会員VS脱会者

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このブログ、なんか大変だな。(*)

高森会の会員は堕地獄の恐怖から逃れる為に信心を得ることに狂奔し、脱会者は、必堕無間のマインドコントロールの恐怖が抜けないから、在籍していた会の教義を否定する『聖典』の文にしがみつく。
これって、どちらも助かりたいという、我利我利亡者の我欲の煩悩の発露にしか過ぎないのだと思ふ。浄土真宗のご法義は、「本願を信じ念仏を申せば仏になる」という、非常にシンプルかつ易行の最たるご法義ですよ。順彼仏願故の、なんまんだぶが、往生浄土の正定業(正しく衆生往生決定する業因)であることを受け入れるのが、浄土教の御信心です。
高森会の会員及び脱会者の最大の欠点は、口称の、なんまんだぶ抜きで如来から回向される御信心を論じることでしょう。『無量寿経』には、易往而無人(往き易くして人なし)とありますが、なんまんだぶを称えることに依って往生成仏するという教説は、あまりにも易往であるから難信なんでしょう。
信心とは御開山に言わせれば、願作仏心・度衆生心の菩提心であり、阿弥陀如来の菩提心に包まれて、なんまんだぶを称えて浄土を期するというご法義が浄土真宗です。善導大師は「学仏大悲心」ということを仰いましたが、もしお聖教に教えを学ぶということであれば、我を拯済しつつある、仏の大悲心を学ぶのであって、自らが信心を拵えようとして、お聖教を拓くのではないと思います。そんな事を、現役会員VS脱会者の投稿を読んで思ったので、TBしてみた。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

なんまんだぶ、最強

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『登山状』という法語を読んであれこれ編集したり末註を書いたり。(*)

『登山状』とは、従来の価値観を破壊するような、全く新しい仏教を提唱した法然聖人への批判に応答する為に、既成仏教の本山である比叡山へ出した書状である。

いわゆる、延暦寺衆徒をはじめとした専修念仏に対する弾圧を和らげるために書かれた書状で、法然聖人の請によって聖覚法印が代書したものといわれる。
聖覚法印は、父、澄憲法印とともに、安居院流と呼ばれる唱導(お説教)の流派を開かれた方で、故事来歴の自由自在な引用や、流麗な七五調の語りには定評があった。
さて、件の『登山状』には、釈の雄俊という、シナの坊さんの話がある。いわゆる往生伝の説話で、『瑞応伝』には次のようにある。
僧雄俊第二十一
僧雄俊姓周。城都人。善講説無戒行。所得施利非法而用。又還俗入軍営殺戮。逃難却入僧中。
大暦年中。見閻羅王判入地獄。
俊高声曰。雄俊若入地獄。三世諸仏即妄語。
王曰。仏不曽妄語。
俊曰。観経下品下生。造五逆罪 臨終十念尚得往生。俊雖造罪。不作五逆。若論念仏。不知其数。
言訖往生西方。乗台而去。

上記の漢文を意約してみる。

シナに雄俊という坊主がいた。
口だけは達者なのだが、戒律を守って修行することもなく、信者から得た布施はろくな事にしか使わないという、まるで真宗坊主のような坊主だ。
坊主が嫌になってので軍隊に入って、一方的に多くの人を殺したあげく、追求を逃れる為にまた教団にもぐりこむような坊主であった。

そのうち死んで、閻魔大王の裁きを受けることになった。

閻魔 この閻魔帳によると、お前は、坊主のくせにろくなことをしとらんから地獄行き決定な。

雄俊 うわわああ、閻魔さん、そりゃないやろ。俺が地獄行きなら仏さんは皆な嘘付きじゃあぁぁぁ。

閻魔 ボケッ、お前は何を考えとんじゃ? 仏さんは未だかって嘘付いた事などないわい。

雄俊 ほんなら、『観経』というお経に、親殺しなどの五逆罪の者でも、十回、なんまんだぶ称えたら極楽へ往くと書いてあるんは嘘なんか。俺も相当の悪やってきたけど、さすがに五逆罪はやっちょらん。また、なんまんだぶなら自分でも覚えてないくらい称えたぞ。お経には嘘が書いてあるなら仏さんは嘘吐きじゃあああぁぁ!

