四箇条問答から

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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御開山の著された『西方指南抄』に「四箇条問答」という法然聖人の法語がある。御開山は「行巻」(*) と「証巻」(*)、「真仏土巻」(*) 等で、『浄土論註』の「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」の、同一念仏無別道故の文を引いておられる。よほどこの語に関心がおありであったのだろう。
御開山と法然聖人の法門の立て方の差異は、『教行証文類』の行から信を別開したところに特長がある。もちろん御開山は、法然聖人の忠実な弟子であり、法然聖人の示して下さった浄土教の真意はこれだという意で『顕浄土真実教行証文類』を著されたのであり、浄土宗(鎮西派)の学者たちのいう背師自立(師匠に背いて勝手に自分の義を立てた異端者)ではない。
梯實圓和上は、『法然教学の研究』のはしがきで、「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、 法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由 は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』(*)や醍醐本『法然聖人伝記』(*)『三部経大意』(*)などをみずに法然教学を理解したた めに、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである」とされておられる。深川倫雄和上は、安心とか信心という形而上の林遊の疑問に対して、なんまんだぶを称えるという浄土真宗のご法義を示して下さった。ありがたいことである。
まさに、御開山が「大経讃」に、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

とあるごとく、念仏成仏これ真宗の、なんまんだぶを称えて往生成仏するご法義であった。衆生の心の作用を往生成仏の因(信心)とすれば、識揚神飛(心はうわつき、精神はつねに動揺する)ので、口に称えられる、なんまんだぶを「本願名号正定業」とし、これを受けいれることを「至心信楽願為因」とされたのであった。
ともあれ、以下、「四箇条問答」の問答の一文をウェブのログとして保存しておく。

問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。

答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらするなり。これは無按内のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛の ゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせ ざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。

意訳

問い。法蔵菩薩が本願で約束なされたのは、十声でも一声でも称えた者はということですが、一声 称えた後は法蔵菩薩と申されたときのお誓いのお心によってそれ以上に名号を称えなくてもよいのでしょうか。

答え。関心をもっていない人は、このように、法蔵菩薩と申した当時誓った念仏を称えれば往生するのだという気持ちで、本願を信じないで称えても往生することはできないと思うのです。念仏には、よしあしがあるのだと考えるのは何も知らないからです。法蔵菩薩は五劫という長いあいだ思いをめぐらし、人びとが仏のみ名を口に称えないで、心の中で仏を念ずることを本(もと)とすれば、こころがあらく乱れがちで、落ち着きがないから往生することはおぼつかないと考えられて、なんまんだぶ(名号)を称えることを本願とされたのです。
なんまんだぶは、どのように心が乱れていてもよいから称えなさい。称えさえすれば、法蔵菩薩と申された昔、本願に誓ったものだと心のうちに思われないでも、自然に本願だと思い出すのが、このなんまんだぶ(名号)なのです。それ故、昔誓われた本願だと、ことさらに思わなくてもよいのです。

もうすぐ吉崎での「蓮如さんお帰り」の時期なのだが、吉崎の地で東西の別院での門徒の行業の違いは、大谷派では、なんまんだぶを称えないということである。左巻きの大谷派では、あの浄土から名号(なんまんだぶ)となって届く、さとりの世界を見失っているのだろうな、どうでもいいけど。

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有漏と無漏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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有漏路(うろじ)から 無漏路(むろじ)へかえる 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け。

この句は一休宗純のものだと伝えられている。有漏(うろ)とか無漏(むろ)とはあまり聞かない語であるが、漏とは仏教で、漏れ出ずるもの、汚れを意味し煩悩のことである。この煩悩が有る状態を有漏といいい、無い状態を無漏という。
一休禅師は、煩悩が充満するこの世(有漏路)から、煩悩の寂滅したさとりの世界(無漏路)へかえる自己の境地を自分の名を詠みこんで「一休み」としたのであろう。仏教で迷いとは目指すべき方向が判らないことを迷いという。一休禅師のような禅門では、目指す処、かえるところが判れば、あとは「雨ふらば降れ 風ふかば吹け」であろう。
良寛禅師が大地震の見舞いに「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」とされているのも同じ意であろう。

さて、この有漏と無漏は修飾語としても使われる。有漏智(有漏の煩悩より生じた智)と無漏智(煩悩の無い領域から生ずる智)や、有漏善(煩悩から生じた善)、無漏善(煩悩の雑わらない善)などである。
浄土真宗は、本願力回向の全分他力のご法義という。これは阿弥陀如来の大願清浄の報土へ往生することは、凡夫の修す有漏の善では不可能であるということを意味する。
人間のなす行為は有漏であり、

「有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく」(*)

なのである。

かって、浄土真宗に善の勧めはあるか?、などとあほなことを問題にしていた団体があった。浄土真宗とは往生浄土の真宗という意味であるから、さとりの世界である無漏の浄土に往生するには有漏の善では不可である。
ゆえに、阿弥陀如来は、

如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(*)

と、無漏である、至徳の尊号である「なんまんだぶを」を、如来の至心として回施して下さったのである。これが「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」(*)であり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(*)ご法義であった。

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