不断煩悩得涅槃
(フダンボンノウトクネハン)
読み下し
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
意訳
煩悩を断ち切らないままで、涅槃の領域にいたる。
『正信念仏偈』にある偈文である。
『論註』では、「不断煩悩得涅槃分」なのだが、偈文は七字なので不断煩悩得涅槃となっている。→『浄土論註』観察体相
この分とは、涅槃の一分なのか、それとも涅槃の全分なのかの論義があるが、往ってみれば判るので煩瑣な議論だと思う(笑
興味のある方は「正信偈講読ノート」を参照されたい。
この論註の「不断煩悩得涅槃分」の元の文は、『維摩経』にある「不斷煩惱而入涅槃」である。
→[大正新脩大藏經テキストデータベース]
漢文なので簡単に読み下し文をコピペしておく。
我、昔かつて林中に於いて、樹下に宴坐(座禅)せり。
時に、維摩詰は来たりて、我に謂いて言わく「『唯、舍利弗よ。必ずしも、この坐を宴坐と為さざれ。
それ宴坐は、三界に於いて、身意を現ぜず、これを宴坐と為す。
滅定より起たずして、諸(もろもろ)の威儀を現ず、これを宴坐と為す。
道法を捨てずして、凡夫の事を現ず、これを宴坐と為す。
{中略}
煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを宴坐と為す。
もし、よく、かくの如く坐する者は、仏の印可したもう所なりと」。
これでは、何のことか判らないかも知れないので、面白い超訳をUP。
>>引用開始
ちょうどその頃、維摩の住むヴァイシャリーの町に来ていた世尊(お釈迦様)は、町外れのマンゴー樹園で、500人の弟子と修行僧8000人、それから32000人の菩薩を相手に説教の真っ最中でした。
維摩の思考をテレパシーで察知した世尊は、一番弟子のシャーリプトラ(舎利佛)に言いました。
「おい、維摩のオッサンが見舞いに来て欲しがっているぞ。
シャーリプトラよ、お前さん、ちょっくら行ってきてくれないか?」
表情を曇らせるシャーリプトラ。
「いや、そうしたいのはヤマヤマなのですが、私、どうもあのオッサンが苦手なんですよ・・・
実は以前、林の中で瞑想にふけっている時に、維摩のオッサンに因縁をつけられたことがありましてね。
あのオヤジ、座っている私のところにやってきて、いきなりこう言ったんですよ。
「何をこんなところで引き籠っとるんじゃ、いい若いモンが!!
修行は、ただ座り込んでおればよいというものではないぞ。
あれやこれやと忙しく社会生活をこなし、かつ、心の安定を失わないようにすること、それを修行というんじゃ!わかったか、ボケ!!」
・・・で、私、言われっぱなしで一言も反論できなかったんです。
ホントすみません、あのオッサンだけは勘弁してください・・・」
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima002.html
>>引用終了
と、まあこういうわけで、本来は社会生活という煩悩の中にありながらも、なおかつ心を落ち着けて人として為すべきことをなしていこうという意味である。煩悩というエネルギーを転じて、よき方向を目指そうという意味であろう。
この『維摩経』の原文の意味を転じて、煩悩を持ったままでも浄土へ往生して涅槃を得ることが出来る、と仰ったのが曇鸞大師の「不断煩悩得涅槃分」である。
それを引き継いだ御開山は、『正信念仏偈』に、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」と、信心一発すれば阿弥陀如来の本願力に依って煩悩を断じて(横截五悪趣 悪趣自然閉)涅槃に入ることが出来ると仰ったのであろう。
真実なるものを自己に求めず、阿弥陀如来の真実を仰いでいくとき、真実に照らされた自らの煩悩の深さを慙愧していく仏道が浄土を真実とする宗教であった。
自らの思い描く罪悪感を、機の深心と錯覚している者がこのご法義にもいるが、真実なる浄土を欣求することを主とするのである。
蓮師が「わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて」『御文章』五の四 と仰るのもその意である。
ともあれ、御開山が使用されている用語の出拠をアレコレ探していると、より『教行証文類』の深みが味わえて面白い。
やはり、なんまんだぶのご法義は大乗の至極ではあるとつくづく思う夏の暑い日である。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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