と、雄俊が言い終るか終わらないかのあいだに、西方から金蓮の台が飛んできて、雄俊を乗せ、あっという間に極楽へ往きましたとさ。

信心とか宗教とかいう字さえ知らず、無知なるが故に、坊主という信心を売り物にする高等遊民に、搾取され続けてきた歴史を持つ林遊のような門徒には、胸きゅんとなる話ではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

西方指南抄

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『西方指南抄』という、御開山が書写された法然聖人の法語集の全六巻の編集がほぼ終わった。
法然聖人の法語と称する物には偽作、真偽未詳なものが多いと言われている。書誌学的にはあれこれ論じられることがあるらしい『西方指南抄』だが、親鸞聖人の転写であり、御開山の眼を通っているのが安心ではある。
読んでて思うのだが、法然聖人は対機説法(相手の理解力に応じて話をすること)が上手だった。この事は、誰でも仏に成れるという、浄土宗(教団名ではなく教法名)を、初めて開宗されたので、それに対するあらゆる非難に対処されたという面もあるのだろうが、法然聖人の頭の良さと懐の深さというものを感じさせる。
宗教の世界は、世間とか自己と他者との関係とかではなく、自己自身の存在そのものが問題になった時、開かれる門である。まさに越前永平寺の道元禅師が言われるように、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。」である。経・釈(お経やその解説書)によって、仏の法を理解することは可能であろうが、その仏法が私にとって、どのような実践として与えられているのかに悩み、比叡山において、智慧第一の法然房と称されながら、自己の出離の道を見出せなかったのが法然聖人であったのであろう。
御年、四十三にして、悩み悩みながら仏典を繰り、シナの善導大師の『観経疏』散善義の「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故」の、順彼佛願故の文にぶち当たって、浄土へ往生する業因は、口称の、なんまんだぶ一つというカルチャー・ショックに遇われたのである。
天才の凄いところは、これだ、と思い立ったら、学んだ学問を全て捨てて、市井の、なんまんだぶを称える人と同じ地平に自分を投擲できるのである。

この原点に立ちながら、順彼佛願故の意味を追求し、それは本願力回向であると「論註」の用語によって他力という用語の真の意味を示されたのが御開山親鸞聖人であった。

ヒステリアンシベリアカ

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シベリアで何十年も百姓をしてきた農夫が畑を耕していて、
ある日ふと地平線を見上げるとちょうど夕陽がはるかな西の地平線に沈みゆくところであった。
それを見たとたん、突然手にした鋤を投げ捨て、自分の家族や自分の関わってるもの全てを投げ捨て、ただひたすらその夕陽に向かって歩き出す。
ヒステリアンシベリアカというそうだが、20年位前にパソコン通信で目にした話ではある。

同じように突然西方へ向かう人の話が、
『今昔物語集』19-14に「讃岐國多度郡五位、法をききて聞法即ち出家せる語」にある。
悪の限りを尽くしてきた源太夫が、ひょんなことから西方浄土を知り、悪の限りを尽くした者でも阿弥陀仏という名号を称えれば、仏になるということを聞いて、即座に発心出家して「阿弥陀仏よや、を~いを~い」と称えながら、ひたすら西方を目指し歩き続けて往生したという説話である。
http://www.geocities.jp/yassakasyota/konjyaku/konjyaku.html

芥川龍之介の『往生絵巻』は、この説話に題をとった作品である。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/117_14836.html

西方に沈む夕日は、耽美的な美しさ同時に、自らの心の底にある本当の願い、人間が生まれて来たという、根源的な意味を問いかけるものでもあるのだろう。

子供の頃に、美空ひばりが歌う「花笠道中」の、♪西へ行くのは こっちかえ~という歌に、西方には真実の国があるんだなと思いながら口づさんだものだった。

廃悪修善

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御開山の仰ることは重層的なので非常に判りにくい。
「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」『歎異抄』という非常にシンプルな教えなのでだが、シンプルであるがゆえに誤解する者も多い。
中には、浄土真宗は廃悪修善を勧めないから、おかしいという意見もあるのだが、この廃悪修善について、善導大師、法然聖人、御開山聖人のお示しを窺ってみよう。
まず、善導大師は『観経疏』「玄義分」で、

娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす(息慮以凝心)。 「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す(廃悪以修善)。この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(*)

と、要門と弘願ということを示して下さった。
ここで、要門とは、即慮凝心と廃悪修善であり、弘願とは阿弥陀仏の大願業力に乗ずることであると善導大師は定義される。
この文の解釈が、定散二門の行をもって弘願に乗ずるのであるか、それとも要門という法義と弘願という法義の二つの法門を指すのかに解釈が分かれた。

例えば、鎮西派の良忠上人は、「第四、問何名要門弘願耶 答、要門者定散二善 即往生之行因也。故文云 迴斯二行。弘願者 彌陀本願即往生之勝縁也。故文云 爲增上縁。是則因縁和合 得往生果也」『淨土宗要集』(*)
(第四。問う、何ぞ要門・弘願と名づくや。答う、要門は定散二善、即ち往生の行因也。故に文に斯の二行を迴してと云う、弘願は彌陀の本願、即ち往生の勝縁也。故に文に増上縁と為すと云。是れ則ち因縁和合して往生の果を得る也。)

と、され、要門と弘願は、因と縁の関係にあり、要門(因)と弘願(縁)が相依って往生の(果)を得るとされている。これは増上縁を、仏果を引く優れた縁と解釈し、定・散の二行を回向して阿弥陀仏の大願業力に乗ずるのだとされている。
これは常識的な見方であり、当然、廃悪修善という行が、往生の行に含まれているというのである。
以下の、七仏通誡偈にあるごとく、

諸悪莫作(もろもろの悪を作すこと莫く)
衆善奉行(もろもろの善を行い)
自浄其意(自ら其の意<こころ>を浄くす)
是諸仏教(是がもろもろの仏の教えなり)

という、廃悪修善は、仏教上での常識的な解釈であろう。

ところが、法然聖人には廃悪修善について以下のような法語がある。

ある人問ていはく、つねに廃悪修善のむねを存して念仏すると、つねに本願のむねをおもひて念仏するといづれかすぐれて候。
答ての給はく、廃悪修善は、これ諸仏の通誡なりといへども、当世のわれらことごとく違背せり。若し別意の弘願に乗ぜすは、生死をはなれがたきものか。『諸人伝説の詞』(*)

一。つねに悪をとどめ、善をつくるべき事をおもはへて念仏申候はんと、ただ本願をたのむばかりにて、念仏を申候はんと、いづれかよく候べき。
答。廃悪修善は、諸仏の通戒なり。しかれども、当世のわれらは、みなそれにはそむきたる身なれば、ただひとへに、別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智、持戒・破戒をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候なり。御意え候へ。『一百四十五箇条問答』(*)

或人問云、常存廃悪修善旨念仏与、常思本願旨念仏何勝哉。
答、廃悪修善是雖諸仏通戒、当世我等、悉違背、若不乗別意弘願者、難出生死者歟云云『一期物語』
( 或人問て云く、常に廃悪修善の旨を存じて念仏すると、常に本願の旨を思い念仏すると何れが勝れたるや。
答、廃悪修善は是れ諸仏の通戒といえども、当世の我等、悉く違背せり、若し別意の弘願に乗ぜずば、生死を出で難きものか。云云

廃悪修善は諸仏の通誡(七仏通誡)ではあるが、「当世の我等はことごとくこれに違背」していると仰るのである。黒田の聖人へつかはす御文には、「罪は十悪五逆のものむまると信して、少罪おもおかさしとおもふべし」(*)とあるが、悪を廃することの重要性を知りながら、その上で、悪を廃することのできない凡夫の現実の姿を直視されておられるのである。
七仏通誡偈をめぐっては、白居易と鳥窠道林のエピソードにもあるように、実践の場に於いては<判る>と<出来る>は違うのである。
これを誤解すると七仏通誡偈は単なる世俗の道徳に陥ってしまうであろう。

