空念仏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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なんまんだぶを称えて、生と死を超えるという、まさに、驚天動地の説をとなえたのは法然聖人であった。そのなんまんだぶを称える行為を、仏説に随順する「信」であり、願作仏心として浄土教における信を確立されたのが御開山であった。
いわゆる、浄土教における信心とは仏心であると、教行証から信を別開されたのが御開山である。なんまんだぶを称えるという行から信を別開されたのは、『浄土論註』によって本願力回向の行信から、必然に生じるのであるが、口に、なんまんだぶと称える行為(行業)を信であり、生と死を超える行(おこない)とされたのは、法然聖人の指示によって御開山が得られた結論であった。いわゆる、なんまんだぶを称えて仏になるという、あらゆる存在を仏に成らしめるという、大乗仏教の至極のご法義であった。
『大阿弥陀経』には、「わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と、あり、空飛ぶバッタの蜎飛や、地に蠢く蠕動のミミズのたぐいも、ひとたび仏の名号の、なんまんだぶを聞いて浄土に往生せずば仏に成らんとされたのが、阿弥陀仏という仏である。
しこうして、なんまんだぶを称えることで往生成仏する、ということはありえんと、空念仏ということを論じる釈に出逢ったので、暇つぶしに読み下してみた。
「但空念仏。如何生彼」という疑問を呈する1400年ほど前の慈恩大師が著されたとされている『西方要決』なのだが、法然上人は依用されること多しだが、御開山はあまり用いていなさらないのが、御開山の描いていらっしゃる信心の描く浄土なのだろと、思っていたりもするが、どうでもいいか(笑

そんなこんなで、林遊の中学生の漢文理解能力において、少しく『西方要決』の一部を訳してみたのだが、但空念仏に関しての、浄土真宗を標する、プロのお坊さんに領解を聞きたいと思ってたりもする。

以下、『西方要決』の、「但空念仏」へのリンク(*)

 

 

なんまんだぶのご法義

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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漢文と、その読み下しと現代語を合わせてお経を読んでたりするのだが、異質な言語である漢文を訓点を付けて、日本語で読もうとするってむちゃくちゃ天才のなせる技だと思ふ。
漢語は孤立語だから、一語一語に重層的な意味を持っているのだそうだが、よく、我々の先輩方は、異なった言語によって表現されている、仏教の描く世界を日本語で示して下さったものだと、少しく驚嘆していたりする日々ではある。

往生之業 念仏為本。法然聖人も御開山も、これが結論なのだが、なんまんだぶを称えたことのない、観念の遊戯をし、ありもしない信心とやらを求めることを材料にして、不浄説法をしている坊主の多いことは困ったものだ。いわゆる口説の芸能の徒なのだが、御開山聖人の報恩講(凡夫が仏になるという、阿弥陀如来の平等の大悲を説かれた恩徳の一分でも報謝する真似事をさせてもらおうという、浄土を真とする宗の行事の時期に沸いてくるので、少しく苦言を弄してみた。

浄土真宗とは、往生浄土を真とするご法義であり、第十八願の乃至十念の、なんまんだぶを称えるご宗旨であって、なんまんだぶを称えない者を浄土へ迎え取るというご法義ではないのである。

このご法義は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらす」るご法義なのである。信心とか安心とは、なんまんだぶを称える上で論じる、暇つぶしであろう。多分、御開山から叱られるであろうが、あなた様の見ておられた阿弥陀如来より回向された信心の世界は、窺う術(すべ)もないのであって、あなたの著された書物によって、その片鱗を窺うしかないのである。
御開山の見ておられた仏陀の覚りの世界は、窺うこともできない世界ではあるが、その世界から、林遊に、なんまんだぶと届いている世界から、御開山の感得せられたいた世界を、少しだけ窺うばかりである。

何はともあれ、信も行も、なんなんだぶにおさめて下さってあるご法義は、ありがたいことではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強だな。

 

阿弥陀さまの大悲

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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中国残留孤児の話で、親を探すのではない、親に探されるということを当ブログで書いた。(*)
私が仏さまを探すのではない。仏さまが私を探し続け呼び喚け続けていて下さったという話しである。このご法義は、林遊が阿弥陀さまを知るのではなく、阿弥陀さまが林遊を知って下さるご法義である。以下、梯實圓和上の言葉をUPしてみる。

阿弥陀さまの大悲

 法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。

 そうですね。やはり異なっているでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとの違いがあります。
どこが違うのかといますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている時は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られるものであり見護られている者であると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことなのでございますので、よく味わっていただきたいと思います。

果てしなき求道という道で苦しんでいる方に、よく味わってもらいたい文章である。本当に安心できるものに出遇えたから、安心して不安でいられるのであるが、なかなか判り難いことなのだろうな。

