乗大悲願船 浮光明広海

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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タイトルは、『教行証文類』の、行巻で、御開山が、なんまんだぶを勧める文からの引用であり、

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。 (*)

からの文である。
浄土教における乗船の譬喩は、龍樹菩薩の『十住毘婆沙諭』(*) を引いて、曇鸞大師が『論註』で顕わされている。

「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。
一には外道の相善は菩薩の法を乱る。
二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。
三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。
四には顛倒の善果はよく梵行を壊つ。
五にはただこれ自力にして他力の持つなし。
かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。
「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。(*)

阿弥陀如来の本願力による救済を、「仏願力に乗じて」と、易行道として乗船の譬喩によって顕わされたのである。
そして、その易行ということは、口に仏名の、なんまんだぶと称えることであると確定されたのが善導大師である。いわゆる「一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」(*)である。
この文の、「かの仏願に順ずるがゆゑに」の文によって回心されたのが法然聖人であり、御開山聖人であった。なんまんだぶを称える行業が「仏願に順ずる」救いの法であるからである。

しこうして、大悲の願船に如何にして乗るべきの道程を説く団体があるようである。いわく、

>>yamamoyamaさんのブログから引用(*)
「大悲の願船に乗ずる道のり」は、善導大師は「二河白道」の譬喩で説き、親鸞聖人は阿弥陀仏の三つの本願で明らかにされている。永遠の相を帯びてゆるぎない、「三願転入」の教導である。
本書は特に聖人の「三願転入」のご指南を奉じて、些少なりとも要望に応えたいと思う。(後略)
(なぜ生きる2 P4 まえがきより)
>>引用終

誤解と錯覚ここに極まれりなのだが、御開山が力を尽くして「行文類」で顕わしてくださった「ただこれ、(なんまんだぶを称える一行の)誓願一仏乗なり」(*)の《乗》の誓願一仏乗の意味が理解できなかったのであろう。大乗とか小乗、あるには二乗、三乗というように仏教では 《乗》の字は教法を示す語である。それゆえ、「乗大悲願船 浮光明広海」の語は、なんまんだぶを称えよという「行文類」で示されるのである。「大悲の願船に乗じ」る教法は、なんまんだぶを称えることである。なんまんだぶを称えていることが、そのまま「大悲の願船に乗じて」いるのである。

御開山が「教文類」で、

是以 説如来本願為経宗致。即以仏名号為経体也。(ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(*)

と示された大無量寿経の「経の体」が浄土真宗の体である。この名号を称える衆生を摂取して捨てないというのが御開山が示された浄土真宗のご法義である。
あまりにも易行で信じ難いから、大無量寿経には「易往而無人(往き易くして人なし)」(*)とある。
本願に選択摂取された、なんまんだぶを称えて往生成仏の仏果を得させしめるのが浄土真宗の御法義である。これが阿弥陀如来の《本意》であるから「本願中の王」(王本願)(*)と法然聖人はいわれたのである。
しかして、この第十八願の「念仏往生の願より出で」(*) た教法を理解できない者のために、如来の本意ではないが第十八願の仏智の顕現する名号の界(さかい)を理解できない者も、捨ててはおけないと建立されたのが、第十九願、第二十願の仮の願であった。第十八願の真である真実の仏智を理解できない者のために、本意ではないけれども阿弥陀如来の本意を理解できない自力の行者のために、仮の願を建てられたのが、第十九願、第二十願である。阿弥陀如来の御本意である第十八願を受容れられない者をも化土までは連れていこうという仮の願である。
御開山は『大経讃』に第十八願の意を、

(60)
弥陀の大悲ふかければ
仏智の不思議をあらはして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかひたり (*)

と、わざわざ第三十五の願を出されているのも、四十八願を総摂する阿弥陀如来の御本意の願は第十八願であるという意である。

三願転入を論じる輩は、名号に乗せられた真実信心を、いまだかって想起したことがないのであろうや。同じ浄土門風の虚偽の教えを信奉し、救われない道を歩む者がいることは悲しいことではある。

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風にふかれ信心申して居る

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBへの投稿を少しく判りやすくしてみた。

詩人という存在は、ふだん我々が使う言葉と違った言葉遣いをみせてくれるので面白い。ともすれば詩人は短い言葉という表現の制約のためか技巧にはしると綺語になり、嫌味を感じさせる詩もある。綺語とは仏教の十悪の中の口の四悪、妄語・両舌・悪口・綺語の中の綺語で、うわべだけ美しくかざった言葉のことである。御開山は盛んに今様形式の和讃を作られたのだが、和歌を作らないのは和歌に綺語という耽美的な技巧を感じておられたのであろうとひそかに思ふ。

