今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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『証巻』末尾に「他利利他の深義」と親欝聖人が仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」
証巻」総結

この他利利他は『浄土論註』の「覈求其本釈(カクグゴホンシャク)」からの引文である。

「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。 もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろ しく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をも つてこれをいふ。」
覈求其本釈」

本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。
この解釈に古来から和上方が苦労されてきたところで「覈求其本釈」という。覈(まこと)に其の本を求むるにはという、其の本とは一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。
今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してみる。

>>>引用開始
親鸞聖入の他力観(p17) 梯實圓

私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。

従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念という特別の義意を表すためであった。

それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。

したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、ずなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すたわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.

それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。

この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。

仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。

利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。

後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

>>>引用終わり

他利:他利(自) 「他が自を利す」
他である仏(他)が、自である林遊(自)を利益する。

利他:(自)利他 「自が他を利す」
自である仏(自)が、他である林遊(他)を利益する。

つまり、如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは仏の方から語るので利他といわれたのである。

親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われているが、この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済することをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きをいう。

これを親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり。」と仰ったのであって、他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。
「他力釈」

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で如来の招喚、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」

を釈され、「汝」の言は行者なり、とし、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような世界をあらわしておられるのである。
http://wikidharma.org/4b7f5e427a7a3

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力とは一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B

さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。
これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」と は、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて 仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。 名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑ なり。
http://wikidharma.org/4b7620ae57020

凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、阿弥陀如来の因浄なるがゆゑに果浄なる浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。
何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私が助けられる法を聞く本願力回向のご法義であるからである。
これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのであって、私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり、であるからである。
私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、こうこうと御信心の月は照って下さるのである。

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至誠心釈

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『教行証文類』は不思議な書物で70%くらいは経・論・釈の引文で成り立っている。

昔ネットで『教行証文類』は他者の文章を引用してあるだけだ、という非難を浴びた事があった。
たしかに他者の著作を剽窃して自己の著作のようにする某会の会長のような人もいるから、一見そのように思われるのも、むべなるかなであろう。

しかし、親鸞聖人は経・論・釈を引用ではなく引文しておられるのである。
経・論・釈の文章を引文して、その意味を全く変えてしまっておられるのであるから単なる引用ではない。
つまり、引文によって自己の領解を表現するという創作をやっておられるのである。
同じ文章でも文脈によって意味が変わるように、分引というやり方で縦横に経・論・釈引文されている。
だから『教行証文類』はめちゃくちゃ難しい書物であり、元の文章をどのように引文されているのかを見る事によって親鸞聖人のお示しを窺うのであるといわれている。

もちろん「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という実に明快なご法義であって、教学が要求されるご法義ではないのは勿論であるが、面白いHPがあったので少しく日記に書いてみる。

以下、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を見てみる事にする。

原漢文:
経云 一者至誠心 至者真 誠者実

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

ここでは、至誠心を至と誠に分けて、それぞれの意味を別の漢字で表す事によって言葉の示す意味を探求する手法をとっている。
漢字そのものは意味が多義的なため、他の用語との関連性において意味を探求しようとするのである。
至誠心が真実であるという事を、「至」とは真なり、「誠」とは実なりと定義し、真実とは何であるかを顕わそうとされる。

この部分は善導大師と親鸞聖人の間には差異はない。

つまり、至誠心の至誠とは真実であるといい、その真実とはどのようなものであるかを以下述べていくのである。

原漢文:
欲明 一切衆生 身口意業所修解行 必須真実心中作

善導大師:
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。

親鸞聖人:
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。

ここでは、「須」という漢字を親鸞聖人は「もちいる」と読まれて、善導大師の文章の当分である、身口意業の所修の解行は自らの真実心によってなすべきという意味を変えておられる。