才市さんは、なんまんだぶが出来たから、我が案ずることはないと言われたそうだが、往生の一段について案ずることはないのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、この林遊になんまんだぶを称えさせる力が林遊を浄土へ生まれさせる力であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

観経を読む

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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中国撰述説もある『観経』だが、善導大師の『観経疏』によってその様相が一変している。善導大師は、この『観経』を解釈するについてあらかじめ経の要義を「玄義分」(*)一帖に著されておられる。まさに奥深い玄妙な義意を開いて見せて下さるのであった。
『観経疏』は『観経』の注釈の疏であるが、善導大師は『無量寿経』の四十八願に立って『観経』を解釈され、「玄義分」で七門に分けて、その釈意を述べておられる。
これは、一見観仏を説くようにみえる『観経』だが、その源底は『観経』の流通分に「汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名」(*)(なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)とある文によって、『観経』は阿弥陀如来の四十八願をあらわす経典であると見られたからであった。
なお、善導大師は、四十八願の一つひとつに第十八願があるとみられていた。ゆえに「深信釈」では「二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」(*)と、四十八願によって第十八願をあらわしておられた。このことは「玄義分」の次の文で判る。

一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。 いますでに成仏したまへり。 (*)

そして、『観経』は釈尊のと、阿弥陀仏のいをあらわす二尊の意図をあらわす経典であると見られたのである。たまたま提婆達多と阿闍世の逆害によって、悶絶号泣する韋提希の致請によって釈尊は、韋提希にも理解できるような衆生の上での因果である行じて証するという要門の教えを開かれたのであった。
しかるにその玄底には、衆生の理解するような因果を超えた、阿弥陀仏の別意の弘願があるとされたのである。これは、玄義分の以下の文で判る。

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。 ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」
といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。(*)

この衆生の因果を超えた救いの、阿弥陀如来の救済については、当ブログの「自業自得の救済論」(*)でも少しく述べたが、詳細は梯實圓和上の「真仮論の救済論的意義」(*)に詳しいので参照されたい。

なお、御開山は林遊の管窺によれば『教行証文類』では『観経』の文を三箇所で引文(信巻1、化巻2)されておられるだけで、ほとんどが善導大師の『観経疏』からの引文である。その引文も訓点を替えて引文されて、全く新しい御開山独自の世界を拓いておられるので、めちゃくちゃややこしい。まさに信心の智慧によって拓かれた世界であるとしかいえないのである。

そんなこんなで漢文の『観経』を読んでいるのだが(*)、『観経』の科文を『観経疏』の科文にリンクしてみた。ほとんど利用する人はいないだろうけど、自分の学びの手段としてだから、まあいいとしよう。

往生之業 念仏為本。なんまんだぶ、なんまんだぶである。

略論安楽浄土義

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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なんまんだぶのご法義では、仏願の生起本末ということをいうが、祖師方の過去の著述を読むのもありがたいことである。
と、いうわけで1500年ほど前の『略論安楽浄土義』の読み下しをUP。(*)
以下、適当に書いた『略論安楽浄土義』の説明から。

 浄土真宗の第三祖曇鸞大師(476-542)が撰述されたものといわれるが定説はみていない。親鸞聖人の著述には曇鸞大師作の『浄土論』、『讃阿弥陀仏偈』などを多く引文されるのだが、この『略論安楽浄土義』からの引文はない。なお、法然聖人(1133-1212)は、この書を曇鸞大師のものと見ておられたことは、親鸞聖人撰述の『西方指南抄』の引用の例などから判る。また、存覚上人は、『六要鈔』や『真要鈔』などで曇鸞大師のものとして引用されている。
『大経』の三輩と『観経』の九品を輩品開合(はいほんかいごう:観経の九品段は三輩を詳しく説き開いたものであり、大経の三輩段は九品を合わせ説いたということ)などが記述されており『大経』と『観経』の関係を見るうえで参考になる。また、親鸞聖人が問題とされた仏智疑惑による「胎化段」については、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智についてそれぞれ論じられているのは興味深いものがある。

浄土の荘厳の説明に『浄土論』の三厳二十九種を簡潔に述べられ、報土へ往生浄土する三輩と、その三輩に入らない仏智疑惑の輩(不入三輩)を分類されいる。
いわゆる、阿弥陀仏の報土中に「辺地」と「胎生」を明かし、自らの罪福を信じ善本を修習する者の往く処であるとする。
御開山はこれを化土とされ、自らのなした罪福(因に返せば罪は悪で福は善)に囚われ、本願力回向の仏智を信じない者を誡められた。
この書には、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を挙げ、それぞれに解説されておられる。