「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

宗学とか仏教学というものには、とんと縁がないのだが「正信念仏偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について考察しているブログがあったので、WikiArcのノートに追記してみた。 →「ノート:帰命

 

大谷派の金子大榮師は、帰依という語を、死のする処、生のって立つ処と示された。帰依する処とは、死に怯え生に呻吟する我々の、生も死を包みこんで下さる阿弥陀如来の本願の世界である。よく似た語に帰命という言葉がある。「正信念仏偈」の冒頭に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」とあり、真宗門徒には耳に聞き口になずんだ言葉である。浄土門ではこの帰命の意味をそれぞれの宗義によって特徴づけるのだが、いま本願寺派の『季刊せいてん』(103)の、梯實圓和上の文から窺ってみる。

「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗

聖人は「正信偈」で、「どうして私は本願を信じ念仏申す身になったか」ということを二段に分けて仰っています。初めの「依経段(えきょうだん)」といわれる部分には、お釈迦様の教えである『大経』に依って、さらに後半の「依釈段(えしゃくだん)」といわれる部分には、そのお釈迦様の教えを、インドから中国、そして日本へと伝えてくださった七人の高僧方のお勧めに依って、私は本願を信じ念仏を申す身にしていただきました、という風に仰っているのです。

「正信偈」の序文には、「おほよそ誓願について真実の行信(ぎょうしん)あり」(二○二頁)とありました。その「真実の行」というのは「諸仏称名の願(第十七願)」によって恵まれ、そして「真実の信」というのは「至心信楽の願(第十八願)」によって与えられました。これが「選択本願の行信」である。「真実の行信」とは、本願を信じ念仏を申すということです。この選択本願の行信を聖人は「浄土真宗」と呼ばれたわけです。元々、親鸞聖人が言われた真宗というのは、教団の名前ではなく、阿弥陀様の本願のはたらきに名づけた言葉でした。さらに、具体的には、私が、今こうして本願を信じ念仏申していることを浄土真宗と言われたのです。このように、浄土真宗、すなわち本願の行信を讃嘆(さんだん)する身になったことを慶ばれたのが「正信念仏偈」だったわけです。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

「正信偈」の最初は「帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)」(二〇二頁)という言葉で始まっております。この二句は、「南無阿弥陀仏」というインドの言葉を中国語に訳したものです。「私達の思いはからうことのできない、限りない寿命の徳をお持ちになった如来様に帰命したてまつる。人間の思いはからいを超えた、悟りの智慧の光明の徳をもって、すべてのものを導きお救いくださる仏様に帰依したてまつる」。

なおこの二句は、親鸞聖人が阿弥陀仏への帰依と敬順をあらわされた頌(詩)ですから、「帰敬の頌」ともいいます。またこれは前半の「依経段」で讃えられる内容を総じて讃えたもの(総讃)であると同時に「正信偈」全体の総讃でもあります。

その第二句の「南無」はインドの「ナマス」という言葉が変化した「ナモ」の音写語で、第一句の「帰命」とはそれを中国語に翻訳した言葉です。帰命という言葉を、親鸞聖入は、信心と同じ意味で使われています。ナマスという言葉には心から仏や菩薩を崇め尊び敬意を表するといった意味があり、礼拝するといった意味もそこにあります。それを中国では「帰命」と翻訳しました。すると今度は、中国語としての帰命という言葉の意味を非常に厳格に見るようになります。大きく分けて三種類くらいの解釈があります。

一番目の解釈は、帰命の「帰」は「帰投、投げ出す」という意味です(帰投身命)。帰というのは仏様に身命を帰投する。命を投げ出して、すべてを仏様に投げ出して、仏様の教えに従っていこうとする。仏様の教えを受け入れるその態度を帰投身命といいます。

二番目は、「帰」は「帰順、順う」ということで、「命」とは身命ではなくて、「教命」であるという風に解釈しています(帰順教命)。帰命の命とは”いのち”ということではなくて、教えということ。「ああしなさい、こうしなさい」と指図をしていくことを命ずるといいますが、この場合は、命令の命で教えのことです。だから帰命とは「教えに順う」ということになります。
この二つの説は中国の唐の時代に活躍した賢首大師法蔵という方の『大乗起信論』の註釈の中に出ています。

三番目の説は、新羅仏教・さらには朝鮮仏教全体の祖師といわれる元暁という人が『大乗起信論』の註釈をするなかにあります。この説では、「帰」とは「帰還(きげん)」、「命」とは「命根」といってあります(帰還命根)。あるいは、「命をその根源に還す」ということだというので、「還源命根」というようにもいわれます。つまり私の命は、私の命ではなくて、もっと大きな宇宙的な根元的な命であり、それが如来の命であるということに目覚める。そういうことを知るのを「命根を源に帰す」という意味で帰命という、こういう風に解釈するのです。

