おねんぶつの勧め

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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『教行証文類』「行巻」には、念仏と諸善(TS会のいう善)とを比挍対論されておられる。いわゆる一乗の機教という、機と教えの対論で、どちらが勝れているかの釋である。

(98)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。
教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

(99)  また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雑毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。
聖典セミナー『教行信証』梯實圓 著
http://wikidharma.org/4af8af1a97530

『無量寿経』では易往而無人とあるが、TS会の人は善に迷って念仏を称えないから、往きやすいのに無人なんだなろうなあ。
まあ、いくら言っても聞かないTS会の会員は、もう一回りしてくるこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強

聖道門と浄土門

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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TS会の人は浄土真宗を通じてしか仏教という教えを捉えていないのでないかと思ふ。
特に講師と言われる人たちは、高森氏の歪(いびつ)な仏教理解の視点を離れて仏教というものに対して謙虚に学ぶべきだろう。

高森氏自身が聖道門仏教と浄土門仏教の綱格の違いが分からないから、TS会では聖道・浄土の教えが混じり合って、意味不明な高森教になってしまっているのである。
浄土門仏教は聖道門仏教を批判的媒介項とした仏教であって、いわば人間側の論理ではなく如来の側からの論理によって成り立っているのである。このことが理解できないから、

・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などと善という名の献金と人集めを声高に叫び、TS会の講師も高森氏の蒙昧な仏教理解に引きづられて、人生の時間を無駄にしているのであろう。
そもそも、浄土真宗のおける善とは『浄土論註』の真実功徳釈、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。『浄土論註』p.56

に、あるように、凡夫 人天の諸善、人天の果報、因も果も、すべて顛倒であり虚偽であるとされている。
たぶん、修善を奨める高森氏が、浄土門と聖道門を分判し仏教の綱格が違うのだという、道綽禅師の「聖浄二門判」を知らないからであろうと思われる。

道綽禅師の『安楽集』の「聖浄二門判」を600年後の法然聖人が、

「いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。」『選択本願念仏集』「二門章

と開顕されたのが浄土宗である。

いわゆる、全仏教を聖道門と浄土門に分判し、浄土門仏教は聖道門の論理と全く違う論理による仏教であるとされたのが法然聖人であった。
これは仏教史におけるコペルニクス的転回であって、まさに自己を中心とする世界観ではなく阿弥陀如来を中心とする世界観であった。浄土真宗ではあまり注目されていない道綽禅師だが、この「聖浄二門判」が600年後の法然聖人の琴線に触れたのである。

これを受けた親鸞聖人は、浄土真宗は人間側の論理ではなく、阿弥陀如来の側からの論理によって成り立っていると「本願力回向」という阿弥陀さまの本願のご法義を顕わして下さったのである。
廃悪修善が救済の条件であるなら、廃悪修善ができない人は救済対象ではないのか。犯してしまった悪に泣き苦悩している人は仏教では救われないのか。
このような、自業自得の因果論から、煩悩に悩み苦悩に喘ぐ凡夫に焦点を結んだのが阿弥陀如来の本願のご法義である。
自因自果の自業自得の仏教から、いわば苦悩する衆生への医療の論理で成り立っているのが浄土真宗である。

法然聖人は『選択本願念仏宗』「約対章」で、TS会の奨める雑善に約対して念仏の優位性を、

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。『選択本願念仏集』「約対章

と、示されているのもその意であり、親鸞聖人が五逆罪、謗法罪を犯した者、仏教に関心のない者に対して、

それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。『教行証文類』「逆謗摂取釈」

と、医療の論理を説かれているのもその意である。

この阿弥陀如来のご法義の対して、高森教では病気になったら、それは自因自果だからあきらめろ、善をしなかったから自業自得の当然の報いであるから地獄へ行けというのであろう。これはもう仮ですらなく善と恐怖を利用した邪義の宗教と言わねばならないのである。

