安芸の蓮崇

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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浄土真宗の門徒が拝読(声に出して読む)するお文(御文章)を、教化に使うことを発意したのは『天正三年記』によれば、安芸の蓮崇であった。

越前の吉崎の御坊にて彌(いよいよ)佛法ひろまり申し候て、「御文」を御つくらせさふらふ事は、安藝法眼申させさふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び、百の物を十に選ばれ、十の物を一に、早く聞分申樣にと思しめされ、「御文」にあそばしあらはされて、凡夫の速かに佛道なる事を、おほせたてられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化、今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事に候也。 (『天正三年記』p.637)

蓮崇は、真宗の坊さんによって破門された悪人と言われる事が多いのだが、北陸の地で爆発的にご法義が伝わったのは在野の門徒のパワーによる面も多々あったのであろう。浄土真宗は「在家仏教」であったからである。

と、いうわけで、wikiarcの「安芸の蓮崇」の項に追記。

「安芸の蓮崇」

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聴聞

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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言葉は受容する側の態度によって変遷するという意で、

「お聴聞とご聴聞」(*)

というタイトルでブログ(WebをLogする)を記したこともあるのだが、某所で聴聞という語について考察していたのでwikiarcの「聴聞」の項に追記してみた。
御開山は、関東の門徒にあてた『一念多念証文』や『唯信鈔文意』で、

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

と、「文字のこころ」という語を使っておられるのだが、文字のこころとは、個々の漢字の持つ多義的な概念を指すのであろう。御開山の主著は漢文の『教行証文類』であるが、読み下し文だけでは御開山の見ておられた世界は判らないし、漢文を直読してもなおさら意味が不明だ(笑
とりあえず、個々の語によって窺うしかないのでが、聴聞という語について考察してみた。

→「聴聞」

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