放下著

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
0

放下著(ほうげちゃく)

これは禅語であって、著は着ではない。
放下着なら下着を放てという意味になり、パンツを脱げという意味になる(笑

放下著とは、自分が自分がと思っている想いを捨てろという意である。
私は信心を獲得したとか、私は悟ったという増上慢の輩に対して、その信心とやらや生半可な悟りを捨てろという言葉が放下著である。

問う 一物不将来の時如何
(何も持っていないときはどうですか)

答う 放下著
(その大事に抱えているものを捨てろ)

問う 一物不将来、箇の什麼をか放下せん
(一物も持っていないのに何を捨てるのですか)

答う 恁麼なら担取し去れ
(それならそれをひっ担いでいけ)

問者、言下に大悟す。
(問うた人は一言のもと大悟した)
『趙州録』

禅問答はさっぱり判らないが、三田源七さんの『信者めぐり』に次のような話がある。

源七さんは信心/安心に苦しみ、あちらこちらの同行を訪ね歩いた。
美濃の、おゆき同行を訪ね四日間話を聞いたがどうしても判らない。
四日目におゆき同行に別れを告げた。
おゆき同行は、杖にすがって雪の中を見送ってくれた。
一、二町行くと、
「お~い、お~い」と呼び戻され、何事かと思って戻った。
すると、おゆき同行は源七の手を握り、
「源七さん、お前は信心を得にゃ帰らぬと言うたなあ」
「はい左様申しました」
「けれども何処まで行かれるか知らぬが、もしやこの後において、いよいよこれこそ得たなあというのが出来たら、如来聖人様とお別れじゃと思いなされ、元の相(すがた)で帰っておくれたら、御誓約どうりゆえ、如来聖人様はお喜びであろう」と言った。
源七さんは、その場では何のことやら訳がわからなかった、と後年述懐したそうである。

蓮師の『御一代記聞書』213には、
心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E4%BB%A3%E…
と、ある。
現代語:

蓮如上人は、「ご法義を善く心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。
反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。
弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。
ですから、『口伝鈔』には、「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」と示されているのです。

浄土真宗は阿弥陀如来のご本願のご法義である。
私の救われぶりの話ではなく、如来の救いようを聞信するご法義である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、ほら、救いがすでに届いておるではないか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

あたる

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
0

なんまんだぶは面白い。

才市さんは、なんまんだぶは、こちらに中(あた)るのだという。

わしが、ねんぶつを、となえるじゃない、

ねんぶつの、ほうから、わしのこころにあたる、ねんぶつ。

なむあみだぶつ

中(あた)るは的中と熟すように、真正面からものにあたるという意味である。
才市さんは念仏は私が称えるのではないという。
念仏の方がわしの心にあたるのだという。
おもしろい表現だが、これこそなんまんだぶである。

中は食中毒と熟すが、まさに毒に中るのであって、自らが毒にあたろうとするのではない。

ねんぶつの、ほうから、わしのこころにあたる、ねんぶつ。

最初のねんぶつの語は阿弥陀さまのねんぶつ。
そして、わしのこころに中ったねんぶつは、なむあみだぶつ。

文字でもなければ言葉でもないねんぶつ。
文字や言葉で顕せない世界から、林遊のこころにあたる、ねんぶつ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ

林遊が称えるのではなかったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

この教団、もう駄目かも

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
0

門徒の懇念で新装成った御影堂。
明治28年に完成した木造建築では最大の広さを誇る御影堂である。
修復後の御影堂はピカピカして往年の古ぼけた味わいが無くなっている。
新しい瓦屋根を眺めながら、俺の寄進した瓦は何処にあるんじゃろと門徒同士の雑談。

林遊は、御堂の正面で大声で

な~んまぁ~んだ~ぶ~!!!

傍にいた坊主がびっくりして、よく透る声ですね。
あたりまえじゃ、声の大きさでは負けたことがないわい。

「正覚大音 響流十方」(正覚の大音、響き十方に流る)と、法蔵菩薩は師仏を讃嘆なされた。
法蔵菩薩は「我至成仏道 名声超十方」(われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 )と四十八願に重ねて我が名を届け聞かせるというなんまんだぶである。
御開山は「名声聞十方」と、聞けとお示しだから称えなければ聞こえないのである。

本願寺派の方はご存知であろうが、大谷派ではなんまんだぶの声を聞くことはほとんど無い。
春先には吉崎で蓮如さんの御忌ががある。
ここで東西別院の参詣衆の態度を比べると、本願寺派の門徒はなんまんだぶを称えるが大谷派の門徒はめったになんまんだぶを称えない。
家のじいさんは、本山では御念仏をしたらアカンとでも教えているのか、と苦言を呈していたものだ。