葉書の法語

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葉書の法話

深川和上は毎月、朝日歌壇で採取した短歌に託したご法語を送って下さる。

今月は、

みどり児(ご)を 光背のごと 背に負いて
寒のひと日 ほのぼの 温し

に、材を採った法語であった。
この法語で思い出した和上の法話がある。

我々は48願を聞いたのはどこであったか。
それは、法蔵菩薩の背中におんぶされ、師仏である世自在王のみもとで、
この子をを仏にします、この子を必ず仏にしますと、せつせつと訴えられて建立されたのが48願であるとの仰せであった。

よくお寺で門徒が称える「讃仏偈」には、
仮令身止 諸苦毒中
我行精進 忍終不悔
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ)
現代語:
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。

と、ある。
『無量寿経』に説かれる因位の阿弥陀如来は、初めっから林遊へ回向するために48願を建立されたのである。
生きる意味も目的も絶対の幸福も知らない林遊のために、お前の死の「帰」する処は浄土である、お前の「依」って立つところも浄土であると、生と死の帰依すべき真実というものを告げて下さる。

私の誓願に間違いがないと私が安心しているのだから、お前は不安なままでいいではないか。お前の不安なままが、私が建立した浄土へ迎え取るという誓願なのだと、『無量寿経』の教説は告げて下さる。
生きることに意味があるように、死ぬ事にも意味があるとの教説である。

林遊がしっかりしているから阿弥陀如来がしっかりするのではない。阿弥陀如来がしっかりしているから、不安におののき、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩の中で、なんまんだぶと阿弥陀如来のみ名を呼び、これさえあったらなあと不安の中で安心出来る世界があるのである。

私を背負うて本願となす。如来さまの仕事だ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

田んぼでへをこく

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いね

ひえ

ひえの穂

これは越前の方言であるが、田んぼで屁をこく(する)という意味ではない。
画像をUPしたが、田の雑草に稗(ヒエ)というものがある。
このヒエを訛って「へ」と言い、田んぼへ行って稗を扱(こ)く、(抜く)という意味で、田んぼでへをこくと言う。

さて、この稗であるが、稲と同じイネ科の植物であるから画像にあるように、苗の状態では百姓であっては見分け方が難しい。
しかし、成長して大きくなれば稗は独特の穂を付けるので、見分けることが素人でも可能になる。

閑話休題

『大無量寿経』には生因三願として、18、19、20の願がある。
この願の中で阿弥陀如来のご本意の願は18願であることは曇鸞大師の『往生論註』の三願的証を見るまでもなく、浄土真宗では当たり前の事実である。

しかるに、TS会では、18願に入る為には19願に誓われた菩提心を発して、もろもろの功徳(修諸功徳=善)を修さなければならないと説く。
親鸞聖人の顕わされた『教行証文類』は、18願の真のご法義を「教行信証」という体系で説かれ、邪と仮の宗教は「化身土文類」で表しておられる。

いわゆる、教→行→信→証と、真仏土への過程を阿弥陀如来の回向法として顕わしておられるのが18願の、阿弥陀如来の本意の御法義である。
「化身土文類」では仮の宗教を説くのであるが、この化身土文類では最初に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
http://wikidharma.org/4b8e7059ea86f

と、最初に往生すべき果である化身土を出されている。

親鸞聖人が、何故このような果を先にする表現をなされたかといえば、結果を先に出すことによって、この化身土文類で説かれている19願20願の道を行くのではありませんよ、とのご注意である。

19願を修している人、20願を修している人には18願の全分他力の道は見えないのである。

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}、
http://wikidharma.org/4b8e79842b38d

と、標挙されて、19願(観経)、20願(阿弥陀経)は『大無量寿経』の教えではないとされている。
至心信楽の願  18願
至心発願の願  19願
至心回向の願  20願
と、三願の<信>を出されて、獲る結果を先に出されているのは、信は似ているようだが結果において違うのですよと、最初に往生すべき果である化身土を出されているのである。