さて、法然聖人は上記の法語で「別意の弘願」ということを仰っておられる。
これは、あきらかに前記の良忠上人の解釈とは違い、善導大師は定散の「要門」(廃悪修善)と「別意の弘願」(阿弥陀仏の大願業力に乗ずる)という二つの法門を示されていると領解されていた。法然聖人は、善導大師の『観経疏』は『無量寿経』の本願の意をもって『観経』を解釈さたと見られたのである。つまり、釈尊は韋提希の請によって浄土の要門を開き、阿弥陀仏は別意の弘願(特別な願=第十八願)の法門を顕された、と見られたのである。これが「若し別意の弘願に乗ぜすは、生死をはなれがたきものか」の述懐である。

御開山は、この法然聖人のお示しを受けて、要門と弘願を『観経」の法義の要と『無量寿経』の法義の弘願という二門の法義に分判されたのである。
そして要門を第十九願の法門であるとし、弘願門を第十八の願であると見られたのである。無量寿経の第十九願の「発菩提心 修諸功徳」は、まさに七仏通誡偈にあるごとく、聖道門仏教の願行を以って浄土を欣わしめる法門であるから、要門とされたのであろう。行は願によって転ずるといい、その願うところによって行の意味が変わる。この土で覚りを得ようとする聖道門の行をもって、浄土を欣わしめる法門であるから『観経」の「三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。」(*)といわれたのである。
なお、この欣慕の語は、「散善義」の深信釈、第三深信の観経深信「また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。」(*) からであるのはいうまでもない。

このように見てくると、一部の三願転入派の、第十九願を経て第二十願に入り、そして第十八願に転入するというプロセスという考え方はおかしいのである。三願は、全く違った法門であるから御開山は転入と仰ったのであり、各プロセスの果てに第十八願の法門があるのではないのである。

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (*) 

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

詩のはなし

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通常のコミューケーションの道具としての言葉ではなく、自己の内面から沸き起こるリピドーを言葉に変換したものが詩であろう。
他者に、理解してもらおうとか、言葉を共有しようという思いのない言葉が詩なのである。

タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
ワタシハコノママデヨカッタ

竹部勝之進という、求道放浪の末に、氏の脳裏をよぎった詩であろう。

意訳というか、主語を付加して味わってみる。

(阿弥陀さまによって) タスカッテミレバ
(私の想いで) タスカルコトモイラナカッタ
ワタシハコノママデヨカッタ

「ワタシハコノママデヨカッタ」というところで、世俗の論理に苦しむ者の救いがあるのでろう。
アナタハ、アナタノママデ、イイノデスヨと教説が慈悲の至極としての浄土真宗である。阿弥陀さまがご一緒であるから。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、この広大な世界から届いてい名号を理解できる人は少ないな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

なにしてる?

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『淨土法門源流章』タッチ中。
http://goo.gl/Zq0GV
固有名詞が頭に入っていないとワケが判らんな。
幸西大徳の一念義は、非常に御開山と近いので面白い。
覚如上人は、幸西門下で学んだことがあると聞いた事があったが、「信心正因 称名報恩」は、一念義くさいと思ふ。(これはこれで、当時繁盛していた多念義の張本である鎮西浄土宗への対抗意識があったのだと思量するけど)
しかるに、御開山のお心では、『西方指南抄』にあるように「信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべし」だと思ふ。
http://goo.gl/eQz7K

唯円坊のいうように、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。」なのであるが、昨今、なんまんだぶを称えない坊主が多いのは困ったものである。
自覚という、ありものしない「信心」とやらを説いて、断絃を揆して清音を責めようというのであろうか。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

という、本当の念仏成仏を説かずして、架空の信心を説いているから、坊主は下記のキリスト教の笑い話のように世間でも揶揄されるのであろう。

>引用
★感動させる説教者

ある司教が有名な俳優に尋ねた。「我々説教者は人間に本当に必要なことを説いてもなかなか理解してもらえないのに、あなたがた役者さんたちは舞台上の作り事で人々を深く感動させることができるのはどうしてだろうか」

俳優は答えた。「わたしたちは架空のことを本当のことのように語っていますが、聖職者のみなさんは、本当のことを架空のことのようにお話しなさってるからですよ」
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/joke/joke02.htm
>引用終