法要次第は真宗宗歌で始まった。
三番まで歌うのかと思ったら一番だけで終わり。
真宗宗歌は一番は求道、二番は安心、三番は報謝伝道になっているのだが一番だけ。
清沢満之師の求道主義、曽我量深師の唯識的真宗理解が大谷派の教学の基礎になっているそうだが、「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。」の御開山の言葉が脳裏をよぎる。

真宗宗歌が終わったら、合掌というお姉ちゃんのアナウンス。
莫迦じゃないのか、ここは御影堂。
御開山のご真影に合掌してどうなる。御開山の御恩忌であるなら御開山の喜ばれるなんまんだぶを称えるべきであろう。

林遊は御堂に響き渡るように高声で、な~んまんだぁぶ~っ。
三千の参詣者は黙祷でもしているのか合掌して無言。たぶん仏を心で念じているのかしらん(笑

次はご門首猊下のおことば。
ご門首は言葉の発音がご不自由なので表白は聴きづらいのだが、大震災の被害にあわれた方々を案じるとともに宗祖親鸞聖人の『御消息』から、

なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふら んことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF_%28%E4%B8%8A%29#no16
の文意を引かれて、生死無常と生死出ずべき道をお示しの表白であった。

林遊、な~んまんだぁぶ~っ。

しかし、後の内局の挨拶は無茶苦茶であった。
ご法義の話は全く無く、徹頭徹尾震災についての話であり、あまつさえ出きる限りの義捐金を出せと言うにいたっては、お前が着ている僧班を示す衣と金襴の袈裟を売り払ってお前がしろと言いそうになった。

以下、阿弥陀さまの阿の字も無い感話と下手な説教に、この宗門は宗教法人ではなく偽善を売る社団法人に改組した方がいいのではないかと密かに思っていた。

行事の合間の間隙を盗んで、林遊のな~んまんだぁぶ~っ。(笑
係員が「お静かに」というプラカードを持って会場を巡る。
あてこすりに、林遊のなんまんだぶ、なんまんだぶの声。

次は法要儀式。
さすがに『正信念仏偈』と和讃の唱和は門徒も参加するので有り難かった。
唯一の救いである。

次に災害対策本部とやらの報告で活動内容と義捐金の額を公表。
それから、参努とやらの宗教貴族の決意表明。←おひおひ決意表明って何だよ。(ここいらへんで林遊は切れていた)

最後は大谷派で依用する長調の「恩徳讃」唱和であるが、長調の「恩徳讃」は、なんか暗い響きである。
で、林遊の明るいなんまんだぶ、なんまんだぶ……

かくて、三千の大衆は一声の御念仏もなく五月二十六日の御開山の御遠忌の日中法要は終わった。
わずかに、同行した同朋のばあちゃん達が遠慮がちに小声で称えるなんまんだぶが聞けたのはよかったが…。

浄土真宗の法要は、なんまんだぶという声による荘厳であると林遊は思うのだが、観念論に懲り固まった世俗にしか視野を向けることが出来ない宗門では無理だとつくづく思ったものである。

なお、帰りのバスに中で、
どこで、なんまんだぶをすればいいのかよぉ判ったわ。こんどはウラがしるわ、と同行。おいおい、歌舞伎の大向こうの掛け声かよと苦笑したのだが、なんまんだぶは、こちらが称える念仏ではなく全て回向されたお念仏であるからまあいいか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

おねんぶつ

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
0

木村無相さんの詩

にょらいさんが
わたしを
おもって おもって
おもって おもって
くださるのが
おねんぶつ…

にょらいさんのおもいが
わたしに
とおって とおって
とおって とおって
くだされたのが
おねんぶつ…

浮遊する虚しい道具としての言葉と、
言葉の世界を超えたところから届けられる言葉もある。

なんまんだぶつが出来たから、我が案ずることはないんだよな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

むこうがわ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

むこうがわ (中川静村)

わすれ とおしの
こちらを
おぼえ とおしの
むこう

おがんだ おぼえのない
こちらを
おがみ ぬいている
むこう

こちらの
かるい かたのに は
むこうの
なみだの おもいしょうこ

こぼれる ぐちは
こちらのもの
かえられた ねんぶつは
むこうのもの

こちらに
ゆだんが あろうとも
むこうに
ちりほどの ゆだんもない

なにもかも
むこうが しあげて
なにもかも
いただく こちら

やるせないのは
むこうがわ
やせて つらいは
むこうがわ
ただ せつないのは
むこうがわ

たのんで いるのは
むこうがわ
つかんで いるのは
むこうがわ
すてられ ないのは
むこうがわ

やっと しあげて いただいた
となえる だけの おねんぶつ
あわせる だけの この りょうて

はる三月の
ひだまりの
ツクシの ような
こちらがわ