身・口・意

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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大谷派の聖教電子化研究会(*)さんから『無量清浄平等覚経』の読み下し文を転載した。
読みやすさを考慮して、旧字(本字?)を新字に直してUPしたのだが編集中である。
『無量清浄平等覚経』は、いわゆる二十四願系統の経典なのだが、霊山現土の段で、

仏言はく。若(なんじ)起ちて更に袈裟を被て西に向ひて拝し、日の没する処に当りて無量清浄仏の為に礼を作し、頭面を以て地に著け、南無無量清浄平等覚と言へと。(*)

と、釈尊が、阿難に対して、南無無量清浄平等覚(なんまんだぶ)と言えという処がありがたい。
世俗では、身心というように、身と心をいうのであるが、仏教では身・口・意(こころ)といって口業を重視する。これは言葉を超えた世界を言葉によって表現しようということで口業を重視する仏教の立場であろう。

仏教の十悪に、殺生、偸盗、邪婬、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、愚痴が数えられるが、この中で口業に、妄語、両舌、悪口、綺語の四つがあるように、言葉というはたらきを重視しているのであろう。ここいらへんは悪口の過ぎる林遊には頭が痛いのだが、少なくとも、妄語、両舌、綺語には縁がないからいいか(笑
ちなみに御開山は「數名目・十悪」で十悪について記しておられる。「浄土真宗聖典全書」p.985

身心は、英語では、mind and bodyと心が先にくるのだが、これも文化の違いなのであろう。
御開山の『悲歎述懐讃』を拝読すると、「虚仮不実のわが身にて」等、「身」ということを問題とされておられるのだが、本願力回向の教説によって正定聚不退であり仏に成ることが決定しているのもかかわらず、煩悩に悩乱する身を持つゆえの悲嘆であろうか。

何はともあれ、口業としての、なんまんだぶこそが往生の業因であり、『大経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)の還相の徳を得しめられる行業である。
我々は自分のいのちの歴史を50年や100年に限定したいのちしか知りえないのであるが、釈尊が教えて下さるには、我々のいのちの歴史は無始曠劫以来、時間の始まる当初からのいのちの歴史であると仰るのである。
死んでは生まれ死んでは生まれして、六道という迷いの世界流転してきたというのである。
今度という今度は、そのいのちの意味を転換して、あらゆる生きとし生けるものに寄り添って、なんまんだぶしましょ。阿弥陀様が、

われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ。『無量清浄平等覚経』(行巻引文)(*)

と、仰るのだから、生まれ変わり死に変わりしながらも、なんまんだぶを称えることをお勧めする存在になるのだよという教説が浄土真宗のご法義であった。ありがたいこっちゃな。(それって分段生死じゃないかという突っ込みは却下)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

教行証文類のこころ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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阿弥陀さまがごいっしょです、に梯實圓和上の「教行証文類のこころ」を転載した。2001年8月1~3日に真宗出雲路派夏安居での講義をテープ起こししたもので、『教行証文類』とは如何なる書物であるかということを懇切に解説して下さった記録である。
浄土真宗の大綱という視点から『教行証文類』が書かれねばならなかったという考察であり、往相と還相の二回向という御開山聖人独自の仏教観を知る上で資すると思ふ。浄土真宗のご法義を論ずるとき、どうしても文に付いてまわってしまい重箱の隅をほじくるような議論になるのだが、浄土教とはいかなる宗教であるかの大綱を知らなければ単なる戯論になってしまうであろう。
朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋(朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず。)である。この語は『荘子』にある語で、『論註』で引用されている。いわゆる、北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大いなる其の幾千里を知らず。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里を知らず。怒して飛べば、其の翼垂天雲の若し。是の鳥や、海運れば則ち将に南冥に従らんとす。南冥とは、天池なり、の言は大綱を知らない蝉や鳩が重箱の隅をほじくっているようなもので、まさに燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや『史記』ではある。

御開山は、念仏成仏是真宗と、仏を念じて仏に成るご法義を是真宗とおさえておられるが、浄土真宗とは、なんまんだぶを称えるご法義であることを忘れ、ありもしない信心に迷う輩が多いのは困ったものではあるな。