大きく分けてこういう三つの解釈を、中国、朝鮮半島、日本を通して用いるわけです。日本の浄土教の流れの上でみますと、①の阿弥陀様の仰せに命を投げ出して従っていくことを帰命というのだという言い方をしますのは、浄土宗の鎮西浄土宗、今の知恩院の方たちです。それに対して②の帰順教命という意味で仏様の仰せに順うことだと言ったのが親鸞聖人です。そして③の阿弥陀様という根元的な命に帰す、我が命は阿弥陀の命であったことに気づくのが帰命だと言うのは、大体西山派系の方たちの考え方です。

しかし親鸞聖人の一番特徴的な解釈は、「帰命とは如来の仰せに順うことだ」というものです。阿弥陀仏に帰命するというのは、限りない寿命の徳をお持ちになった親様の仰せに順い、帰依し、その親様の所に帰らせて頂くのだという風に仏様の仰せに順っていく。そして限りない智慧の光をもって万人を浄土へと導き喚びさましてくださる、仏様の本願の言葉に順って生きていく。このように、阿弥陀様の仰せに順って限りない仏の命の世界に帰らせて頂くことを、帰命というのだと聖人は見ておられるのです。

御開山のお示し下さった浄土真宗は、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」、行信不離のご法義である。御消息で、

信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

と、お示しの通りである。このどちらか一方に偏したことを、先達は「行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである」と言われたのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

おおせに従うより手はない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

浄土真宗は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と『歎異抄』の著者が記しているように実にシンプルな教えである。
もっとも『歎異抄』の場合は約生(衆生の側からの言い方)表現であるから、約仏(仏様の側からの表現)でいえば「信じさせ称えさせて迎えとる」である。御開山の『教行証文類』は、ほとんど約仏で書かれている。御開山は、阿弥陀仏の救いを阿弥陀仏の側から語っておられるので『教行証文類』は難解な書だといえる。

さて、御開山は、『歎異抄』で「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と云われている。
「弟子一人ももたず」ということは、自らが人師の立場を否定すると同時に、一人の念仏者として阿弥陀如来の前の立っておられたからであろう。
浄土真宗では聴聞を重視するので、どうしても法を説く人師の言葉に囚われてしまいがちである。それへの誡めとして、自戒もこめて梯實圓和上の「妙好人のことば」から引用してみる。

 

 お浄土をもってござる仏のおおせにしたがうよりほかに手はない。

 庄松に信心のありさまを伝えるいくつかのエピソードがあります。
川東村の勝光寺の坊守(寺の奥さん)は、のちに敬信院禅尼とよばれ、四国ではじめて女性の布教使になった方ですが、彼女がまだ法義にまどうて悩んでいたころのことです。

 近くの仏照寺へいって、自分のお領解をのべ「これで往生できましょうか」とたずねたら、「それでよい」といわれました。その日はよろこんで帰ったのですが、二、三日するとまた不安な気持になったので、今度は得雄寺へいき、まえと同じようにお領解をのべて「これでよろしいか」というと、住職は「それじゃいかん」とにべもなく否定しました。

 同じようにお領解をのべたのに、仏照寺はいいと答え、得雄寺はいかんといったものですから、この坊守はいよいよ迷うてしまいました。そんなときある同行のすすめで庄松にあったのです。
「仏照寺さまと、得雄寺さまと、どちらのおことばを信用すればいいのでしょうか」

 すっかり信仰の迷路のなかにさまよいこんでいる彼女に対して庄松はいいました。
「仏照寺さまも得雄寺さまもお浄土はもってござらぬ。そのもってござらぬ人のいうことに迷わずと、お浄土をもっておられる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」

 この一言で坊守は、はじめて本願に心が開かれたそうです。
まことに真宗の安心の要をいい得て妙といわねばなりません。信心とは、自分の信仰体験を信ずるものでもなければ、人のことばを信ずることでもありません。わがいのちの行方について、何一つ思い定める力をもたないわたくしを、必ず救うて浄土にあらしめるとよびたもう大悲招喚の勅命を聞受するほかにわが心の定まる道はないのです。勅命のほかに領解はない。庄松はそれをあざやかに云い切っているわけです。
{後略}

面白いことに、この仏照寺も得雄寺も違ったことは言っていないのである。
仏照寺さんは、坊守のお領解を聞き「あなたの言うとおりです」と肯定したのであり、得雄寺さんは、「あなたがお領解の通りになっているなら、私に聞きにくる必要はないだろう」と否定したのである。 気がつけばどちらも正しいことを言っているのだが、人の言葉に惑わされると、この坊守のように惑うのであろう。
家のじいさんは、「お聴聞は、言葉を聞くんでないぞ、言葉の響きを聞くんだぞ」と常日頃言っていたものだ。布教使の言葉を聞くのではない、布教使の言葉を通して聞こえてくださる広大な阿弥陀如来の弘誓の願いを聞けということであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

