少しく教義を学ぶこともある(笑

で、あるところで突然に、

「我が三尊は塵沙の界を化す 日域は大乗の相応の地なり」

という文を出した高田派の坊さんがいたので、脊髄反射で『恵信尼消息』の「聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」の「聖徳太子の文を結びて」のwikiarcの脚注に追記してみた。
ある意味では現代の我々と違う精神世界を描いているのだが、浮遊する空しい言葉ではなく、「如是我聞」という、言葉が言葉としての活力を持っていたのだろうと想像してみる。なんまんだぶという言葉による仏教の済度とは、ありがたいこっちゃ。

→「聖徳太子の文を…」

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ページNoからWikiArcへアクセス

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wikiarc の目次に聖典のページ番号から当該の各収納聖典へジャンプが出来るようにしてみた。
これで聖典名を記述しなくてもページNoによってアクセスできるようになる。

聖典の種別:注釈版七祖篇
聖典のページ:

上記の例のようにフォームを用意すれば外部サイトからでも出来るはずである。ただし、なんまんだぶつのご法義流通に障害があると判断した時は、冷酷な慈悲ある独裁者の権限を揮ってIPを遮断する場合もある。

→WikiArcの目次

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おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。

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日本人にとって、蓮如さんのしたためた「白骨の御文章」は、最良の弔問の名文句だといわれる。
この御文章中の、

われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり

を、越前の門徒は「ひとや先、人や先」と言い換えて「後生の一大事」を我がこととして肯えない己を揶揄していたものであった。
ともあれ、ここで「といへり」とあるので、先行する典拠とされる『存覚法語』を、fbの井上敬信さんがタイプして下さったのでwikiarcにUPしてみる。
→『存覚法語』
そのまた『存覚法語』の典拠である『後鳥羽天皇御作無常講式』はwikiarcにUPしてある。
→『後鳥羽天皇御作無常講式』

日本人は、インド仏教の「空」とか「無」という概念をよく把握できていないと言われるのだが、ともすれば仏教の「無常観」が詠嘆的な「無常感」になりやすい。『般若心経』などでは「色即是空」と「空」を説くのだが、日本人は「空即是空」に重点を置いて思考するようである。サクラが散ることに美を感じても、散ったサクラの花の風にうたれ雨に濡れたきたなさの行く末には無関心である。
その意味では、浄土と穢土をキッパリ区別する二元的な世界観が法然聖人の示された浄土教であった。御開山は「欣浄厭穢の妙術」と仰っておられた。

現代の即得往生論者の大谷派の坊さんは「死んでからの話をして何になるか」と勇ましいのだが、死ななければ仏陀のさとりを開けないという愚者に落居するという浄土-真宗がワカランのかなあ。死ななければ治らないような煩悩を抱えていくものに開示されるのが御開山が示して下さった浄土であった。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
→「相対の上の絶対」

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教行信証講義

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真宗大谷派 西覚寺さんがネットで提供されている、山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」を自分の勉強用にUP中。元々s-jisiで書かれた文章なのでutfの漢字に当て嵌めるのが苦戦中(笑
ともあれ、明治の西欧文明を取り入れる文明開化を経て、大正デモクラシーの時代の雰囲気からか漢文を《言教〈おしえ〉》などのように和語で読んでいるのは、時代の雰囲気を感じさせて面白い。大正三年に記述されたものであるから100年程前の文章である。
時代の制約の為か、御開山の境位と非常に近い幸西成覚房の教学を誤解している点もあるのだが、本文はおしなべて正確に御開山の意図を捉えていると思ふ。(ツッコミは暇が有ったら脚注に記すかも知れない)
飽きっぽいので、最後までUPできるかどうか判らないのだが諸兄のツッコミを期待ではある。
学問とは、学んで後に疑いあり、疑いて後に問いありというごとく問いのない学びはないのであった。

→山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」

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その籠を水につけよ

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 深川倫雄和上は、お説教はみな忘れてしまえ! と、よくおっしゃっていた。そもそも、お説教を覚えている奴にはろくな奴がおらんともおっしゃっておられた。
そして、忘れてしもうても忘れなさらん親さまを大切にするこっちゃ、と〔なんまんだぶ〕を称える讃嘆行をお示しであった。

 梯實圓和上は、もう少し優しいから、お説教は忘れてもいいんですよ、そしてね、忘れてしもうたら、なんですなぁ、また聞けばいいんですよ、とおっしゃっておられた。

蓮如さんの『御一代記聞書』(現代語)には、

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。→(現代語) →(原文)

と、ご法話を聞いている時には、その通りだと思ふのですが、時間が経つとその思ひもみな抜けてしまうのですが、どうしたら良いのでしょうかという逸話(エピソード)がある。
この『御一代記聞書』の意(こころ)を、梯實圓和上は以下のように述べられておられた。

 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。今年も楽しく法縁に遇わせていただきましょう。

阿弥陀如来は「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念)」(*) と、乃至十念という〔なんまんだぶ〕を称えよとされた。
たとえ、痴呆になり聞いて覚えたお説教の理屈を、みな忘れても、我が口になんまんだぶと称える癖になるほどに称えられる〔なんまんだぶ〕の声を聞くとき、「声につきて決定往生のおもひをなすへし」という生死を超える「往生極楽のみち」に安心して死んでいける道があるのであった。

最近の真宗の布教使さんの説く自覚の「心の宗教」では、西方仏国の極楽やそこへの往生や〔なんまんだぶ〕と口に称える行業を説かない。御開山の説かれた往生浄土の真実の宗を説かない/説けない坊さんには困ったものだ。御開山の示して下さった浄土真宗は、往生や本願や念仏や浄土を示すご法義であった。
それが、一文不知の愚者に落居して、なんまんだぶを称えて生死を超える道を林遊に示して下さったのが法然聖人や御開山や蓮如さんであった。ありがたいこっちゃな。

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