この場合の「須ゐる」は、如来の真実心をもちいるのだ、と意味を転じておられる。

原漢文:
不得 外現賢善精進之相 内懐虚仮

善導大師:
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

親鸞聖人:
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

善導大師の文の当分は、真実とは外に賢善精進の相を現じなさい、内に虚仮の心を懐いてはならない事だという。
内と外とが相応して真実であることが真実という意味であるといわれている

しかし、親鸞聖人は真実ということは、内に虚仮を懐いている不実なものが、外に賢善精進の相を現じてはならないとされる。
内が虚仮なのに、外へ賢善な姿を顕わすな、内も外も虚仮ではないかと言われるのである。
つまり、内も外も虚仮であって真実とは自己には無い、ということをもって真実の証明をされているわけである。
真実を解釈する為に自己に真実がないという事をもって真実というのであるから、文章の意味が180度変わってくる。

では何が真実なのですか、と親鸞聖人にお聞きすれば「阿弥陀如来である」という答えが返ってくるであろう。
このような解釈が、古来から浄土真宗における真実という言葉の解釈の一端である。

善導大師の訓点(浄土真宗聖典七祖篇 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729bcce30d

御開山の訓点(浄土真宗聖典 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729f6b96b9

ところが、浄土真宗を標榜しながら、親鸞聖人の意図に背きこれと全く逆に解釈する団体がある。

高森親鸞会のHP
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm
魚拓
http://megalodon.jp/2009-1219-1226-22/www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm

>>引用開始
善導大師のご教導

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。

「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。

>>引用終了

高森氏の言葉を借りれば「あっと驚くタメゴロー」なのだが、最初このHPを見た時は驚いて吹いた。
こんなHPって、私たち高森親鸞会は『教行証文類』を読んだ事がありませんって全世界へ公表しているようなものなのだが、誰か注意する人物はいないのであろうか。

この事を指摘すれば、詭弁と弄言の好きな親鸞会では、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を引用したのであって間違ってはいない、と抗弁するであろう。

しからば、浄土真宗親鸞会という呼称を止めろと言いたい。
さしずめ、高森氏の独断の解釈に依って成り立っている団体であるから「浄土偽宗高森会」とでもすべきであろう。

豆と豆腐

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林遊は豆と豆腐が大好きである。
特に水に漬けて置いた大豆を、醤油でカリカリになるまで煮詰めた硬い煮豆が好きなのだが、最近は歯がなくて食べられない(泣
 
豆腐は、土鍋に昆布を布いて、豆腐だけを入れる湯豆腐がいい。
熱燗でこれを肴に呑む酒は、酒の味を壊さないので格別である。
 
また、豆腐に醤油をかけて箸で細かく潰し、温かいご飯にかけて食べるのが好きなのだが、知らない人には時々怪訝な顔をされる。
そんな時は「最近は温かいご飯に、色んなものをトッピングして食べるのが流行っているそうですよ」と誤魔化している。
 
閑話休題
 
家の3000以上の聴聞をしたじいさんから聴いた話。
 
ある御法話で、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の話があった。
法話の途中で布教使が一人のばあちゃんに、
 
「おばば、摂取不捨ちゅう事が判ったか?」
 
「そら、ご院さん、豆が豆腐になったちゅう事ですがな」
 
「豆が豆腐に?、なんじゃそりゃ」
 
「あら、ご院さん知らんのですか。豆が豆腐になったら、もう二度と豆腐は豆には戻りませんがね」
 
昔は下手な布教使をぺしゃんこにする、恐ろしい門徒が沢山いたものである。
 
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
 
浄土和讃:「摂取してすてざれば」の摂取の左訓
「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」
 
の左訓、ひとたびとりて永く捨てぬなり、からの法話である。
 
林遊が豆腐を食べる時、嬉しそうににやにやしているのは、この法話を思い出している時だというのは内緒である(笑
 
極重悪人唯称仏
(極重の悪人はただ仏を称すべし)
我亦在彼摂取中
(われまたかの摂取のなかにあれども)
煩悩障眼雖不見
(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども)
大悲無倦常照我
(大悲、倦きことなくしてつにわれを照らしたまふといへり)
 
