五濁増時多疑謗・・・

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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サーバーがクラッシュしたせいか極一部だがデータが欠損した。欠損したWikiのリンクデータは未定義なので赤字で表示される。
と、いうわけで、『御消息』の、

五濁増時多疑謗
道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒
方便破壊競生怨

の脚注を入れるとともに、以下を追記してみた。

善導大師の『阿弥陀経』の注釈書である『法事讃』にある文。『阿弥陀経』がまさに終わらんとするとき、釈尊が娑婆国土の五濁悪世の中で一切世間難信の法(なんまんだぶ)を説かれたことに由来する。

世尊説法時将了 慇懃付嘱弥陀名
五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身
大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁

〔読み下し〕
世尊法を説きたまふこと、時まさに 了(おわ)りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行(なんまんだぶ)することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教(本願の教え)を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。『法事讃』p.576

この文は、なんまんだぶを称えて浄土へ往生し、仏のさとりを開くことを目指す浄土教を誹謗中傷する輩に、なんまんだぶを称える行をそしってはいけません。もし、そしる者がいるなら、その人は生死流転の世界を流転し続けて、微塵劫を経ても苦悩の闇から出ることは出来ません、と戒めたものである。法然聖人はじめ門弟の間では、なんまんだぶを誹謗中傷する輩に、なんまんだぶの法をそしるとこのような報いがありますとよく依用された文である。

御開山が『正像末和讃」で、
(13)

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり

(14)

菩提をうまじきひとはみな
 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには
 生死の大海きはもなし

とされるのも、その意であろう。御開山は、念仏をさまたげるのは世の常である。しかし、それよって、なんまんだぶを称えることを止めれば、念仏をさまたげた者は、その報いによって流転輪廻することになるから、なんまんだぶを称えることを止めてはいけませんともお示しであった。(*)

阿弥陀仏の選択本願の南無阿弥陀仏は救いの「法」であり、この阿弥陀如来の成就された法を、口に、なんまんだぶと受け容れることが信知であり本願力回向のご信心であった。南無阿弥陀仏は救済のでありでありであるのだが、近代の知の毒に侵された者には理解不能なのであろう。
その知におかされた代表が浄土真宗の坊さんというのは、まさにアイロニー以外の何物でもないと思っていたりする。浄土真宗のお寺で、なんまんだぶの声を聞くことが少なくなったのは坊さんの不作為という謗法であるやも知れぬと思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→五濁増時多疑謗・・・

無量寿仏観経

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『教行証文類』を読んでいると、時々意味が判らない文に出会う。
例せば「化巻」冒頭で、「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり」とある。
いわゆる『観無量寿経』を御開山は『無量寿仏観経』と呼ばれるのだが、このように呼ぶ必然性があったのであろう。その意を少しく窺うためにWikiArcに「無量寿仏観経」の項目を追記し、その意を窺ってみた。
なお、無量寿仏とは、行業としては、なんまんだぶということである。
ちなみに林遊が、南無阿弥陀仏とか南无阿弥陀仏としないのは、口に称えられ耳に聞こえる称名の意であるから為念。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
WikiArcの無量寿仏観経へのリンク

引用と引文

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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註釈版聖典の『教行証文類』には、何故か七祖聖教への参照ページの表記はあるのだが、浄土三部経の引文への参照ページが記されていない。
たぶん、浄土真宗の坊さんは、浄土三部経は頭に入っているという前提なのかしらん。
ともあれ、引文の場所をマークするスクリプトがあるので『無量寿経』でマーキングできるようにしてみた。ページトップの[inmon]をクリックすれば御開山が『教行証文類』で引文しておられる文が判るようになっている。
梯實圓和上は、『教行証文類』は経論釋の引文によって成り立っているが、あれは引用ではなく引文ですと仰っていた。引用なら自説の権威づけであろうが引文することによって、前人未到の全く新しい世界を切り開いて見せて下さるのであった。

つまり引文によって、元の文にない意味付けをして創作されているのであった。だから『教行証文類』は死ぬほど難しい書物なのである。しかし基底に流れているのは、法然聖人からお聞きした、なんまんだぶという本願に選択されている行業であるから、あほの林遊にも少しくわかるのであろう。意味はわからないが、なんまんだぶと称えることは、あほの林遊にも可能である。
御開山の肖像画を拝見すれば、どれも珠数をつまぐっておられるが、なんまんだぶ、なんまんだぶと自己の上に顕現している証(さとり)の世界を実感しておられたのであろうと思ふ。浄土真宗は、なんまんだぶを称えるご法義であり、それが願作仏心という阿弥陀如来から回向されて仏心がわたくしの上で顕現しているのであった。
「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ」の、念仏衆生摂取不捨であった。ありがたいこっちゃなあ

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→註釈版無量寿経へのリンク

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土三部経の一である『観経』の流通分には、
若念仏者 当知此人。是人中分陀利華

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり

と、ある。
分陀利華とは、梵語プンダリーカ(puņđarīka)の音写で、白蓮華(びゃくれんげ)のこと。蓮の花の中でもっとも高貴なものとされる。なんまんだぶを称える者は、この分陀利華に譬えられるような者であるというのが『観経』の結論であった。
現代語訳では、

もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。

である。浄土真宗では安心とか信心とががうるさいのだが、ようするに、なんまんだぶの上で論ずる安心や信心であり、行なき信もなければ信なき行もないのであった。なんまんだぶを称える行が本願名号正定業なのであり、これを信じるのが正当な浄土真宗の法義なのである。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(*)

なのである。

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造悪無碍

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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WikiArcに「造悪無碍」の項目を追加。

「悪を作ることに(さまたげ)無し」ということ。悪を犯しても往生浄土のさまたげにはならないという領解をいう。念仏一発、または信心一発の後は、すでに往生浄土の業因が決定したのだから、その後に犯す悪事は往生のさまたげにはならないと主張する。これは極端な一念義の系統から発生した領解であろう。
法然聖人は、比叡山延暦寺からの専修念仏停止の訴えに対し、門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った『七箇条の御起請文』の四条に、

念仏門において戒行無しと号して、もっぱら婬・酒・食肉をすすめ、たまたま律儀を守るものを雑行と名づけて、弥陀の本願を憑む者、造悪を恐るることなかれというを停止すべき事。

右、戒はこれ仏法の大地なり。衆行まちまちなりといえども同じくこれを専らにす。これをもって善導和尚目をあげて女人を見ず。この行状のおもむき本律の制にも過ぎたり。浄業のたぐい、これに順ぜずは総じて如来の遺教を失し、別しては祖師の旧跡に背けり。(かたがた)、よるところ無き者か。

とあり、悪を造ることはははばかることはないという主張は、法然聖人在世の頃からあった異義と思われる。すでに造ってしまった悪の束縛といまだ造っていない悪とを混同するところからうまれる発想である。ただ、当時の世間の視点からみれば悪を為すことでしか生きられない一般民衆にとって、悪は往生浄土にさわりとはならない、唯ゞなんまんだぶを称えよという、全く新しい往生浄土の宗義の教説は、絶大な人気を得て燎原の火のように日本中に広がったのであった。
一念義についてより深く知りたい知的好奇心のある方は、一念と多念について考察されておられる『一念多念証文』等を参照されたし。

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本願ぼこり

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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WikiArc 「本願ぼこり」の項に追記した。

悪人を救う阿弥陀仏の本願力が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない造悪無碍の者のこと。現代では、戒を用いない浄土真宗の僧侶・門徒への倫理的批判に、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおることも本願ぼこりの一種である。凡夫とは「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(*)と、汝は凡夫であるという仏の側からの教戒である。このような凡夫という表現は、わたしの側でいう、どうせわたしは凡夫ですという開き直りの言葉とは違うのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」といわれる所以である。
浄土宗清浄華院第五世、向阿証賢(1265~1345)の『歸命本願抄』には、

本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。

などの用例があり、本願にほこって罪を軽く思うような者は、後には無帰命になるといわれている。ちなみに、蓮如上人の次女である見玉尼(1448-1472)は、口べらしのため禅院の喝食として外へ出され、成人しては浄華院にいたが蓮如上人の吉崎建立の頃に本願寺に戻る(*)。他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現した蓮如上人のご教化は、見玉尼を通しての浄華院流からの示唆があったのであろう。(*)
なお、『歎異抄』第13条では、造悪無碍のすがたとともに、「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。」(*) と、本願を信じる正しいすがたとしても表現されている。この場合は自分では手がつけられない犯した罪の深さを内省するところから、他力をたのむ信心に言及したのであろう。「称仏六字 即嘆仏即懺悔(仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり)」(*)である。

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サーバを復活してみた

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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hongwan.net  wikidharma.org を運営していたサーバーがクラッシュした。
御開山は敬愛する曇鸞大師の入滅を
(29)
六十有七ときいたり
浄土の往生とげたまふ

と、されてられるので、林遊は自分の齢(よわい)に重ねて、サーバーのクラッシュもむべなるかなとしばらく抛っておいた。9年間文句も言わすに日夜浄土真宗のお聖教のデータを配信するために動いていたサーバーであった。OSは適宜バージョンアップしていたのだが、WikiPediaで使われていると同等のMediaWikiのソフトのバージョンは古いままであった。

そんなこんなの中で、ドメインの更新案内が来たのだが、家内が旦那様は誰の助けも得ないで在家の一門徒として自分の好き勝手にやってたのだし、自分のネット上の勉強部屋が無くなったらさみしいでしょというので、今一度、データーをサルベージしようと思いたった。
しかしのかかし、9年も使っていたボロボロのサーバーマシンなので劣化が激しく新しいサーバーマシンを買ってデーターを移行しようと思い立つ。で、新しいMediaWikiのソースを眺めたのだが浦島太郎状態で、構成に必要なプログラム群や自前のフリガナなどのExtension(Mediawikiの拡張機能)のプログラムの作成方法が変わっているので、老いを自覚した。
で、懐かしい「鶴田浩二 傷だらけの人生 」の昭和のフレーズ(笑

♪古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。(*)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