これは、稗の話のように、因である信はよく似ているように見えるが、結果(稗の穂)を見れば違いが歴然とするのですよという、御開山の思し召しである。
化土という結果を先に出されて、この道は行くのではありませんよと仰るのが、「化身土文類」存置の理由なのだが、この仮の本願を利用して人集め金集めをする人間が現れるとは、親鸞聖人の想定外の事であろう。

仮とは、疑いによって如来の真意を領解出来ない人を、真実へ誘引するという意味も、もちろんあるのだが、所詮は偽物であるという事だ。この偽物の稲に似た稗を簡非(えらび捨てる)するのが、結果を先に示す化の浄土である「化身土文類」の説相である。

コピー&ペースト正本尊

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偽造本尊

偽造本尊

TS会のご本尊は、貼り合わせの偽造だったのか。

親鸞聖人のご署名を真っ二つに分断するなんて酷すぎる。
愚禿と名乗られた親鸞聖人の深い御心を無視するのが、高森氏の深いみこころなのかな。
現物が手に入ったら、しかるべき処で御真蹟を精査して貰おうと思っていたけど、その必要もないか。高森氏は、まさかネットで御開山の御真蹟が公開されるとは予想してなかったんだろうな。
それにしても、昭和51年発行の親鸞会と本願寺の主張『どちらがウソか』で以下のように記述してたTS会だったのに、切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹ものだよな。
「言うまでもなく御本尊とは、読んで字の如く、根本に尊ぶべきものであり、宗教、特に仏教にとっては最も重要な意味を持つものであることは、何人も認めるところであります」(『どちらがウソか』親鸞会p5)

正本堂とか正御本尊とか変に正という事にこだわるTS会なのだが、こんなコピー&ペーストしたものを「正御本尊」と呼び、夜中に脱会者宅へ押しかけて取り返そうとするって、おかしな行為だな。偽造した本尊だと世間にばれるのが怖いから、相手の迷惑も顧みず夜中に大勢で押しかけて無理やり回収しようとしているのだろう。かまたさ~んと絶叫する女性の声が哀れだ。

TS会って、やっていい事とやっちゃいけない事の区別がついてないんだろうな。それにしても親鸞聖人の御真蹟を真っ二つに裁断するなんて、宗教者として以前に人間として有り得ない行為だよなあ。
『どちらがウソか』と他を非難する前に、偽造の偽物の本尊を会員に下付してきた罪は重いな。
もちろん、それに加担してきたTS会の幹部や講師はウソの本尊を頒布した責は当然に取るべきだなと思ふ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

果因の道理

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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阿弥陀如来の果が因になるのです

TS会では善因善果 悪因悪果 自因自果の因果の道理をやかましく言うらしい。これに嵌って苦しんでいる人が多いと思うのでちょっと書いてみる。

米を作る為に因である種籾を播けば、果という稲が出来る。当たり前の事である。
しかし、ちょっと待て、その種は何処から持ってきたと問えば、去年獲れた稲の種籾だと答えるであろう。
つまり、去年取れた「果」である種籾を「因」として今年の果である稲を獲るわけである。

浄土真宗では、因位の阿弥陀如来が法蔵菩薩として五劫兆載の修行の果として、衆生を救う為に全徳施名と名号になって下さったというご法義である。阿弥陀如来から言えば名号は果である。

この如来の徳であり果である名号を林遊が受け取るのを信心といい、これが往生成仏の種(因)であるというのである。

(果=因)→往生成仏の果、ということである。

果である阿弥陀如来の名号が、林遊には因となって往生成仏の果となるのである。
単純に言えば、仏願の正起本末を聞くとは、阿弥陀如来の果を聞くことであり、その果が林遊の往生成仏の因であるという事を聞くことである。

TS会では善因善果として善を奨めているが、人間の行った善は往生成仏の因にはなり得ない。「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」というような理屈は本願力回向の浄土真宗ではあり得ないのである。
人間がどのような善(因)を行っても、それは人間の世界での因果であって阿弥陀仏の世界の因果ではないからである。