リストカットするお姉ちゃんや、明日が見えない派遣労働で働く若者や、災害で家族を亡くして慟哭する人に、安心とか信心とか説いても間にあわんではないか。
意味とか訳が解からなくてもいいのですよ、掌’(たなごころ)をあわせて、なんまんだぶを称えましょというのが、「諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす」の緊急のご法義であろう。いま苦しんでいる人に届かないようなご法義なら、愚者の為の浄土真宗のご法義ではないはずである。

と、酔っ払っているからどうでもいいが、なんまんだぶは最強ではあるな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし

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なんまんだぶという、行に就いて信を立てる、「就行立信」に関する法然聖人の御法語である。

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『聖全』四 p191 『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)(*)

「ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。」(『聖全』四 p580 『和語灯録』の「往生大要鈔」)

「心の善悪をもかへり見ず、つみの軽重を沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこすべき也」『聖全』四 p614 「浄土宗略鈔」)

「ただ心のよき・わろきをも返り見ず、罪のかろき・おもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、声につきて決定往生のおもひをなすべし。その決定の心によりて、すなはち往生の業はさだまる也」(『聖全』四 p754 ご消息)

「声について、決定往生のおもいをなすべし」とは、南無阿弥陀仏と称えたら必ず声が耳に届いてくる。その声が、なにゆえ往生決定の行となるかといえば、なんまんだぶと称え聞くことが、本願の行を行じているからである。
阿弥陀如来が念仏一行を選び取って、この念仏する者は浄土に往生させるという、本願に相応した行だからである。
行に就いて信を立てる(就行立信)とは、念仏を称えた者を往生させるという念仏往生の本願(第十八願)を信ずることである。阿弥陀如来が決定しているから、衆生の決定往生なのである。本願を信じ念仏するのである。

法然聖人は「浄土宗略鈔」では「声について」を「仏のちかひによりて」と、仰っている。「声について」と「仏のちかひによりて」は、同じ事だというのである。自分の口から称えられる、なんまんだぶはを聞くということは、そのまま如来の誓い(本願)を聞いていることだと仰るのである。

深川和上は、「なんまんだぶのワケはなぁ、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ、ということじゃ」と、お示し下さった。
「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよびごえ」と原口針水和上も讃詠されておられるように、なんまんだぶは称えて聞くものである。

法然聖人は、『選択本願念仏集』で、なんまんだぶという行は、「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。」(*)と仰せである。主著の、『選択本願念仏集』は、まさにその名のごとく、本願に依って選択された念仏を顕さんが為の書である。念仏は、本願によって往生行と選定されから、衆生の側から回向する必要はなく、称えるままが自然に往生の業因となるのである。
この、 「自然に往生の業となる」とは、実は阿弥陀如来の本願力回向であるとされたのが御開山であった。天親菩薩の『浄土論』と、その解説書である曇鸞大師の『浄土論註』の本願力回向によって、不回向とは本願力回向を顕すことであったとされたのである。如来の本願力によって回向されるから衆生の側からは不回向なのである。

御開山は『浄土文類聚鈔』で、「聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。まことにこれ選択摂取の本願、無上超世の弘誓、一乗真妙の正法、万善円修の勝行なり。」(*)と、不回向を、選択摂取の本願とか無上超世の弘誓などとされていることからも分る。
また、「行巻」の六字釈自釈で、「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。」(*)と仰るのも、このような法然聖人の意をうけられたからであろう。

越前の道元禅師は『弁道話』の中で、「口声をひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし。」(*)と、云われたそうだが、たしかに自力の行として口称のなんまんだぶを捉えるならそのように見る事もできるであろう。現代人もまた、本願力回向の、称えて聞くという名号を知らないから禅師と同じように念仏を蛙の鳴き声のように理解しているのであろう。
越前の黒田沐山居に以下のような詩がある。

ききつつぞ 足をの(伸)ぶれば
たらちね(母)が もも(腿)のあたりか
ぬくぬくし ころ(児)が あなうら(蹠)
……ちぢに鳴く
田のかはず(蛙)めは おも(母)よ なに……
……彼こそは はうずびく(法蔵比丘)よ
おぼろよ(夜)に
むらの人どちやす(寝)むまも
おもひ くだ(砕)かす ぼさつ(菩薩)どち なれ……
黒田沐山居 『かはづ抄ー南無母の歌』