同居の土

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

御開山のおっしゃる事はほとんど人知を超えてるな。
そもそも往生即成仏などと云われる浄土ってわけが解らん。
というわけで、莫迦の林遊にも判りそうな「同居の土」をWikiArcの欄に追記してみた。

 

天台宗では、阿弥陀仏の浄土は凡夫と聖者が混在しているので「凡聖同居の浄土」であるとし、四種の浄土の中でもっとも低位の浄土であるといわれていた。この説の論破が善導大師の「凡夫入報説」(*)であった。 法然聖人は天台宗の学僧であったから、この天台の論理に対するためには、善導大師の示された凡夫入報説によって浄土宗を立宗する必要があったと云われている。既存の仏教思想の枠内にいるかぎり念仏一行をもって凡夫が浄土へ往生する義をあらわせないとされたのである。この意をあらわされた勢観房源智の「浄土随聞記」を下記に追記した。
なお、これを受けられ継承発展されたのが、親鸞聖人の示される大悲が往還回向する往生即成仏の智慧の躍動する浄土であった。それは第十八願に『若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」と阿弥陀如来が誓われた生仏一如の真実の浄土であったのである。このような浄土は、まさに唯だ仏と仏のみが知見する浄土であって、天台の四種浄土説を超えているといわねばならない。御開山が、

安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし  (高僧和讃)

と、讃詠される所以である。

『拾遺語燈録』浄土随聞記

又一時師語曰。

また一時、師(法然聖人)語りていわく。

我立淨土宗之元意 爲顯示凡夫往生報土也。

我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。

且如天台宗 雖許凡夫往生 其判淨土卑淺。

しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。

如法相宗 其判淨土雖亦高深 不許凡夫往生。

法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。

凡諸宗所談 其趣雖異 總而論之 不許凡夫往生報土。

おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。

是故 我依善導釋義 建立宗門 以明凡夫生報土之義也。

このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。

然人多誹謗云 勸進念佛往生 何必別開宗門 豈非爲勝他邪。

然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。

如此之人未知旨也。

此の如きの人は未だ旨を知らざる也。

若不別開宗門 何顯凡夫生報土之義乎。

若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。

且夫人 問所言念佛往生 是依何敎何師者 既非天台・法相 又非三論・華嚴 不知以何答之。

且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。

是故 依道綽・善導意 立淨土宗 全非爲勝他也。

是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


『拾遺語燈録』浄土随聞記』。 同文が 『拾遺漢語灯録』にある。

無功と無効

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

先日記した、〈信知〉の項で、自力無功と自力無効を間違えていたので修正。ついでに自力無功の参照に以下の文を追加した。

自力無功とは、自らの仏道修業による功力(くりき)(修行によって得た力)では、往生成仏の仏果を得ることが出来ないことをいう。親鸞聖人は、『御消息』(6)(*)の、笠間の念仏者の疑ひとはれたる事の中で、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

と云われている。ここで「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とは阿弥陀如来の選択された本願によらない行業( 仏道の修行)を修することを自力であるとされている。次下に、

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

とされ、本願を信じ念仏を申して仏になる行業を他力であるとされている。本願に誓われている念仏を申した者を浄土へ迎えとり、仏の悟りを開覚させようというのが念仏往生の本願である。
これが浄土真宗の仏道の修行であるから、御開山は、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。(*)

と、無碍光如来の名(なんまんだぶ)を称える行業を大行と云われるのであった。この行業は、菩薩や声聞の修する行ではなく、ましてや凡夫が行ずる行ではない。御開山が「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」と示されるように、阿弥陀如来の本願海から度出の大行である。仏作仏行(仏の作(な)す仏の行)の諸仏が修するものであるから大行なのであった。
ともすれば、浄土真宗には修業が無いという僧俗がいるが、これは間違いである。行の無い仏教などというものは存在しない。ゆえに御開山は、教・行・証と、本願のえによって、念仏をじ、仏のを得るとされたのであった。(信は行から開いておられる)
このように自力と他力の対判は、仏道修行の上で論じる概念であり、浄土真宗においては口に〈なんまんだぶ〉と称え耳に聞いてよろこぶご法義なのである。このような人を信心の行者というのである。
なお、無功と似た語に無効という言葉があるが、無効とは、はじめから効力が無く仏道に対して何の功力(くりき)も無いことをいう。いわゆる浄土真宗のご法義の枠中におりながら、一声の称名もしない無力(むりき)の輩を指す言葉である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

クリック範囲選択での検索

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

ふと思いついてブログで、クリック範囲選択でGoogleで検索、ネット辞書の検索、Wikipedia、聖典の検索が出来るようにしてみた。自作のWIKI風の文字によるリンクのプラグインはあるのだが、いちいち用語の有無をチャックするのが面倒であった。
たまたま、SNS内で使っていたスクリプトがあったので入れてみた。