それはそれとして、自由律俳句の尾崎放哉の句に、

風にふかれ信心申して居る

という句がある。
放哉の持っていた信仰は知らないのだが、言葉は作者の手許を離れたら、受け手による自由な解釈が許容されるものであり、言葉の受け手の感性によって言葉を咀嚼する自由があるのだと思ふので少しく考えてみる。

本願を信じ念仏を申す、これが浄土真宗のご法義である。阿弥陀如来の側からいえば、信じさせ称えさせる、である。
御開山は『教行証文類』の「行文類」の冒頭で、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、示しておられる。我々は現在使われる『教行信証』という言葉に引きずられて、単独の《信》なるものがあるように錯覚しているのだが、御開山が「教文類」で「往相の回向について真実の教行信証あり」とされている書物の名前は『顕浄土真実教行証文類』であった。古来から題号は書物の大綱を示すといわれるが、いわゆる行から信を別開された書が『教行証』である。永遠なる救いの法である名号法(なんまんだぶ)の、《教》えと《行》業と《証》(あかし)果という教法を、有限な存在である林遊が、なんまんだぶと受け取ったときを《信》というかたちで別開されたのが「信文類」であろう。
ともあれ、行を離れた信もなければ信を離れた行もない。大悲の願(第十七願)によって起こされつつある如来の信心である名号の大悲の風が、放哉に届いたとき、「風にふかれ信心申して居る」という句になったのであろう。大悲は風のごとく信心として放哉に届いていたのであろう。

さて、浄土真宗には「行信論」というややこしい概念があり、回向された、なんまんだぶを称えるという《行》と、それを受容した《信》である仏心との関係をあれこれ論じられてきた。行は信であり信は行なのだが、どちらかといえば職業坊主は信の理屈を強調し、門徒は口に称えられる、なんまんだぶによって日々の日暮らしをしてきたものではあった。これが「大悲の願(第十七願)より出でた」、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」という「至心信楽の願」である。

御開山は本願文の三心(信)を釈し、

「真実信心 必具名号(真実の信心はかならず名号を具す)」

とされる。
この信心と名号の関係を放哉が、「風にふかれ信心申して居る」と詠じた句と重ねて味わうと、よりいっそう、なんまんだぶの味が深くなるようではある。

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大豆(まめ)ぬすみ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗の古参の門徒は、あさましいとか恥ずかしいという独白をしたりする。
独白であるから自己内対話であって外へもらすような言葉ではないのであろう。浄土真宗のご法話では譬喩や例話などを語るのであるが、これを自分の話と聴けるようになることを古来から「耳を育てる」といっていたものである。
人にばれなけれがよいのではなく、人を超えたものを感じる時、あさましいとか恥ずかしいという思いがわくのであろう。このようなお育てが世俗の倫理観を超えた浄土真宗の倫理観であろうと思ふ。

四十五
大豆(まめ)ぬすみ

一 中むかし書にも見えたるたしかなるいさぎよき噺しなるが 百姓佐平
といういふもの家まづしくして 夫は他国へかせぎに出(いで)て久しく家にかへらず 妻は三才に成小児と家に居けるが いさゝかの賃銭にてやとはれあるきけれどもいよいよまづしく 親子両人たへがたき貧苦より貧のぬすみ心出て 人の畑の大豆をむしりてぬすみかえらんと 人の寝しづまりて丑みつごろに三才になる小児をつれて畠ある所へゆきて 母(かか)はそちをもたべさすため大豆をぬすみに来たりしゆゑ 其方(そち)は道に立て居て人はこぬかと見て居よといひつゝ 畑の中に入大豆のさやをむしりてたもとの中へおしこみおしこみ小声になりて だれも来はせぬかといへば 小児のこたへには たれも人はひとりも来りはせぬ 御月様が見てござるばかりじやといふ 母親畠にありながら小児がいひし一言むねにこたへ 其むしりてたもとにあるさやまめをそのまゝ両袖に入れながら三才の小児が手をひき 家にもかへらず大豆の畑主の家にゆきて 夜ともいはずたゝきおこして そのあるじに はじめおはりを打ちあかしてあやまり入たれ 人は見て居ずとも天の月日の見て居たまへるはおそれざりし心中こそおそろしけれと ざんぎさんげのなみだにむせびひれふしければ 畑ぬしも自身の心中にひき合せて ぬすみし大豆はその小児にくれたりとぞ 小児何ものぞ天にくちなし人を以ていわしむる 母なに人ぞ小児の一言にて悪心をあらためたるは善女人なりけれ

通俗『仏教百科全書』第三巻 第四十五より。

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