母ちゃんと寝床に入いり、寝物語を聞きながら、だんだん足をのばしていくと、足の裏が母ちゃんの 腿のあたりにふれてとても温かい。
蛙の鳴き声が聞こえる。
「母ちゃん、田んぼでぐわぁぐわぁ鳴いているあの蛙は何?」
「あれは法蔵比丘だよ。おぼろ夜に、村の人々が寝ている間も、みんなのために心を砕いて思いをかけていてくださる菩薩さまだよ」

雪解けの遅い北越で、春冷えのする夜の母と子の会話である。「春の田の蛙の昼夜に鳴く」声にもなり、聞こえて下さる「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」との呼び声であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…… こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。これが仏願を聞くということである。

念仏と呪術

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[念仏と呪術」──念仏=呪術論争をめぐって──
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4422/1/91389_155.pdf

を、読んでみた。ついでにテキスト化してみたが文字化けするので手間取った。
家永三郎氏は、念仏呪術論を展開するのだが、「自然界を人間生活に役立てるための自然科学的法則を基礎におく技術、あるいは、人問社会を合理化していくための社会科学的法則」という、いわゆる現代知識人の目でしか、口称の<なんまんだぶつ>を捉えていないのだなと思ったものである。
宗教の世界は、わたし一人という世界ではたらく主体的な原理なのであって、客観性などどうでもいい世界である。しかし、そこを通らなければ、また自己を主体とした世界も味わえないのではなかろうか。

昔の田舎の門徒は、なんまんだぶ、ありがたい、なんまんだぶ、ありがたい、と、念仏と感謝を交互にお念仏を称えていものである。このようなお念仏は、称えるというより聞く念仏である。阿弥陀如来は、無上(*)であり浄土は無上涅槃(*)、そして、念仏も無上功徳(*)である。
無上とは有上に対する言葉であって、この上が無いということである。仏も無上、浄土も無上、念仏も無上である。
無上である、なんまんだぶは、阿弥陀如来が、浄土が、我が身の上に顕現してはたらいている相状である。
言葉を超えた本願の世界から、再び言葉となって、私の身の上にはたらき続けている大利無上の功徳が、なんまんだぶである。
あり得ない事が、我が身の上の事実として起こっているから、なんまんだぶ、ありがたいなのである。

ひく足も 称える口も 拝むて手も
弥陀願力の不思議なりけり (寂如上人)

お聴聞に参る足も、なんまんだぶと称える口も、阿弥陀さまを合掌する手も、本願力が現に身の上に、はたらいて下さってある相(すがた)である。
だから、不思議なのである。この願力不思議がはたらいているから、有る事難しで、ありがたいなのである。

なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいなあ

フェティシズム

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仏教の縁起とか空などという概念は判りにくいが、以下の文章は判りやすかった。
縁起とか空とは、モノを実体化する思想に対するアンチテーゼである。
このような実体化/実体視を、フェティシズム(物神化つまり実体化)という形で考察しているのは面白い。

引用元:瓜生津隆真師著『龍樹ー空の論理と菩薩の道』p.100~
>>引用開始

ナーガールジュナが縁起をどのように説いたか、それを一口でいうと、縁起とは、①空であり、②相依性である、ということであろう。空とは、ものはすべてそれ自体として存在するのではないこと、すなわち実体(あるいは本体)はないという否定を示している。相依性とは、ものはすべて相依相関の関係にあること、すなわち相互依存の関係性を示している。したがって、縁起が空であるというのは、自己をはじめこの世界はすべて原因や条件によって生じ、また滅するのであって、それ自体として生ずるのでなく、また滅するのでないことを示している。

また、相依相関、相互依存の関係性とは、ものはすべて相互関係や因果関係などの関係性の上に成り立っているのであって、原因や条件などが即自的に(それ自体として)成立し、存在しているのでないことを示しているのである。