また、WikiArcでも使えると便利だと思い、導入したので意味の判らない語をネット等で調べることが出来ると思ふ。
同じ言葉でも仏教語と世間語では意味に違いがあるので、その違いを知ることも面白い。

ちょっとバグがありそうな気もするのだが、林遊しか使わないから、まっいいか。
とりあえず、これでWIKIリンクの無い言葉も、一語一語の意味を確かめながらお聖教を拝読できるのでありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

信知

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

「聞見」というブログ記事中で、信知という言葉を使ったので、WikiArcに「信知」という語を追加してみた。なお、WikiArc(正式名は浄土真宗聖典電子化計画)に於いて、出典が浄土真宗本願寺であるとの著作権表示のない文章や、出典を明示した著作権表記下の区切り線以下の文章、及びノートに記された文章は各投稿者の見解であり、浄土真宗本願寺の見解ではないことに留意されたし。
また、当ブログでWikiArcの内容に言及している場合は、WikiArcの内容が最新であることにも注意されたい、為念。 →信知

引用開始>>

しん-ち

信じ知ること。

阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救う阿弥陀仏の本願力を信じ、自己の罪障と自力無効を知ること。

『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、

如来のちかひを信知すと申すこころなり。
〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 (一多 P.686)

とある。
『往生礼讃』では、『観経』の深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を『一念多念証文』で、「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)

蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(*)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。

(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃)

(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ (善導讃)

>>引用終了

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

信疑決判と他力自力対判

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

聞見という言葉は「行文類」にもあるのだが、面白い材料(ネタ)があったので暇つぶしに考察してみた。 →「ノート:聞見…殊勝と名づく」

現在の『大正蔵経』の『十住毘婆沙論』では、

信力増上者。信名有所聞見 必受無疑。増上名殊勝(*)

と、なっている。この場合は、

信力増上とは、信は聞見するところあるに名づく。かならず受けて疑ひ無し。殊勝を増上と名づく。

と訓ずるのであろう。御開山の所覧本には、

信力増上者何名有所聞見必受無疑。増上名殊勝

と、信が何になっていたので、

信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づく。(*)

と、訓じられ、聞見するところを受けて疑いの無いことを、増上であり殊勝とされたのであろう。つまり、受けて疑いの無い「無有疑心」を、信心の意とされたのである。阿弥陀如来より賜る信心であるから、増上であり殊勝なのである。

このような読み方は、法然聖人の信疑決判釈、

当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入

まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)

と、本来は信の反対は不信なのであるが、「信」の反対語を「疑」であるとされた示唆によるものであろう。信とは阿弥陀如来から賜るものであり、それを疑いの蓋で遮蔽していることが自力であるとし、法然聖人の信疑決判を、他力(本願力)と自力の対判によって浄土真宗の本願力回向の宗義を明かそうとされたのである。

ともあれ、お聖教をあれこれ拝読することは楽しいことである。もったいないこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

聞見

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
0

友人の慈海坊さんが、自己の主催する「聞見会」のグループをFBに作成したので「聞見」という言葉についてWikiArcに書いてみた。(*) 専門用語が多いので括弧書きと言葉へのリンクを多用した。
なお、見ることと聞くことが同じという「見聞一致」に関しては、このブログの「眼見と聞見」を参考されたし。

もんけん

眼見に対する語。

自らの眼で見て明らかに認知することを眼見(げんけん)、聞いて理解し信知(しんち)することを聞見(もんけん)という。
『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」(真巻 P.356)とあり、諸仏は一切衆生の仏性(ぶっしょう)を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(あまろくか、マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩等は、仏の教法を聞くことで自らの仏性(仏に成ること)を知ることができるので聞見(聞いて知る)という。

浄土真宗では、この聞見によって自らの仏性を信知(信じ知ること)することを信心仏性(しんじんぶっしょう)という。
「聞」とは、阿弥陀仏の救いの法である、十方の諸仏が讃嘆する名号を、自らが称えて聞くことを「聞」という。そして、あらゆる煩悩の寂滅した阿弥陀仏の悟りの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。 『無量寿経』には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」(大経P.41)とある。
浄土真宗では、称即信(しょうそくしん)〈名号を称えること即信心〉とか、聞即信(もんそくしん)〈聞くことは即信心〉などといい、聴聞(ちょうもん)という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめる。阿弥陀仏の本願の生起(しょうき)〈願いを起こされたわけ〉とその躍動している救済のはたらきを聞信(もんしん)することを最も重要とするからである。
親鸞聖人はこのような聞である信を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」(信巻 P.251)と解釈され、「聞」によって「信」(無有疑心)をあらわされるのである。

参照:『涅槃経』師子吼菩薩品之二

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