リンク→「教行証文類のこころ

本願文と成就文

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『やさしい安心論題の話』(灘本愛慈和上著)の「おわりに」、にある本願文と本願成就文の対照が判りにくいので画像を挿入した。以下画像と本文をUP。

本願の文と成就の文とを対照

 右の対照によって、因願の文には「聞其名号」の語は出ていないけれども、成就文にそれが示されていることによって、因願の三心十念は聞其名号によっておこさしめられることが知られます。
次に因願にあては三心のあとに「乃至十念」が示されているのに対し、成就文では「信心歓喜」(信楽)のすぐあとに「乃至一念」が示され、因願の「至心」「欲生」に当たる文は「乃至一念」より後に出されています。「乃至」の語は因願にあっても成就文にあっても、一生涯の相続を省略される語であります。そうしますと、成就文によれば、聞其名号の心相を信心歓喜(信楽)の一心とし、それが生涯相続するという意味になります。この成就文の意味によって因願を見れば、三心とは言っても私のいただく相を示すのは中間の信楽一心であると知られます。逆にいえば、名号をいただいた信楽一心の徳義を開けば三心となるということが知られます。
次に経文の当分から見れば、因願の「至心」が成就文の「至心」と出され、因願の「欲生我国」は成就文の「願生彼国」に相当すると思われますが、宗祖は成就文の「至心回向」を阿弥陀仏に属して読まれます。なぜそのような読み方をされたのかについては多くの説明を要しますので、今は『大経』の因行段に(真聖全二―六〇引用)、

 大荘厳を以て衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまえり。

とある一文と『論註』下巻終り(真聖全二―三六引用)の他力釈とを指すにとどめます。
この至心回向が如来のおんはたらきであるとすれば、因願の前後二心(至心欲生)も如来からいただいた徳義であると知られましょう。そこで、三心について約生の三心、約仏の三心、生仏相望の三心というようが見方が出てくるわけであります。
次に因願では三心十念のあとに「若不生者」の果が示されていますが、成就文では信一念の即時に「即得往生住不退転」の益が得られると説かれています。これによって、衆生の称名をまつことなく信一念に往生が決定することが知られると共に、その信心が相続の上には必ず称名念仏となって現れてくることが知られます。
さらに、因願にあってはその得益として往生浄土の証果を示され、成就文では現生不退の益が説かれています。これによって、この世の寿命が尽きたとき真実報土に往生するのだけれども、それが決定するのは現生信一念のときであると知られ、逆に現生に不退に住するから、臨終の善悪は問題でなく、寿尽きればまちがいなく報土の往生が得られるのであると知られます。

{ここまで}
法然聖人においては成就文の一念は称名の一念/一声であったが、御開山はそれを信の一念であると見られた。そのような見方は、真実の信心とは果に於いて仏心であるような信こそが真に往生成仏の因であるとされたからであった。
もちろん、『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』の成就文、

他方仏国所有有情 聞無量寿如来名号 能発一念浄信 歓喜愛楽 所有善根回向 願生無量寿国者 随願皆生 得不退転乃至無上正等菩提 除五無間誹謗正法及謗聖者。(*)
(他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。)

に、能発一念浄信(よく一念の浄信を発し)とある、浄信の語に依られて『無量寿経』の乃至一念を清浄な信心であると見られたことにもよるのであろう。
さて、真実の信心とは果において仏心であるような信であると記した。そして、この仏心であるような信心こそが「如来よりたまはりたる信心」(*)であり、願作仏心である。自らが浄土へ往生して、衆生(あらゆる生きとし生けるもの)を迷いのない浄土へ往生せしめようという浄土の菩提心であった。

