不断煩悩得涅槃

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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かって当ブログで「不断煩悩得涅槃」について記した。→「不断煩悩得涅槃」

その時は『維摩経』の当該の一部を記したのだが、wikiarcに「不断煩悩得涅槃」の項を設けて考察を記述してみた。
『歎異抄』二条には、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。(*)

という、御開山の述懐が記されている。
まことに、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る(不断煩悩得涅槃)」道は、なんまんだぶの他には無いのであった。
「不断煩悩得涅槃」の文、ありがたいことである。

→wikiarcの「不断煩悩得涅槃」
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法然聖人と御開山の相違について

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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FBのフレンド?さんからコメント欄で以下のような問いを受けた。通常ならお聖教を読めやで済ますのだが、暇なので反応。

>先日「法然と親鸞は一緒や!」とおっしゃる方がいて、その場の空気で、何も言えませんでした。
>帰宅し家事をしながら、「あれはなんなん?僧籍にある人の言う言葉か?」と、悶々と、煩悩が起こってきました。頭の中で三願転入の言葉が、浮かび次々と和讃 経文 ネット等探しているうちに、気づきました。批判していたお方のおかげで、我が信を少しく見なおすことになり感謝でした。
>法然と親鸞の相偉点について御提示頂ければ、うれしいです。

「法然と親鸞の相偉点について御提示頂ければ、うれしいです」と、自らの生死を託す祖師方を呼び捨てにする神経は理解しがたいのだが、以下に思ふところを記してみる。

単純な「法然と親鸞は一緒や!」という言い方は、少しく穏当さを欠いています。
念仏を強調された、高田派の真慧上人の『顯正流義鈔』あたりを己の字力だけで読めば、そのような解釈になるのかもです。
また、御開山は、

(99)
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ

と、浄土真宗を開かれた方は法然房源空聖人とされておられる意を、直截(すぐに裁断を下すこと)に取って言っているのかも知れません。
法然聖人は対機説法に巧みでしたから、その本意を誤解されることが多いのですが、法然聖人の「念仏往生」思想の中核を正しく継承し、深化発展させた方が御開山です。
梯實圓和上は「教行証文類のこころ」の講義で、

親鸞聖人は浄土真宗というのはこれは、浄土真宗を開いた方は、法然聖人だと言い続けておられますね。皆さん、お正信偈拝読させて頂きましたら、一番最後が法然聖人の徳を讃える源空讃になりますね。あのとこにね、本師源空は、仏教にあきらかなり、善悪の凡夫人を憐愍し、真宗の教証を片州に興し、選択本願悪世に弘めしむ、と仰ってますでしょ。
あれ同じ事を和讃、法然聖人の和讃見ますとね、
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ
と、こう仰ってます。つまり日本の国で浄土真宗を開いた方は法然聖人だというんですね。源空聖人、法然聖人というのは房号ですからね。正確に言うと源空、法然房源空というのがこの方のフルネームでございます。
この法然聖人が浄土真宗を開いた最初の方だ。つまり、浄土真宗という教義体系ですね。浄土真宗という教義体系を持つ宗教を日本で初めて開いた方は法然聖人である。
『教行証文類』でも一番最後の所に、「真宗興隆の大祖源空法師」、とこういうふうに仰っています。
浄土真宗を日本の国で興隆して下さった方は源空である、とこう仰っていますから、法然聖人が浄土真宗を開いた方だというふうに仰っているわけですね。

と、仰っていました。
我々は知らず知らずのうちに「宗我」という名の自是他非に陥り、念仏VS信心という対立構造で浄土真宗というご法義を理解したつもりになるのですが、これは間違った浄土真宗のご法義の捉え方です。明治期以降の信を強調するキリスト教の影響によって、真宗教団が愚直に往生の業因である〔なんまんだぶ〕を称える門徒を切り捨てて、回向されたご信心と自覚を等値した結果が、信心という自覚に迷う輩を輩出してきたのかもです。
御開山が、

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ

と示されたように、「行に迷ひ信に惑」っているのが、現代の真宗門徒なのかも知れませんね。御開山の「ご影」には、どれも珠数をつまぐっている姿が描かれていますが、なんまんだぶ なんまんだぶと、法然聖人が示して下さった、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」でありましょう。

