明頭来也 明頭打

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仏教のさとりとは、あらゆる相対を無化するのだが、普化和尚の以下の句は好きな句である。

明頭来也 明頭打 賢い頭が来たならば、賢い頭を打ってやれ
みょうとうらいや みょうとうた
暗頭来也 暗頭打 愚かな頭が来たならば、愚かな頭を打ってやれ
あんとうらいや あんとうた
四方八面来也 旋風打 四方八方来たならば、旋風のように打ってやれ
しほうはちめんらいや せんぷうた
虚空来也 連架打 虚空が来たならば、棒をもって打ってやれ
こくうらいや れんかだ

しかし、このような色即是空 空即是色的な無差別な生き方は世俗においては誤解されやすい生きにくい生き方であった。どうでもいいけど。

→放下著

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法然門下での三願の受容

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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法然門下では、浄土往生の願は第十八願だけであり、第十九願はその往生に際して来迎の利益を誓う願であるとしていた。その意を知るために浄土宗二祖聖光房弁長上人の『西宗要』から、第十七願、第十八願、第十九願、第二十願の記述について抜粋し読み下ししてみた。

御開山は、第十八願、第十九願、第二十願の三願を「生因三願」とされる。それには明恵上人が『摧邪輪』上で「第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答するとともに、三願を浄土三経に配当し「願海真仮論」として法然聖人の浄土思想を精密に考証しその真意を洞察されたのであった。ともあれ、同い年の明恵の、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし、これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず〈この解釈に菩提心ある委細の義は、また第五門決のごとし.彼に至つて具に知るべし〉、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言ふは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや。→「摧邪輪

という「何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答する為にも『大経』の「生因三願」を考察しなければならなかったのであろう。その意を仮をあらわす化身土文類の「真門決釈」で表しておられるのだが、後に三願転入派という異端を生ぜしめるとは御開山は夢にも思わなかったであろう。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」であった。

なんまんだぶのご法義は出来上がった体系の上で論ずるのではなく、私という代替不可能な、我の上に、なんまんだぶと称え聞える、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

という仏に成るご法義であった。

→「浄土宗要集」

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彼岸

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「彼岸(かの岸)」という語は、煩悩の激流を渡ってさとりの向こうの岸に到達するという仏教語である。梵語のパーラミター(Pāramitā)の意訳であり、「此岸(この世)」に対する言葉であった。

現代社会は死のない文化ともいわれるそうだが、死を凝視しない文化はどこか奇妙で浅薄である。生しか知らない文明は、実は生の対抗軸を持たない故に真実の「生」の意味が解らないかもである。

現在ということだけを知る者は、実は現在をも知らないのだという言葉が「後生の一大事」という語であった。
大谷派の学僧であった金子大榮師は、

我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大栄著『往生と成仏』法蔵館から)

と仰ったそうだが、死んで往く浄土をもつことによって、いま生きていることの意味の深さを味わえるのであった。ありがたいこっちゃ。

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オンライン版 仏教辞典

垂名示形

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御開山のご著書はめちゃくちゃ難しい。
そこで、この道の先輩方は種々の名目の補助線を示してお聖教の理解を助けるように工夫されてこられた。

そもそも、口に称えられ聞える〔なんまんだぶ〕は何処から来るのかという説明に先達は「垂名示形」という概念を示して下さっていたのでwikiarcに追記してみた。

垂名示形
すいみょう-じぎょう  漢音では、すいめい-じけい。

垂名示形(名を垂れ形を示す)。名を垂れるとは、一切衆生を済度しようとする法蔵菩薩の願心が、南無阿弥陀仏という名のりとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。形を示すとは、一如より来生した法蔵菩薩の誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。
『一念多念証文』には、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを南無不可思議光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。(一多 P.690-P.691)

とあり、法蔵菩薩が「無碍のちかひ」を建立して阿弥陀仏となられた「仏願の生起本末」を説かれている。この「一如宝海よりかたちをあらはして」が示形であり「法蔵菩薩となのりたまひて」南無阿弥陀仏を成就され名号(名のり)としての活動相を垂名と真宗の先達は示されたのであった。
以下はwikiarcとその関連リンクを参照されたし。
「垂名示形」

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横と竪(よことたて)

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仏教は八万四千の経といわれるように、膨大な経典がある。仏教は迷いを病に喩えて、その病を八万四千に分類し、それを対治(治療)する法も自ずから八万四千の病(迷い)に対して、八万四千の治法の根を説くとされる。いわゆる各人各人に応じた対機説法である。 →(智度論)

このような膨大な仏教思想の真意を解釈する手法が「教相判釈」であり、小乗と大乗の経が混然として同時に流入したシナの仏教徒にとっては、真と仮を判断する「教相判釈」は必須のいとなみであった。
このような教判を承けて確立されたのが、御開山の「二双四重判」の教相判釈であった。道綽禅師の「聖浄二門判」を承けての「横」と「竪」の教判である。
例せば、竹の中という煩悩の中にいる虫が、硬い竹の外という煩悩の寂滅した仏陀のさとり(空)に出る方法には二種の方法があるというのである。

一つには、本願力回向の願力によって「横」に竹を超断されてさとりの界への往生とする「横超」の他力のご法義。もうひとつは、竹の外側は硬いから食い破ることは出来ないので、内部の薄い節の部分を自力で食い破って52段という仏陀になる階梯を順次に修行しようという「竪超」の法義である。
御開山は、この横の「横超」の宗義を「誓願一仏乗」とされたのであった。

御開山は『般舟讃』を引文して、

門々不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんための利剣は、すなはちこれ弥陀の号なり。(行巻 P.169)

と、なんまんだぶは、曠劫よりの罪悪生死の煩悩を切るとされている意からもこの竹を横断する譬喩が生まれたのであろうと思ふ。

→「二双四重

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