死の五段階

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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古いFBの自分の投稿を見ていたら、YouTubeに上げられたキューブラー・ロスを取材した映像があった。

『死ぬ瞬間』までの経過を、

〈第1段階〉否認
〈第2段階〉怒り
〈第3段階〉取引
〈第4段階〉抑うつ
〈第5段階〉受容

という五段階で示したキュプラロスだったが、別の民放クルーの晩年の彼女を取材した怒れる彼女の映像を見るに、自らの死に関しては自分の論理は役に立たなかったのかもである。
なんまんだぶのご法義では、きれいに死ぬなんて嘘を言わない。醜く畳を掻き毟って、死にたくない死にたくないと喚きながら死んでいけるのが浄土真宗である。ありがたいこっちゃなあ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

https://www.youtube.com/watch?time_continue=478&v=Tp0eYiAOsZY

生まれたなら死ぬのはあたりまえ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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越前では夜伽(通夜)の席では、お文(御文章)の四帖九通目の「疫癘の章」が拝読される。

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。 (*)

伝染病(疫癘)によって次々と人が死んでいくのに「生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり」との仰せである。
このお文の趣旨の元であろうと思われる御開山の御消息にも、飢饉で次々と人が死んでいく状況のもとでの、お手紙(御消息)がある。

 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。 (*)

両者に共通するのは、人は、生まれたからには、死ぬのはあたりまえである。どうしておどろき たじろぐことがあろうか。人々の死を驚き嘆くならば、それを縁として、いそぎ自らの生死の解決をすべきであろうというのであろう。
人は何故死ぬのかと云えば、生まれたからであり、生まれた(因)からには死ぬ(果)のは当たり前である。最近は死の判定は医師以外は出来ないという風潮からかマスコミでの「心肺停止」という言葉をよく耳にする。死の三兆候として心拍停止、呼吸停止、対光反射停止という基準があったのだが、臓器移植推進のせいか、最近では死ぬことも難しい社会になったのかもである(笑

夜伽(通夜)の晩には、同行衆の『正信念仏偈』『和讃』読誦の後で、「疫癘の章」のお文を拝読する。かっては、同行、老人会、集落、垣内のお勤めが4回もあった。そしてお文も、それぞれの代表の門徒が読み上げたので、村落社会にいる者にとっては、お文を読めることが必須のアイテムであり、どれだけ地位や金があっても、お文を読めなければ莫迦にされていた。
そして、葬儀が済んで納骨が終わった後の勤行で、朗々と読み上げられるのが「白骨のお文」(*)であった。
稲城選恵和上は、日本人にとって最高の弔辞は「白骨の御文章」である、と仰っておられたが、先立つ人が、身をもって「後生の一大事」を示して下さるのであった。
ともあれ、白骨章の文は、耳にタコができるくらいに聞かされたのだが、文中の「あはれといふもなかなかおろかなり」を、蓮如さんが上から目線で、死んでいく意味を知らない奴は、あはれ(哀れ)でアホ(愚か)というのだと思い、偉そうな奴やなと思っていたのだが、本願寺派の「注釈版聖典」の脚注を読んで林遊があほだったということを知った(笑
そんなこんなで、大谷派と本願寺派の聖典の流布という意味では、本願寺派の言葉の意味を示す脚注付の『註釈版聖典』には、大谷派は圧倒的に敗北してると思ふ。
そもそも、大谷派の坊主は真面目に『教行証文類』を読んでいないし、あほみたいな往生浄土無き「近代教学」に嵌っているから、御開山が描いた浄土を知らないのであった。宗名に「浄土」がないのが、その証拠であろう(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

もし念仏するのもは

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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wikiarcのトップに、

もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。

という画像を貼っている。
宮沢賢治は、「法華経」に説かれる常不軽菩薩を理想としたそうだが、浄土真宗の家に生まれた彼には、聴聞の場で、なんまんだぶ、なんまんだぶと称える愚昧な門徒こそが、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり(若念仏者 当知此人。是人中分陀利華)」だということにまで理解が及ばなかったのであろうか。
これこそ、なんまんだぶの法を伝えることを懈怠した真宗坊主の怠慢なのだが、御開山が『華厳経』と『涅槃経』を引いて、

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ (*)
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (*)

と、された、なんまんだぶを称える信心は仏性であるから、互いに尊重してお互いの仏性を礼拝する心持で接するのが、浄土真宗における常不軽菩薩の精神であろう。
かって、本願寺派では「信心の社会性」という語で教団をリードし改革しようという試みがあった。しかし、信無き社会派の坊さんを量産するだけであった。
僧侶としてのアイデンティティー(主体性)を、浄土を目指す「念仏往生の本願」におくのではなく、世俗社会の中に求めようとした結果である。社会という近代の概念に幻惑されて、浄土を喪失した坊主の「成れの果て」であろう。
浄土教は、此土と彼土の二元論に立脚する宗教であり、一元的に把握する宗教ではない。浄土において/浄土を目指すことにおいて、自己の存在の意味を知る仏教である。本願力回向という仏陀のさとりの世界から届く、称えて聞く、なんまんだぶを知らないから、御開山が示して下さった「現生正定聚」という世界を知らないのであろう。
なんまんだぶと称える行為は、現に私の上に仏陀のさとりの世界が顕現しているのであり、それを御開山は現生正定聚といわれたのである。
ありがたいこっちゃな。

なんまんんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「正定聚」

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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『教行証文類』を拝読していると、時々、ん? となる。
林遊は好奇心のかたまりであるから、一度気になると脳内がもやもやして気持ちわるいので納得のいく解が欲しくなる。
そんなこんなで、「行巻」で引文されておられる『往生礼讃』の文の末尾に、

智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。(*)

と、ある語が気になったので、wikiarcに追記してみた。
好奇心の無い者は、たとえ若者であっても老人と呼ぶのであり、好奇心のある者はたとえ百歳であっても若者と呼ぶそうだが、死ぬまで好奇心を大事にしたいものである。「法門無尽誓願知(法門は無尽だが、すべて学び尽くそう)」、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「若我成仏…」

願行具足論

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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wikiarcの「別時意」の項に、善導大師の願行具足論を追記。

面白いことに御開山は願行具足論を使われないのだが、こういうところが勉強になる。

願行具足論

この摂論学徒の往生別時意の論破が善導大師の願行具足論である。(玄義分p.324)

『摂大乗論』では、「唯だ発願するに由りて安楽仏土に於いて、(かしこ)に往きて生を受くるを得」(*)という経の文は別時意であるとする。それを釈した『摂大乗論釈』では「譬えば、一金銭を営むに由つて千金銭を覓(もと)めて得るとは、一日に千を得るには非ず、別時に由つて千を得るが如し。如来の意もまた爾なり。此の一金銭を千金銭の因と為す。仏名を誦持するもまた爾なり。退堕せずを菩提の因と為すなり」(*)と、今の称仏は、遠い未来 (別時)に得ることをすぐに得られるように説いた方便説であるという。たとえば日に一の金銭を蓄積すれば、やがて未来に千の金銭を得ることができるようなものだとする。称仏の果を得るのは遠い未来のことだというのである。
それに対して善導大師は、たしかに願のみでは「遠生のために因」であるといえるが、『摂大乗論』では、願について論ずるのみで、行について論じていないから後の摂論学徒は誤解したのだとする。善導大師は、「今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする」と「凡小の論にすなはち信受を加へ」と仰信の強烈な言葉を発している。
そして、有名な六字釈

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分p.325)

と、南無阿弥陀仏と称えることは、南無は帰命という「願」であり、阿弥陀仏とは第十八願の乃至十念という阿弥陀仏が選択された「行」であり、南無という「願」と阿弥陀仏の「行」が具足しているから、必得往生(ひっとく-おうじょう)、必ず安楽仏土へ往生するのだとされた。
また、浄土へ往生するということは、正報(仏陀と成ること)ではなく、依報(仏の報仏国土)を目指すものであるから、摂論学徒は、この点でも『摂大乗論』の意図を誤解しているのであると論破された。なお御開山の六字釈(*)は、この善導大師の六字釈を元に本願力回向の立場で解釈されておられ、願行具足論は使われていないので注意すること。

参照→「六字釈」

wikiarcの「別時意」の項に追記。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

入法界品

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『華厳経』入法界品の菩提心の譬喩(*) を国訳に随って読み下し文を入力しようとしたが、数えたら117個もあるし、定型文なので漢文でもわかると思ひ中止(笑

御開山は、この『華厳経』六十巻の結論である、

【34】 『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(*)

の文を、信楽釈で、さらりと訓点を代えて引文しておられる。阿弥陀如来の菩提心である信心を聞いて疑い無き者は、速やかに無上のさとりを得るというのである。浄土真宗の信心とは阿弥陀如来の仏心が私のものになったということである。
そして、唐訳の『華厳経』を引いて、

【36】 またのたまはく(華厳経・賢首品・唐訳)
「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。……

以下、信を讃嘆する文を引かれる。
これは明らかに、華厳宗の「初発心時 便成正覚」の信満成仏説を意識して引文されたものであろう。
もっとも、華厳宗の相即相入の教理の意図とは違い、本願力回向によって回向される、仏心であるような信楽であることを立証されたかったのであろうと思ふ。御開山は、ほとんど人跡未踏の領域に達しておられたのである。
ともあれ、お聖教を拝読していると、こういう御開山が見ておられた世界が一分でも窺えるので、なんまんだぶの味が深くなるのでありがたい。
林遊は在家だし不惑を過ぎてお聖教を開いたので、全く仏教学や真宗学には素養はないのだが、日渓法霖師の、

今宗の学者、 大蔵中の三部を学ぶなかれ、 須く三部中の大蔵を学ぶべし。 三部は根本なり。 大蔵は枝末なり。 今の人、 三部を以て小となし、 大蔵を大となす、 謬れるというべし。

の指示によって、御開山の引文を眺めて、その出拠を拾い出す作業をすることは楽しい学びではある。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

『華厳経』入法界品の菩提心の譬喩