で、お尋ねの問いに関して、
→「五願開示
「浄土真宗の特長」
へ、リンクしておきます。

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醍醐本法然上人伝記

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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wikiarcの『法然上人伝記』に追記。

大正6年に真言宗醍醐三宝院で発見された『法然上人伝記』、通称、醍醐本である。「一期物語」「禅勝房との十一箇条問答」「三心料簡事」「別伝記」「臨終日記」「三昧発得記」からなる法然聖人の伝記、法語等からなる書である。勢観房源智上人(1183-1238)またはその弟子が書き記されたといわれる。源智上人は、13歳のとき法然聖人の室に入り、常時随従して秘書的役割を担ったとされる。また、法然聖人の最晩年の念仏の領解を述べられた、『一枚起請文』を授けられている。

梯實圓和上は自著『法然教学の研究』のはしがきで、

江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。

と、仰っておられた。ことに「三心料簡および御法語」の法然聖人のご法語の趣旨を拝読するに、親鸞聖人独自の「己証」とされている中には、法然聖人から承けられた法門の発揮があると思ふ。たとえば『歎異抄』第三条で喧伝される御開山の悪人正機説「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も、「三心料簡事」では「善人尚以往生 況悪人乎事〔口伝有之〕 」と、法然聖人の口伝の法語としてあるのであった。御開山の著述は重層構造だから難解なのだが、梯實圓和上の示されたように、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などを拝読すれば、御開山と法然聖人の浄土仏教解釈の共通点が明らかになると、〔なんまんだぶ〕を称えるだけの愚鈍な林遊のような門徒は思ふ。

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『法然上人伝記』

足の指、地を按ずるに

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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『論註』の、

 足の指、地を按ずるにすなはち金礫の旨を詳らかにす。

の脚注に追記してみた。

維摩経』仏国品では「その心、(きよ)きに随って、すなわち仏土浄し(随其心浄則仏土浄)」という。この意を舎利弗に教える為に、「仏が足の指でもって地を(おさ)(仏以足指按地)」えて、仏の感得している浄らかな仏国土を舎利弗に示現し、この苦悩渦巻く穢土も、釈尊の浄らかなさとりの眼から観(み)れば浄土(きよらかな土)であると示される。いわゆる善悪や浄穢という対立の世界は煩悩が描き出している虚妄の世界であり、煩悩を寂滅した仏のさとりの立場からみれば、全ては縁起するものであり、故に自性を持たない無自性であり、この故にあらゆる認識しうる、もの/ことは空であり、その空であることによって全ては平等であるとする。これが仏教の縁起の思想における平等という存在の視点である。これを悪しく理解すると、単純な唯心論に陥り、ただ心の持ち方によって、この世が穢土にもなり浄土にもなるという発想になる。
しかし、このような発想は、穢土と浄土という法然聖人の二元論の原則を継承した御開山からみれば、

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。 (信巻p.209)

という穢土の他なる浄土を考察しない、己心の浄土、唯心の弥陀という自性唯心の立場であろう。此土(この世)という語には、彼土(かの世)という概念が内包されている。生きること、生きる意味を考察するすることは、同時に、死ぬこと、死ぬ意味を推察することでもある。浄土仏教の歴史は、その死ぬことの意味を、千数百年かけて観察し考察し推察して洞察してきたのである。生き難い此土で、愛憎煩悩に憂い悩乱し、さとりへの手がかりすらない凡夫にとって、この世を超えた煩悩の寂滅した、さとりの浄土の存在は、不安の中にありながらも不安の中で安心できる世界である。その浄土を目指し、さとりを完成しようとする生き方が浄土仏教である。

その穢土と浄土の二元論の上に「信心の智慧」によって、本願力回向による一元的な自然の浄土を感得せられたのが御開山であった。それは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」という、なんまんだぶの名号を聞信するところに開かれるて来る「如-来(如より来生する)」する世界であった。これが浄土を真実とする「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」である。
浄土真宗の「信心正因」とは、なんまんだぶと称えることが往生成仏の業因であると信知した者の前に開かれる、本願力回向の世界(世開)であった。それはまた、釈尊の感得せられたさとりの世界であり、なんまんだぶと声になって届いている、智慧の念仏の躍動する世界である。

「足の指…」

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