このようにものやものごとは、互いに因となり縁となって成立しているのであって、深いつながりのなかに存在し、成り立っている。
しかし日常的思考や思惟の立場では、自他を区別し、対立的にとらえ、とらわれている。その結果、自己や他者をそれぞれそれ自体として実体化し、固定的に見ている。ちなみにこのような考え方は、現代の問題としてフェティシズム(物神化)の上に見ることができよう。物神化とは、この実体化ということが根底にある。

たとえば価値という関係の体系がある。そこへ貨幣という中心が登場すると、その「中心化によってそれぞれの商品があたかも個としての実体であるかのごとき錯覚が生れ、関係性が隠蔽されて個々の商品が実休的・自存的価値を内在させるように見えてくる」三九ページ(丸山圭三郎著『文化のフェティシズム』勁草書房、一九八四年)という。まさしく、これがものを実体化するメカニズムであるといってよい。

なおまた、上記の著書には、言語哲学者ソシュールの手稿を引いて、これは西欧近代思想ヘ一大衝撃を与えるものであるという指摘があり、「縁起が空性である」というナーガールジュナの中心思想を理解する上に大いに参考になる。

事物そのものに先立って事物と事物のあいだの関係が存在し、その関係がこれら事物を決定する役割を果す。……いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。 (断章番号三二九五)

丸山氏は「これを読んだ私には、従来の観念論、実在論がともに疑ってみようともしなかった<ロゴスの現前>が、ソシュールによって根底から覆されたと思えた。文化現象の一切は表象によって二次的に生み出された共同幻想の世界で、その表象すらももともとは存在しなかった関係の網の目に過ぎない、という考え方は、ヘレニズム、ヘブライズムの正道である西欧近代思想をその根底から揺さぶる」(『文化のフェテシズム』一〇ページ)と述べられる。

この丸山氏の指摘を待つまでもなく、これはナーガールジュナがすでに考えていたことであって、ただその思想の意義が後に伝わらなかっただけである。私は改めて、ナーガールジュナ研究の重要性を強く感じたのである。

もう一つ、中国浄土教の始祖曇鸞の『浄土論註』に説かれる「無生の生」ということに一言しておこう。
ごの「無生の生」とは浄土への往生のことをいっているのであるが、その思想構造は「不生の縁起」と同じであるといえる。なぜなら、「不生の縁起」とは「不生起の生起」ということだからである。往生とは、実体として想定された自己(我)が浄土に生まれることではない。そのことを「無生」ということが示しているが、曇鸞は穢土の仮名人、あるいは浄土の仮名人といって、実体としての自己を否定している。もと四論宗(ナーガールジュナ系統の思想を研究する中国仏教の学派)の学者であった曇鸞は、ナーガールジュナの思想を基盤として、浄土教の思想を実に見事に構築したのである。

>>引用終了

と、いうわけで、興味を持ったので、丸山圭三郎著『文化のフェティシズム』を読んでいるのだが、智慧熱が出そうである。
この系統の本を久しく読んでいないという事もあるのだが、レトリックというか、引用される書籍や思想用語を多用しているので、その意味を調べながらであるから、ほとんど読めていない。
おまけに著者はランス語学者であるせいかフランス語やラテン語の語彙(片仮名語)を使うので訳がわからん(笑

しかし、当たり前だと思っているモノ/コトが、実は関係性が生んだ幻想に過ぎないのだということを説く点では面白いので、出来たら完読したいと思うけど、たぶん無理だな(笑

林遊の場合は、浄土や阿弥陀如来を、ほぼ実体視している。その他にもフェチの対象はあるのだが、縁起→無自性→空ということを通って、その上でのフェチだと言うと、たぶん龍樹菩薩(ナーガールジュナ)に殴られるので言わない。

なんまんだぶという言葉は、意味にがんじがらめに縛られている存在に、口蓋下から発せられる空気振動でもある。意味の奴隷として呪縛されている自己の妄想した存在からの解放する言葉が、なんまんだぶという口に称えられる言葉なんだろうな。
もちろん、「弥陀如来は因位のとき、もはら我名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずは、なにおか期せむ。」(三部経大意)の、仏の選択したもうた行業ではあるのもちろんである。