梵声猶雷震

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ある時、ご法話の後で、茶話会があった。
冒頭、中年の女性が、
今日の話はよくわかりました。胸にしみるようないいお話でした、と述べた。
とたんに和上が、
あんたぁ、あんたの頭がわかってどうなる、あんたの胸にしみてどうなる、そんな話しをしてるんじゃないんだよ。何と驚くべきご法義であったかと、梵声猶雷震 1、まるで雷にうたれるんだ。
わかったとか胸にしみたとかは、あんたは、あんたの受け取り方を云うとるんじゃろ。ご当流は阿弥陀さまの全分他力のご法義じゃから、そのようなものは使いません!!

ちょっと恐かったけど、浄土真宗のご法話とは、このようなものであるかと、領解した二十数年前の夏であった。
聴聞に慣れてくると、聞いた法を表現をするのにいろいろな言葉を使う。そして、聞いた法を、頭とか胸(心)とか腹という身体的表現であらわすことが多い。

よく、わかった、というのは頭で理解した表現。この場合のわかるには、分かる、判る、解るの三種があるのだが、仏教的には教理の体系が解るということである。ただ、浄土真宗の場合は釈尊の覚りの内容を、いわゆる小乗仏教、大乗仏教(聖道)、中国浄土教、日本浄土教という前者を止揚した歴史的展開の上で成立しているので、御開山の真意を理解するには仏教概論とか七高僧の著書の学びが必要であろう。

身体的表現で一番多いのが、胸を突かれるとか、胸が一杯になるというような、胸という言葉に相当する感情表現である。浄土教そのものが、情意的感情に訴える部分が多々あるので、情緒表現をとる例が多い。感情は頭で思惟する理より深い部分があるので、勢いこのような表現が多くなるのであろう。ただ、感情は正確にコントロールされていないと一時の激情に駆られ「バクティ(信愛、ときに狂信)という熱情的な絶対帰依感情に陥る恐れがある。浄土系新興教団の教祖である某氏のいう「堕ちるままのただのただじゃった」云々というのがそれである。感情移入による臨在感的把握の絶対化である。
このような激情はすぐに消えうせるのであるが、自己の内部に確信という救済の体験を求める輩は飛びつくことが多い。

三番目の腹を語頭とする、腹におちるや腹がすわるという表現は、前二者を包含し超越した不動である意が感じられる。禅仏教では、死んだ気になって一切の自我を捨てて仏道に身をささげることを「大死一番」という。浄土仏教では、善導大師の「前念命終 後念即生」の語から、大谷派の曽我量深師などは「信に死し願に生きよ」という。古い私は死んだ、新しい私の甦りという意であろう。宗教とはある意味で死と再生を説くのだが、汝は如来の子であるという本願の言説の前に死と甦りがあるのである。
もちろん浄土真宗は凡夫の宗教であるから、煩悩に騙されて日々をおくるのだが、腹の底から、なんまんだぶと称えられ聞こえた声に腹を据えるのが本願の呼び声であった。

というわけで、今まで聞いた、よく使われるタームを、頭・胸・腹に分けてみた。

《頭》
わかる(分・判・解)、理解する、考える、合点する、観念する、領解する、使う
《胸》
思う、すく、つぶれる、一杯になる、しみじみする、焦がす、熱くなる、突かれる、裂ける、詰まる、焼ける、あたる、はれる、うつ、つかえる、しみる
《腹》
おちる、すわる、入る、響く。

この三種の中で、聴聞の経験上では、男性は《頭》で聞く者が多く、女性は《胸》で聞く人が多いように思ふ。もちろん話者が語る内容にもよるのだが、最近はドカンと腹におちる話をする布教者が少なくなった。
「嘘は常備薬、真実は劇薬」という言葉があるが、小手先のおためごかしではなく、生死(生まれ変わり死に変わりの輪廻)を超える、本当の話が浄土真宗の法話であろう。仏教の輪廻説は信じられなくても、死という厳然たる自己の真相である事実の前では、あらゆるものは色あせ虚無への墜落でしかありえないのである。生まれたからには死ぬのが必然である。この死を往生と示すのが浄土真宗というご法義である。
お寺のご法座の場は、嘘だらけの世間の話ではなく、劇薬である本当の話をする場であるべきなのだが、世俗に迎合した、為になる話が多すぎると思ふ。

死にたくないが、死なねばならぬ、死なねばならぬが死にたくない、死にたくないが、死なねばならぬ……と、生死に呻吟している凡夫のためのご法義なのだから。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Notes:

  1. 梵声猶雷震(梵声はなほ雷の震ふがごとし)。『無量寿経』往覲偈の文。