現代語訳:
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はない。
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っている。
 
なんまんだぶを称うれば、豆が豆腐になるそうな、ありがたいこっちゃナ。
 
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

出体釈の話

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親鸞聖人の主著は『教行証文類』といいます。
何故ならご本人が総序で『顕浄土真実教行証文類』と呼んでおられるからです。
文類とは教・論・釈の重要な部分をあつめ整理したものという意味です。

つまり、浄土真宗の、教えと行いとその証(あか)しの重要な内容を顕わした書物ということです。

あれっ、T・S会が喧しく言う信心は何処へ行ったのでしょう。

ありました、「教巻」に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」
現代語:
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたち衆生が浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界へ還って衆生を救うという還相が回向されるのである。往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。

とあって、浄土へ生まれて往く往相と浄土から還ってきて衆生を済度する還相の二種の回向と、教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし)が記されています。(ちなみにこれを昔から二回向四法と呼んでいます。)

なお、
教とは、阿弥陀如来の本願を説く『無量寿経』、
行とは、なんまんだぶを称えること、
信とは、回向された御信心、
証とは、無上涅槃の浄土(成仏)、のことです。

では、これの出拠を見てみましょう。

教は、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
行には、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」
証には、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」

と、それぞれ出体釈をなされて体がありますが信にはありません。

タイトルに『教行証文類』と三つの法があり、その内容を「真実の教行信証あり」と、四つの法でお示しですが信には出体釈がありません。

これを昔から行より信を開いた四法といわれ、信別開(しんべっかい)と呼称しています。

信心とは『大無量寿経』の本願文によれば、至心・信楽・欲生の三心です。

その、至心釈に
「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
と、至心は名号が体であるとされています。
信楽釈には、
「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」
と、信楽の体は至心であるとされ、欲生釈には
「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。」
とありますから、三心の体は至徳の尊号(南無阿弥陀仏の名号)だということになります。

これを昔から、行を離れた信もなく信を離れた行もないというので行信不離と言い習わしています。

T・S会では信心獲得とか信心決定を喧しく言い、名号を軽視していると聞いたことがあります。
なんまんだぶつは御恩報謝であるからしなくてもいいとも教えているそうです。
そして、高森教祖が、なんまんだぶつを称えているのを聞いたことがないという会員の声も聞きました。

すると、T・S会では体のない信を獲得することを奨めている事になるのでしょう。
まるで空中に楼閣を築くようなもので砂上の楼閣の信心であり、作っては壊れ作っては壊れる信心を奨めているのがT・S会でいう信心と言わざるを得ません。

ひょっとして高森教祖は『教行信証』という名目から、独立した信という体(物柄)があると錯覚したのでしょうか。

昔から行と信の関係を体・相で表現します。
体(たい)は南無阿弥陀仏、相(そう)を信といい、水と波の喩えで表現されます。
水が体であり波が相であると言います。

南無阿弥陀仏という救済の名号法が体であり、信心はその相だと言います。
水の無い波が存在しないように、水を離れて単独の波というものは有り得ません。
18願の真実信とは水の上の波であって、波には体という物柄はありません。波は単独では存在しないのです。

この波を単独で拵えようとするならば、それは浄土真宗の信ではありません。

このご法義で、「はっきりしません」とか「安心できません」などと、判ったとか分からないとかいう人は、水を離れて波をこしらえようとしているから永遠に安心が出来ないのです。
T・S会では行と信を別個のものとして捉え、自己に信という水を離れた波が単独で、ある、と教えているから、永遠に御信心を恵まれることはないのでしょう。

浄土真宗では、「体」である南無阿弥陀仏が、信心という「相」をとって、林遊を場所として、なんまんだぶ、なんまんだぶと現れ「用(はたらい)」ている状態を御信心というのでした。

なんか、酔って書いているので突っ込みどころ満載だな(笑