誕生日

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
2

「時無別体、依法而立(時に別体なし、法によって立つ)」と、仏教では言う。諸法の生滅・変化の上に時という概念を仮りに立てるそうだが何のこっちゃではある。人の時間軸は各人の経験則の上で考察するのであろうが、なんまんだぶのご法義の先人は、御開山の年齢に自己の齢(よわい)を重ねて自らの生きてきた歴史を重ねて味わうのが多い。
いわく、御開山が叡山におられた時、法然聖人とお出遇いになった時、越後へ流罪になった時などなど、自らの生を御開山の生に重ね合わせて、なんまんだぶのご法義に遇えた喜びを語るのであろう。フラッシュバックではないのだが、人界に生を受けたことの意味を少しく追憶していたらSNS内で以下のような誕生日に記した日記を見つけたのでUPしてみる。08/05/28の日記である。

今日は林遊の五十九回目の誕生日である。

お前が産まれた時は臍の緒が絡まった難産で、母ちゃんも産婆さんも苦労したという事を聴いた。
後年仏教に関心を持つようになった時、母は、お前は臍の緒を袈裟にして生まれたから、坊さんになるのかも知れんな、などと言っていたものである。

我、誕生の日は、母、苦難の日である。

親が死ぬまで反抗期で、母親の本物の慈愛を確認する為に母親に対して無茶苦茶な事をして来た。
その度に、堪忍してくれなあ、オメをこんな癇癪持ちにしてもたんは母ちゃんが悪いんやと両手を付いて謝る母親であった。
林遊が中学生の頃か、母ちゃん、なんで仏法聞く気になったんや、ようけ子供が死んだでか、という問いに子供が死んだくらいで仏法聞くような母ちゃんでねぇ。自分が死んでいく後生の一大事が心配でお聴聞するようになったんじゃ、と言ったものである。(林遊の兄弟は八人なのだが成人したのは三人である)

ボケてお念仏忘れたら、母ちゃんを叩きまわしてでもお念仏させてくれ、と、痴呆になり自分を失って行く恐怖の中で、なんまんだぶつの御恩報謝を心がけていた母であった。

ありがたいこっちゃな。生まれ難き人間の娑婆へ産んでくれた、なんまんだぶつのご法義を聞ける娑婆へ産んで貰ったのは母の恩である。そんな娑婆で林遊の五十九回目の誕生日である。

母ちゃん、産んでくれて有難う。 なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

善導大師は『観経』の流通分にある、当知此人是人 中分陀利華を釈して、

「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。(*)

と、念仏者の五種嘉誉ということを示して下さったが、安心とか信心というありもしない妄想を、追い求めている人への警句かもな。まぁ、どうでもいいや林遊の心配することではなく阿弥陀さまの心配することだしな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強だな(笑

 

 

三種の愛心

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
1

そもそも仏教では「愛」という言葉は否定的に使われる。
渇愛とか愛欲とか愛執など、いわゆる心を悩ませるものとして愛という語を使うことが多い。
例えば、最古層に属する聖典といわれるダンマパダでは、以下のように言う

210、 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

林遊は莫迦だから、人を愛したり裏切られたり、そして傷ついたりり苦しんだりすることが人生の妙味だと思っていたりもする。本当に愛し合えない存在だからこそ、返って愛おしくなるということもあるのだが、それは置いておいて三種の愛心という言葉がある。

三種の愛心とは、人が死に臨んだ時におこる三つの執着をいう。
WikiArcにUPした文章なのだが転載する。

「三種の愛心」

境界愛・自体愛・当生愛の三種類の愛心(執着心)のこと。

人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを仏は安然として見ていられないので臨終に来迎するとされた。
法然聖人は、『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』の「命終の時に臨みて、無量寿仏、其の無量の声聞の弟子菩薩衆と倶に、前後に囲繞し、其の前に来住して、慈悲加祐し、心をして乱れざらしむ。」の文から、来迎があるから正念に住するのであり、正念であるから来迎があるのではないとされた。つまり念仏を称えることによって仏の来迎があるという説を否定されている。(*)

親鸞聖人はこの法然聖人の来迎正念説を継承発展され、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「破闇満願釈」(*)

と、南無阿弥陀仏が正念であり、他力の念仏を称える行者は、すでに摂取不捨の身であるから来迎の儀則を固守すべきではないとされている。
となれば、なんまんだぶの行者は、ジタバタして死んでいけばいいのである。畳を掻き毟って三種の愛心に悩み苦しんで死ねばいいのである。
不安でいられるのは本当に安心できるものに出遇えたから、安心して不安でいられるのである。心の底から不安であるからこそ、その不安な心の、自分でも気が付かない闇の底まで、重誓名超声(聞)十方と重ねて今、すでに、口に称えられる、なんまんだぶが正念なのである。

よかったですね。遇い難い阿弥陀さまのご法義に出遇い、仏様の名前を口にする者にまで育てて頂いたのは、信玄袋を下げてお寺参りするばあちゃんの後姿や、なんまんだぶせんかい、と策励して下さった、じいいちゃんのお育てでした。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

会員VS脱会者

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

このブログ、なんか大変だな。(*)

高森会の会員は堕地獄の恐怖から逃れる為に信心を得ることに狂奔し、脱会者は、必堕無間のマインドコントロールの恐怖が抜けないから、在籍していた会の教義を否定する『聖典』の文にしがみつく。
これって、どちらも助かりたいという、我利我利亡者の我欲の煩悩の発露にしか過ぎないのだと思ふ。浄土真宗のご法義は、「本願を信じ念仏を申せば仏になる」という、非常にシンプルかつ易行の最たるご法義ですよ。順彼仏願故の、なんまんだぶが、往生浄土の正定業(正しく衆生往生決定する業因)であることを受け入れるのが、浄土教の御信心です。
高森会の会員及び脱会者の最大の欠点は、口称の、なんまんだぶ抜きで如来から回向される御信心を論じることでしょう。『無量寿経』には、易往而無人(往き易くして人なし)とありますが、なんまんだぶを称えることに依って往生成仏するという教説は、あまりにも易往であるから難信なんでしょう。
信心とは御開山に言わせれば、願作仏心・度衆生心の菩提心であり、阿弥陀如来の菩提心に包まれて、なんまんだぶを称えて浄土を期するというご法義が浄土真宗です。善導大師は「学仏大悲心」ということを仰いましたが、もしお聖教に教えを学ぶということであれば、我を拯済しつつある、仏の大悲心を学ぶのであって、自らが信心を拵えようとして、お聖教を拓くのではないと思います。そんな事を、現役会員VS脱会者の投稿を読んで思ったので、TBしてみた。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