信心正因

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浄土真宗の「信心正因」とは、信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物(ものがら)ではないことをいう。この無い状態を「正因」というのである。

越前の古参の門徒は、「勅命のほかに領解無し」という言葉で、なんまんだぶという可聞可称の称名法を受容し実践することが「信心正因」の意味であると領解したのである。
真実信をあらわす「信巻」三心結釈で、
「真実信心 必具名号。名号必不具願力信心也(真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり)」(三心結釈p.245)と、された意である。

ともあれ「信心正因」の法を説く真宗坊さんの説く法の真偽を判断する材料は、口称のなんまんだぶを称えているかいないかであった。嘘の法義を説く布教者には真実を説く力はないのである。
「信心正因」とは確固たる信を意味する語ではなく、なんまんだぶと称えることが出来るか出来ないかという意が「信心正因」という語の意味であった。浄土真宗の「信」とは、知の崩壊によってめぐまれる信であった。ありがたいことである。

wikiarcの信心正因の項

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

浅原才市さんのうた

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浅原才市さんは、

仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり

罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく

といわれている。
前段では、「罪の詮索無益なり」とされているのだが、後段では「罪の詮索する人はここで金剛心をいただく」とされている。
一見すれば矛盾するような言葉だが、これについて考察してみた。

「トーク:二種深信」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

たとひ大千世界に

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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『浄土和讃』の、

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (讃阿弥陀仏偈和讃)

という句を真剣に聞法をすべき根拠という理解があるそうだが何を聞くのか明らかではない。
この和讃は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の漢讃を御開山が和讃したものである。(*) この和讃は二首を一対として領解すべきである。

もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。(讃阿弥陀仏偈)

(30)
阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり (*)

たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃阿弥陀仏偈)

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (*)

なんまんだぶの名号を聞信し、歓喜し讃嘆したてまつれば、その功徳はわが身に具わり、たった一声(下至一念)の〔なんまんだぶ〕であっても涅槃をさとる無上の大利益をこうむるとという意が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」という和讃の意であった。なお、この句の元となった『讃阿弥陀仏偈』の「阿弥陀を聞けば、また退かず(聞阿弥陀不復退)」の文も、現生不退(聞名不退)の証左となったのであろう。
御開山の示される御信心とは、本願(第十八願)に示された選択本願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を念仏成仏の業因と聞信し受容することを信心正因というのであった。
この「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くべきは仏願の生起本末を全うした〔なんまんだぶ〕を称え聞くことであったのである。御開山が「真実の信心はかならず名号を具す(*)とされた所以である。

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