『往生論註』真実功徳釈では、真実ということを以下のようにいう。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。
往生論註 p56

凡夫人天の諸善や果報は、因も果もすべて顛倒であり虚偽であるという。因位の法蔵菩薩の智慧清浄の業によって成就された浄土には、凡夫人天の善行は不実なのである。TS会のように、このような顛倒・虚偽の善を追い求めさせるような幼稚な因果論こそ、会員を虚偽の善へ向かわせて阿弥陀如来の選択された真実の道から遠ざけているのである。

浄土真宗は往生即成仏であり、仏に成る為には仏の果を用い、その果を林遊の因として仏に成るご法義である。
『尊号真像銘文』では、 安養浄土の往生の正因は念仏を本とすとある。これが仏になる種(行業)である。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
尊号真像銘文 p665

人間の種(因)ならまた人間という果を生み、仏の種(因)なら仏に成る(果)のは当然である。仏の果である種、仏の功徳の総体である名号を称えるから何の不思議もなく仏に成るのである。当たり前のことであろう。

なんか、称名正因みたいな文章になっちゃたな、まあいいか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね

藤原正遠師のご法話

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親のこころ、子のこころ
 
私は親のこころを教えて貰い、また子のこころを教えてもらって、救済されました。
親はいつも私たちに詫びつづけていらっしゃるのです。次に親はいつも私たちに頼みつづけていられるのです。また親は、いつも私たちに力づけつづけておられるのです。では親は何を私たちに詫びつづけておられるか。親は私たちに申し訳ないとおっしゃるのです。
 
貪る心のおこるのも、腹の立つのも、愚痴の心のおこるのも無理はない。
みんな私に責任のある事だから相済まぬと、頭を低うして手をついて、あやまりつづけておられるのです。
蛇は青竹で子どもになぶり殺される。無始曠劫からそうである。老猫は首をしめられて川に流され、子猫は余り多く生まれると、野辺にすてられる。
生まれ出てやっと飛べるようになった蛙は、恐ろしい蛇ににらみつけられ、その先の割れたへらへらの舌に巻き込まれ、そのまま蛇の舌に溶けてゆく。
 
私が生み出したからこそ、こんな苦労をお前らにかけるのだ。本当にお侘びの仕様もないとおろおろになって、親は私たちに侘びつづけていられるのです。そうしてまた私たちにお頼みになっているのです。
しかし苦しかろう、やるせなかろう、しかしお前に与わった道を歩いてくれ。その道を歩いてくれないと、私の国がこわれてしまうのだとおっしゃるのです。
足の裏もひどかろう。いつも土だけ踏んで、しばらくも大空に向かって大気を呼吸するひまもない。地上から一足上がったかと思うと、また次には塵芥の土の上に、すでに足の面をすりつけられている。
 
しかし足の裏よ、お前はその大地を踏みつけてくれないと、私の国が毀れるとおっしゃるのです。
松の木よ、お前も動きたかろう。しかし雨の日も嵐の日も、そのままそこに何百年も立ってもらっていないと、私の国が毀れるとおっしゃるのである。
暗い夜。星もささやいてくれない夜、心細くて夜の明けるのがどんなに待ち遠しいことだろう。
しかしその暗さの中に、じっと辛抱してくれ、頼む、とおっしゃるのです。私だけではありません。有情非情、新羅万象に向かって、親は詫びつづけまた頼みつづけていられるのです。
 
そうして今度は私たちを力づけて下さるのです。それでいいのだ、あやまちでない。罪ではない。
みんな私が頼んでしてもらった仕事だから、一切気にしないでそのままやってくれ、そのまま誰が何といっても、すべて私の仕事をしてもらっているのだから、今日までのこともまた明日のことも、何が起ころうと明るく進んでもらいたい。気にせずに行ってもらいたいと力をつけて下さるのが、親のこころであります。
 