わたくし一人が救われても、それは本物の救いではないのである。阿弥陀如来の救済は完成しないのである。
当ブログの度断学成で述べたように、仏道の正因は菩提心である。浄土の菩提心は、聖道の菩提心と違い阿弥陀如来の本願(菩提心)によって発さしめられる菩提心であった。
『摧邪輪』 によって法然聖人の『選択本願念仏集』を菩提心撥無であると非難中傷した、明恵上人高弁ではあるが、汝に真の菩提心有りやと問えば、無いという答えが返ってくるであろう。念仏弾圧の因となった『興福寺奏状』を著した解脱上人貞慶にしても真実の菩提心は発すことは出来ず、晩年には臨終の正念に清浄な菩提心が起こることを期待したのであった。『観心為清浄円明事』
まさに、御開山が和讃されるごとく

(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき

で、あった。
これに対して、本願力によって発さしめられた、阿弥陀如来から回向された御信心(菩提心)によって仏に成ろうという意が浄土の菩提心であり信心である。これを曇鸞大師は願作仏心と示して下さったのである。

(17)
尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ

(18)
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり

(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心
度衆生心となづけたり

(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり

横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。 横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。(*)

本願力回向の信楽であるから願作仏心であり、すなわち浄土の大菩提心であるから、よく報土往生の因となるのであった。

平生業成

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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へいぜいごうじょう

臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れることが確定すること。 → 業事成弁(ごうじじょうべん)


 

臨終業成に対する言葉。死ぬるまで称名を相続する事によって臨終の一念に往生が決定するというのが臨終業成説。 つまり、生涯の相続した称名の功徳力によって臨終に来迎を得る、その時に往生の業事・業因が完成するというのが臨終業成説である。したがって臨終の来迎を期して生涯念仏をし続けるので多念義ともいう。
法然聖人は、

「問ていはく、最後の念仏と、平生の念仏といつれかすぐれたるや。」

の問いに、

「答ていはく、たたをなじ事也。そのゆへは、平生の念仏、臨終の念仏とてなんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれは、臨終の念仏となり、臨終の念仏ののぶれは、平生の念仏となる也」『和語灯録』「念仏往生要義抄」

と、答えられ平生と臨終を分けるような考え方を否定されておられる。また、同じく次下で、

問ていはく、摂取の益をかうふる事は、平生か臨終か、いかむ。
答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心まことにて、わか身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、この三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、『観経』の説なり。かかる心さしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まて捨給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也。

と、『観経』に説かれる「十方世界念仏衆生摂取不捨」を平生のことであるとされている。『西方指南鈔』下本「禅勝房との十一箇条問答」には、『礼讃』の「十声・一声必得往生」と『散善義』「三心決釈」の「一発心已後 誓畢此生 無有退転」を対比されて、

十声・一声の釈は、念仏を信するやうなり。かるがゆへに、信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと、すすめたまへる釈也。また大意は一発心已後の釈を本とすべし。

と、「信おば一念に生るととり」と、されているから、信の決定する時は平生であると言わねばならない。 法然聖人は、善導大師の『観経疏』「就行立信釈」の「順彼仏願故」の文によって回心されたことは有名である。自らが選択する行業ではなく、仏の本願によって選択されていた行が、口称のなんまんだぶであった。法然聖人は、本願に選択されている行であるから、衆生の側からは回向する必要がないので、なんまんだぶを不回向であるとされたのである。「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。」『選択集』

この法然聖人の意を正確に受容し、不回向ということは、実は阿弥陀如来の本願力回向であると『浄土論」、『浄土論註』の本願力の語に依って法然聖人の真意を考究し顕していかれたのが親鸞聖人であった。そして、法然聖人の「摂取の益をかうぶる事」は、「平生の時」であるというお示しによって、『観経』の「念仏衆生摂取不捨」の文意を領解していかれたのである。この「念仏衆生摂取不捨」を、『浄土和讃』で、阿弥陀仏の名義(名の由来)を釈され、

(82)
十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる (*)

の、摂取して捨てざれば、の国宝本の【左訓】に

摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる

とされておられる。
この「ひとたびとりて永く捨てぬなり」であるならば、当然浄土に生まれることは決定しているのであって、それを「正定聚不退転」とされたのである。平生の一念に阿弥陀如来の名号を聞信する一念に、浄土往生は決定するというのが「平生業成説」であった。

なんまんだぶを称え聞く、念仏の衆生を摂取不捨するのであって、念仏を称えない者を摂取不捨するのではないのである。