私は殺生罪を犯しました。偸盗をいたしました。まったく五戒の破れ通しです。戒どころか一切が悪、一切が非、極重悪人です。
いやいや、そうでない。みんな私の方に責任があることだ。
ほんとうにお前にそんなに心を痛めさせて申し訳ない。みんなそのままお前の一切、悪と思っていることが、私の仕事をしてくれているのだ。
 
罪をおかせば報いが必ずくる。その報いの中で、さぞかしひどかろうが、それも私の仕事だ。
どうかそのまま、その報いの中に歩いてくれとおっしゃるのです。
そうして最後に、さびしかったら私の名前、親の名前「南無阿弥陀仏」と呼んでくれと、お頼みになるのです。
 
南無阿弥陀仏の中に、いつも私はいる。
 
南無阿弥陀仏がお前の親のふところだから、いつも私のふところに帰ってきておくれ、そうして私のふところで泣いてくれ、私のふところの中で怒ってくれ、愚痴を言ってくれ、貪瞋痴のまん中で、三毒の煩悩のくるくる舞いのまん中で私の名を呼んでくれ。
私はいつもお前を両の手で迎える、抱いてあげるとおっしゃるのであります。
 
私の親は、まあ前述のような親様であります。私はこの親の告白をきかされて、白然に親から子のこころをいただいたのであります。「わかりました。」よく親様のおっしゃることがわかりました。私はあなたからいただいたお与えのままに歩かせてもらいます。その道が蛇の道であろうが、蛙の道であろうが、松の木であろうが、もう私は文句は申しませぬ。
お与えのまま歩かせてもらいます。この決意が私の子ごころの心であります。
しかしその決意はまことに立派であったが、しかし実際の生活にぶつかると、一歩も私は私で歩けないのです。
 
しかし幸いなるかな、行き詰まり、ころび、暗闇のところには、親様の方から私の口を割って「南無阿弥陀仏」と流れて下さいまして、そうして私を摂取して下さいます。
私の胸にほのぼのと、やわらかい光、あたたかい光を与えて下さいます。障りが多ければ多いほど、み親の慈光は、私を包んで体のしこりを溶かして下さいます。心の闇を明るくして下さいます。
私の称える念仏なら取りおとすかもしれませぬ。苦しまぎれに忘れるかもしれませぬ。親から廻向のお念仏です。暗いほど灯(ともしび)は明るくなるように、私は孤独になればなるほど、お念仏はしげくあらわれてくださいます。
 
病魔が襲えば襲うほど、清水のわくようにこんこんと大悲の浄水で、体も心も洗って下さいます。
愛欲の広海に沈没して、名利の太山に迷惑し、貪愛瞑憎の雲霧、つねに私の心を閉ざします。
一秒一刻もとどまりませぬ。それにつけても、大悲心の親ごころは、影に形の添うがごとくしばらくも離れられませぬ。
 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 
ほんとうに私は、この親さまのこころにふれて、三世の業障から一時に解放されました。また閉ざされるが、いつもご廻向の念仏によって解放していただきます。
私は全く救済されたと言わねばなりませぬ。また念々救済され通しと言わねばなりませぬ。また明日も、未来永劫に救済されることに間違いないと言わねばなりませぬ。いや、救済されるもされぬもありませぬ。親心に遇い、親が私であり、私が親である。
有限が即無限、無限が即有限である。ここまで知らされますところに、言うことはなくなります。
いや、言うことはなくなりませぬ。言うことだらけであります。苦悩の有情はさらに苦悩の深まるばかりです。だから南無阿弥陀仏の名号が与えられている。
 
障り多きに徳多し。
南無阿弥陀仏。
 
煩悩を断じて言うことがなくなったのでない。
「障り多きに徳多し」の妙薬に遇って、私は言うことがなくなったのであります。
 
「おやのこころこのこころ」藤原正遠師より